中
「入口のところまで、って約束だからね」
フィンは念を押しながら、開いた壁の向こうを覗き込んだ。
「分かってるって。ちょっと心配しすぎなんだよ!」
ルーシアはすでに片足を通路へ踏み入れていた。
「そうだね。僕も頭の悪い妹が知らない建物の中で光る何かに誘われているだけなら、そんなに心配しないと思うよ」
「嫌味!」
「理解できたなら、まだ会話は成立しているらしい」
カイルは二人のやり取りを聞きながら、壁の縁に手を伸ばした。
表面は石のように滑らかで、指先に冷たさが伝わってくる。
入口を囲む溝には細い光が残り、ゆっくりと明滅していた。
父の工房で見た魔法道具には、これほど大きな構造物を動かすものはなかった。
少なくとも、カイルの知る範囲では。
「ねえ、カイル。これ、どうやって開いたんだと思う?」
「精霊が触ったところに反応してた。何かを認識する仕組みがあるのかもしれない」
「じゃあ、あたしが触っても開くかな?」
「試さなくていいよ」
フィンが即座に止めた。
ルーシアは不満そうに頬を膨らませたが、結局、壁には触れずに通路へ入った。
カイルもそのあとに続き、フィンは最後まで入口を気にしながら中へ足を踏み入れる。
通路は、外から見た印象よりもずっと広かった。
人が三人並んでも余裕があるほどで、壁には細かな模様が刻まれている。
天井から垂れ下がる石の装飾は古びていたが、崩れた箇所は見当たらない。
足元には淡い青色の石が等間隔に埋め込まれ、奥へ向かう道を示しているようだった。
小さな精霊は、少し先で明滅している。
三人が近づくと、また奥へ進む。
「ほら、やっぱり案内してくれてるんだよ」
ルーシアは胸を張った。
「案内役なら、道の途中で何度も待ち伏せみたいな真似をする必要があるのかな」
「フィンって、何でも悪く考えるよね」
「君が何も考えないから僕が帳尻を合わせてるんだよ」
「何それ、ひどい!」
「こういう時はなぜか僕がひどい目に合うんだよ!」
カイルは二人の会話を聞き流しながら、床の石を見ていた。
青い石が、通路の中央ではなく、壁際に寄って配置されている。
しかも、すべてが同じ間隔で並んでいるわけではなかった。
装飾にしては規則が妙だった。
「待って。そこ、踏まないで」
カイルの声に、ルーシアが片足を上げたまま固まった。
「えっ、何? 毒?」
「まだ分からない。床の石の並びが変なんだ」
ルーシアは足を下ろす場所を探し、結局、カイルの隣へ戻ってきた。
カイルはしゃがみ、青い石の表面を観察した。
石は周囲の床と同じ高さに埋まっている。
端には細い溝があり、そこを何かが通ったような跡が残っていた。
光は見えないが、石の奥には薄い青みがある。
彼は近くに落ちていた小枝を拾い、手前の石を軽く叩いた。
乾いた音がした。
次の石を叩くと、少し低い音が返ってくる。その先はまた違う音だった。
「中が空洞なのかな……」
カイルがつぶやいたとき、小さな精霊が通路の奥から戻ってきた。
精霊は、床の石の上をすり抜けるように飛んだ。
三つの石を通り過ぎ、間の空いた場所で止まり、そこから壁際へ移動する。
まるで、見えない道筋をたどっているようだった。
カイルはその動きを目で追った。
「フィン、あの精霊、床を避けてるのかもしれない」
「石を踏まないように?」
「いや、精霊は床を通り抜けてるように見える。だから、踏んでいるかどうかは関係ないと思う。でも、同じところを通ってるんだ」
小さな精霊は、もう一度同じ経路をたどった。
今度は最後の石の前で止まり、三人を振り返った。
ルーシアが身を乗り出す。
「ここを通れってこと?」
「待って。ちょっと様子を見よう」
カイルは小枝を使い、精霊が通った場所を順番に指した。
「道を示しているのかもしれない。石の上を歩くんじゃなくて、石の間を通るんだ」
「それなら、最初からそう言えばいいのに」
ルーシアは得意げに笑い、石の間へ足を踏み出そうとした。
「君は今、何も考えずに歩こうとしていたよね?」
フィンが尋ねた。
「考えてたよ!」
「何を?」
「もう! フィンって、ほんっと嫌な兄!」
「妹の安全を守るために、僕は日々、嫌な兄になる努力をしているんだ」
「ほんっと嫌な兄!」
カイルは笑いそうになったが、すぐに表情を戻した。
小さな精霊が、今度は通路の脇にある壁へ向かったからだ。
壁には、背丈ほどの高さに円形の紋様が刻まれている。
中心には小さなくぼみがあり、その周囲を細い線が取り囲んでいた。
精霊はくぼみの前で止まり、身体を何度か明滅させた。
その光に応じて、床の青い石が順番に輝き始めた。
カイルは息を呑んだ。
通路の床に埋め込まれた石が、入口から奥へ向かって一つずつ光をつないでいく。
最後の光が円形の紋様へ届くと、壁の内部から低い音が響いた。
円の中心がわずかに沈み、周囲の線が淡く輝く。
ルーシアが目を輝かせた。
「すごい! やっぱり秘密の仕掛けじゃん!」
「まだ触るなよ」
カイルが言うより早く、ルーシアは紋様に手を伸ばした。
フィンが妹の襟首をつかんだ。
「お前、今の流れを見ていたよね?」
「見てたよ!」
「光が床から壁に移った。何かが動き始めた。ここまで見ておいて、次にやることがとりあえず触ってみることなの?」
「だって、押したら開くかもしれないじゃん!」
「そうだね。開くかもしれない。罠が作動するかもしれない。天井が落ちてくるかもしれない。僕たちが生き埋めになるかもしれない。君の推理は、危険の候補を一つも減らしていないんだよ」
「分かった、分かったから離して!」
フィンが手を緩めると、ルーシアは襟を直しながら彼を睨んだ。
「いつか絶対、あたしのほうが賢いって証明してやる!」
「その日が来たら、まず入口で立ち止まるところから始めるといいよ」
カイルは紋様を観察した。
中心のくぼみは、指先が入る程度の大きさだった。何かを差し込むための形にも見える。
だが、壁の周囲には取っ手も継ぎ目もない。
「この精霊、何をしてほしいんだろう」
小さな精霊は、紋様の前で静止していた。
三人が動かないと、少しだけ後退する。カイルが近づくと、再びくぼみの前に戻る。
まるで、カイルの反応を確かめているようだった。
「さっきから、僕たちが何をするか待っているみたいだ」
「それって、カイルに何かしてほしいってこと?」
「そうかもしれない。でも、何をすればいいのか分からない」
カイルは手を伸ばしかけて、止めた。
父の工房で、魔法道具の仕組みを教わったことがある。
動かない道具を直すときは、まずどこが入力で、何が出力なのかをたどる。
分からないまま部品を動かせば、故障の原因を増やすだけだ。
この壁も、似たような仕組みなのだろうか。
彼は紋様の中心を指さした。
「ここに何かを入れるのかもしれない。でも、僕たちは何も持ってないよ」
小さな精霊が、ふっと明るくなった。
直後、カイルの背後で音がした。
石が擦れ合う、重い音だった。
三人が振り返ると、通路の入口にあった壁が閉じていた。
「……え?」
ルーシアの声が裏返った。
入口の輪郭は消え、そこには最初から壁が続いていたかのように、継ぎ目のない石面が広がっている。
フィンが走って戻り、壁を両手で押した。
何も起きない。指で溝を探ってみても、開閉部分の手掛かりは見つからなかった。
「カイル」
「うん」
「君の言う、入口のところまで見て帰る計画は、今どうなっているのかな」
「……御覧のとおりですね」
「見事な分析だね。ぜひ帰り道も分析してほしい」
ルーシアは青ざめた顔で二人を見たあと、すぐに強がるように胸を張った。
「だ、大丈夫だよ! 入口が閉じたなら、また開ければいいんだから!」
「その方法を知っている人が言うなら頼もしいね」
フィンは妹を見た。
「君は、どうやって開けるつもり?」
「……今から考える!」
「素晴らしい。危機管理の完成形だ。危険が起きてから考え始める」
「フィン!」
「はいはい。冗談はここまで」
フィンは妹の肩を引き寄せ、壁から少し離した。
口調は相変わらず辛辣だったが、彼の目は入口の周囲を必死に探していた。
壁に仕掛けがあるなら、開く条件もどこかにあるはずだ。
カイルも戻ってきて、閉じた壁を調べた。
先ほどまで光っていた溝は、完全に暗くなっている。
壁の表面には傷ひとつなく、開いていたことを示す痕跡さえ見つからない。
小さな精霊は、通路の向こうに浮かんでいた。
三人が入口へ戻ったことを確認すると、再び奥へ向かって移動し始めた。
「待って!」
カイルが声を上げる。
精霊は止まった。
「君が僕たちをここに連れてきたんだよね? だったら、帰り道も教えてくれないか」
精霊は明滅した。答えの代わりのように、通路の奥へ向き直る。
「……こいつ、絶対分かってやってるよ」
ルーシアが言った。
「君の気持ちは分かるけど、今のところ、僕たちを閉じ込めたのがあの精霊だという証拠はないよ」
「じゃあ、誰が閉じ込めたの?」
「それを調べるんだろうね。君が壁を押す前に」
「まだそれ言うの!?」
カイルは二人の声を聞きながら、床に視線を落とした。
青い石は、先ほどと同じように並んでいる。
だが、入口が閉じた直後から、一番奥の石だけが淡く光り続けていた。
小さな精霊は、その石のそばを通ると一瞬だけ動きを止めた。
それから、何事もなかったかのように奥へ進んでいく。
カイルは石の位置と、壁の紋様を交互に見た。
精霊が三人を誘導したのは、ただ奥へ連れていくためだったのか。
それとも、床の石を通る順序や、壁の前で立ち止まることまで含めて、何かをさせようとしていたのか。
そして、入口を閉じたのは誰なのか。
塔そのものが反応したのなら、なぜ今になって三人を閉じ込めたのだろう。
「カイル、どうする?」
フィンの声には、先ほどまでの皮肉が少しだけ薄れていた。
カイルは、奥へ続く通路を見た。
「まず、あの精霊を追う。でも、今度は何をしているか、ちゃんと見ながら進む」
「賛成。ここで立ち尽くしても、入口が勝手に開いてくれる保証はないからね」
フィンはルーシアに目を向けた。
「それと、壁や床には触らないこと。特に、何かを見つけて嬉しくなったとき」
「分かってるってば!」
「その返事を聞くと、僕は今すぐ帰りたくなるんだよ」
三人は、光る石を踏まないように気をつけながら、通路の奥へ進んだ。
やがて、石壁の間に細い階段が現れた。
上へ向かう階段だったが、その先は暗く、天井の形も分からない。
壁の紋様は階段の途中で途切れ、代わりに、細い光の筋が石の隙間から漏れていた。
小さな精霊は階段の上で待っていた。
三人が近づくと、精霊は上へ飛び、角を曲がって姿を消した。
その直後、階段の下から、低い音が響いた。
カイルが振り返る。
床の青い石が、入口へ向かって一つずつ暗くなっていた。
光が消える速度は、三人が歩いてきたときよりもずっと速い。
最後の石が消えたとき、階段の下にあった壁の紋様が、ひとりでに明るくなった。
円の中心が、ゆっくりと沈んでいく。
今度は誰も触れていない。
フィンがルーシアの腕をつかみ、カイルも一歩後ずさった。
壁の奥で、何かが動いていた。
そして、紋様の中心から、細い光が一本、階段の上へ向かって伸び始めた。




