追いかけた先に
ルーシアが石壁に穴を開けてから、数日が経っていた。
あの日の騒ぎのあと、ルースは彼女が持ち出した古い魔法書を取り上げ、攻撃魔法を練習するときは必ず自分に声をかけるよう言い渡したらしい。
ルーシアは不満を口にしていたが、次に試すときのために指先の動かし方を何度も練習している。
カイルにも、今度はもっと大きな穴を開けてみせると宣言していた。
その日も、彼女は会うなり魔法の話を始めた。
「ねえ、カイル! 光を集めるときって、こうやるんだっけ?」
ルーシアが人差し指を立てた。指先に光が集まることはなかったが、本人は気にしていないらしい。空中で指を動かし、見えない光をこねるような仕草をしている。
「知らないよ。指の動きなんて関係ないだろ」
「そうだけどさ、カイルなら何か分かるかと思ったんだよ。ほら、あんたって変なこと知ってるじゃん」「変なことって何だよ」「変なことは変なこと!」
フィンが苦笑した。彼は近くの木柵に腰を預け、妹の指先を眺めていた。
少し歩いただけで息が上がることもある彼は、今日は最初から遠出をするつもりがなかったらしい。
三人がいるのは、町の外れにある農地と、精霊塔へ続く緩やかな道が交わるあたりだった。
「ルーシア、外で練習するなら、せめて人のいない方向に向けてよ。こないだみたいに壁に穴を開けたら、今度は修理代を請求されるかもしれないんだからね」
「だから、今日は練習してないってば!」
「今、モロに練習してただろ」
「これは確認!」
「何を確認したんだよ」
カイルが呆れたように口を挟むと、ルーシアは得意げに胸を張った。
「いつでも撃てるように準備してるの!」
「それを練習って言うんだよ……」
そんな話をしながら道を歩いていたとき、カイルは道端の草むらに小さな光が浮かんでいるのに気づいた。
鳥ほどの大きさもない。
薄い光の膜がいくつか重なり、風に揺れる草の上を漂っている。
近くの葉がわずかに傾き、露が落ちると、光はその動きを追うようにゆっくりと移動した。
見慣れた精霊だった。
この辺りでは珍しくもない。精霊塔の周辺では、水場に水を扱う精霊が集まり、農地では土や植物に関わる精霊が働いている。
人間が畑を耕し、用水路を整え、家畜を飼うのと同じように、精霊たちもそれぞれの場所で環境を保っていた。
何かを命じなくても、彼らは決まった仕事を続ける。少なくとも、普段はそう見える。
その精霊が、三人の前に飛び出してきた。
「ん?」
ルーシアが足を止める。
光は彼女の目の前でふわりと浮かんだあと、道の先へ移動した。
三人が歩き出すと、また戻ってくる。今度はカイルの顔の高さまで上がり、彼が手を伸ばすより早く、草むらへ逃げ込んだ。
「何これ、私と遊びたいのかな?」
ルーシアが追いかけようとすると、光はすぐに飛び出してきた。
彼女の手が届く距離まで近づき、それから道の奥へ移動する。
「ほら、やっぱり。ついてこいってことじゃない?」
「精霊が人間を誘うなんて話、聞いたことないけどね」
フィンは笑いながらも、光の動きを注意深く見ていた。
「そもそも、あれは何をしている精霊なんだろう。農地の管理をしてるようにも見えないし、水路からも離れてる」
「もしかして、迷子なんじゃないか?」
カイルはそう言いながら、光がさっきまでいた場所を見た。
草の葉は揺れていたが、精霊が通った跡らしいものは何もない。
「精霊が迷子になるわけないでしょ?」
「さあな。そういうことがあるのかどうかも知らないよ」
カイルは精霊の姿をもう一度追った。
精霊は道の先へ飛んでいく。三人がついていかなければ、そのままどこかへ行ってしまいそうだった。
ところがカイルが歩くのをやめると、光は十数歩先で止まり、しばらくしてから引き返してきた。
今度はカイルの前を横切り、道の脇にある古い石標のところで静止した。
石標は、精霊塔の管理区域を示すものだった。
長い年月の風雨にさらされて角が丸くなっているが、表面に刻まれた細かな溝はまだ残っている。
町の子供なら誰でも知っている目印で、わざわざ立ち止まって眺めるようなものではない。
精霊は石標の前で一度だけ強く光った。それから、塔へ続く道を向いた。
「……ねえ、やっぱりあっちに行きたいんじゃないかな」
カイルがつぶやくと、精霊はすぐに動き出した。
だが、数歩進んだところで振り返り、三人が来ていないことを確かめるように宙を漂った。
カイルは眉を寄せた。
動きが妙だった。
普段見かける精霊は、人間が近くを歩いていても、わざわざ反応したりしない。
こちらに気づいていないわけではないだろうが、人間を待つような動作はしないし、進む方向を何度も変える必要もない。
この精霊は、三人がついてくるかどうかを確かめている。
精霊は再び道の奥へ移動した。今度はさっきよりも速い。
光の輪郭が揺れ、草むらを抜けるときには、周囲の葉がまとめて押し分けられたように動いた。
その瞬間、ルーシアが胸元を押さえた。
「……っ、痛い?」
「どうしたの?」
フィンが妹のそばに寄る。
「今、なんか……胸のあたりが変だったの」
ルーシアは服の上から胸元をさすった。痛いわけではないらしい。
ただ、内側から何かに触れられたような、説明しづらい違和感が残っている。
次の瞬間、彼女の身体の奥で淡い光が瞬いた。
服越しにも分かるほどの光だった。
カイルは息を呑んだ。ルーシアに宿る精霊が反応している。
普段は彼女の体調に合わせるように静かにしていることが多いのに、今は何かを警戒するように光を強め、塔の方角へ向かって激しく脈打っていた。
道の先にいた小さな精霊も、その光に応じるように一度だけ激しく明滅した。
「ルーシア、それ……どんな感じだ?」
「わかんないっ! でも、なんか……向こうから呼ばれてるみたいな、変な感じがするの!」
「呼ばれてるって、何だよ」
「だから、わかんないって言ってるでしょ!」
ルーシアは苛立ったように答えたが、すぐに自分の唇を結んだ。
いつものように笑い飛ばすには、身体の奥に残る感覚がはっきりしすぎているのだろう。
フィンは妹と塔を交互に見て、険しい顔をした。
「一旦、ここで引き返そうよ。塔の管理をしている人に話してみよう。僕たちだけでこんなところに近づく理由なんてないよ」
その意見はもっともだった。
精霊塔は町の設備の中でも特に重要な場所で、子供が勝手に入っていいところではない。
塔の周囲が穏やかなのも、内部の仕組みが正常に働いているからだ。
何か異常があるなら、管理する大人に任せるべきだった。
カイルも、そこまでは同意しかけた。
しかし、小さな精霊がまた戻ってきた。
今度は三人の間を抜け、フィンの肩のすぐそばでぴたりと止まった。
いつもなら人間の身体にぶつかりそうになっても、何事もなかったかのように軌道を変えるだけだ。
ところが、その光はフィンの肩に触れる寸前で激しく揺らぎ、ふっとか細くなった。
光が消えかけ、消え入るような残光を残す。
「おい、大丈夫かよ……?」
フィンが思わず手を伸ばす。触れることはできなかったが、その動きに反応したのか、光はかろうじて明るさを取り戻した。
それから、光はまた道の先へ向かおうとしたものの、途中でふらつくように高度を落とした。
ルーシアが一歩、前に踏み出した。
「今の、もしかして具合が悪いんじゃない?」
「精霊にそういうのがあるか?」
「知らないわよ! でも、あんなふうに光が弱くなるなんて変じゃない!」
彼女はいつもの調子で言い返したが、その声には確かな迷いがあった。
精霊が自分たちをどこかへ連れていこうとしているのだとしても、少なくとも今のそれは、ただの遊びではなさそうだった。
カイルは石標の刻み目を見た。
古い文字は読めないが、それでもここから先が塔の管理区域であることは分かる。
小さな精霊はその境界を越えて進み、何度も振り返っては三人の姿を確認していた。
「僕は……もう少しだけ確かめてみる」
フィンが顔をしかめた。
「どこまで行く気だよ?」
「塔の裏側までだ。何か起きてるなら、外から見えるかもしれないだろ。中に入るとは言ってないって」
「そう言うって、結局中に入るんだよなぁ」
「入らないってば!」
「カイル、そういうときの君は全然信用できないんだよ!」
フィンは大きなため息をついた。
妹がすでに精霊のあとを追い始めているのを見て、これ以上引き止めるのは無理だと諦めたらしい。
「ルーシア、勝手に先へ走らないでよね! 少しでも変なことがあったらすぐ戻るんだよ。カイルも、勝手に変なものを触ったりしないでよ!」
「「わかってるって!」」
「二人とも、今の返事は全く信用できないんだけど……!」
文句を言いながらも、フィンは二人のあとを追わざるを得なかった。
塔へ近づくにつれて、周囲の音が少しずつ変わっていった。
農地から聞こえていた人の声や道具の音が遠のき、代わりに、地面の下から響いているような低い振動が足裏に伝わってくる。
風は吹いているのに、塔の周囲に生えている草は不思議とほとんど揺れていなかった。
小さな精霊は、もう振り返る余裕もないようだった。
光の輪郭が時折乱れ、移動するたびに短い残光を引いている。
「ねえ……これ、本当に大丈夫なの?」
ルーシアの声から、先ほどの勢いが少し消えていた。
カイルは答えず、精霊の動きだけをじっと追った。
先へ進むほど、精霊は明らかに焦っている。
誰かを待っているというより、一刻も早く三人を連れていかなければならない理由があるように見えた。
やがて、精霊塔の正面から外れた裏手に出た。
普段、人が立ち入る必要のない場所だった。
塔の壁面は遠目には灰色の石を積み上げたように見えるが、近くで見ると継ぎ目がほとんどなく、表面には細かな溝が幾重にも走っている。
装飾なのか、何かの仕組みなのか、カイルには判断できなかった。
小さな精霊は壁の一部に近づき、溝の交差する一点にそっと触れた。
音はしなかった。
それでも、壁の表面を細い光の筋が走った。
縦横に刻まれた溝が順番に明るくなり、やがて人ひとりが通れるほどの輪郭が、灰色の壁面にぼんやりと浮かび上がった。
「うそ……でしょ……」
フィンが思わず足を止めた。
壁の一部が、音もなく内側へ滑るように開いた。
そこには、暗い通路が続いていた。
奥の方には、青白い光が規則正しく流れている。
風もないのに、通路の奥から冷たい空気が頬を撫でた。
カイルは思わず一歩、近づいた。
壁の開閉部分には蝶番らしきものが一切なく、石が動いたというより、壁そのものが形を変えたように見えた。
父が作る魔法道具とはまるで違う。
仕組みを間近で見てみたいという好奇心が湧いたが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
小さな精霊が、入口の内側へフラフラと移動した。
そこで初めて、精霊は三人を振り返った。
光はもうひどく弱くなっていた。
輪郭がほどけかけ、それでも消えることを拒むように、入口の奥へと誘うように漂っている。
「……助けてほしいのかな、この子」
ルーシアがつぶやいた。
フィンはすぐに首を振った。
「そうかもしれないけどさ……でも、ここから先は僕たちが知っちゃいけない場所だ。早く大人の管理者に知らせるべきだよ」
もっともな意見だった。
カイルにも分かっていた。入口が開いたからといって、勝手に入っていい理由にはならない。
そもそも、この場所に入口があること自体、彼は知らなかったのだ。
そのとき、ルーシアの胸元で光が強く瞬いた。
彼女が小さく息を呑む。それに呼応するように、塔の奥から何かが応じたような強い光が走った。
通路の壁を伝う青白い線が一斉に明るくなり、ずっと遠くにある何かが、こちらを認識したかのように次々と点灯していく。
小さな精霊は、力尽きるように入口の向こうへ消えた。
直後、奥の暗がりに、人の姿に似た白い何かが一瞬だけ浮かび上がった。
顔までは見えなかった。光の柱のそばに立っていたようにも、壁面から直接形が現れたようにも見えた。カイルがハッとして目を凝らしたときには、もうそこには何もなかった。
フィンがカイルの腕をぎゅっとつかんだ。
「いまの……見た!?」
「ああ、見たと思う……」
「思うってなんだよ……!」
フィンの手に力がこもる。
ルーシアも、さっきまでの威勢をすっかり失って、ぽっかりと開いた入口を見つめていた。
カイルは、開いた壁の向こうの闇を見据えた。
中へ入るべきではない。
ここで引き返して、大人に知らせるのが一番正しい。
それは間違いない。
けれど、小さな精霊はあんなに弱りながらも、三人をここまで連れてきた。
そして、ルーシアに宿る精霊までが、塔の奥へ向かって激しく反応している。
偶然だと言い切るには、目の前で起きたことが奇妙すぎた。
「……入口が見えるところまでだ」
カイルは自分に言い聞かせるように、低い声で言った。
「中を少し覗いて、何もなかったらすぐ戻る。奥へは絶対に行かない。ちょっとだけだから」
「それ、絶対に信用できない人間のセリフだからね!?」
フィンはそう叫びながらも、カイルの腕を離さなかった。
ルーシアも反論せず、胸元に手を当てたまま、暗い通路の向こうをじっと見つめている。
三人は、まだ入口の敷居を越えてはいなかった。
壁の溝を流れる青い光が、ゆっくりと、まるで鼓動のように明まるで脈打つように明滅している。まるで、彼らがどちらを選ぶのかを静かに待っているかのように。




