夢
石畳の道を、揃って歩く二人の影が伸びていた。
カイルは八歳になっていた。
背丈も少し伸び、母のエレナの手で作ってもらった紺色の布地に銀の刺繍が入った外套を羽織っている。隣を歩くフィンも、少し大人びた表情を見せるようになっていた。
二人が向かっているのは、町の中心にそびえ立つ白い巨大な建造物――精霊塔のすぐ隣に建てられた、この地域の初等学び舎だった。
「ねえ、カイル。今日の授業、最初は『精霊の歴史』だって」
フィンが少し緊張した面持ちで、腕に抱えた木製の筆記具ケースをぎゅっと握りしめた。
「歴史か。面倒そうだな」
「もう、そんなこと言わないの。先生、厳しいって有名なんだからね」
フィンはそう言いながらも、どこか誇らしげだった。
八歳になり、子供たちはそれぞれの家を出て、こうして学び舎で基礎的な読み書きや、精霊との付き合い方、そして世界のルールを教わることになる。
町の中央へ近づくにつれ、白い巨塔――精霊塔の威圧感が大きくなっていく。
空に向かって真っ直ぐに伸びるその塔は、ただの建物ではない。この町を「安全な場所」として成立させるための、絶対的な心臓部だった。
やがて到着した学び舎の教室は、段差のある広々とした構造になっていた。
窓からは明るい陽光が差し込み、木製の机が綺麗に並べられている。席に着くと、前方の教壇には、白髪混じりの初老の教師――ロベルが腕を組んで立っていた。
「席につきなさい。これより初等科の講義を始める」
教室内が静まり返る。
ロベルは教壇のチョークを手に取り、背後の黒板に力強い筆致で『精霊塔』と書き殴った。
「まずは、この世界の基盤についておさらいする。お前たちが毎日何気なく呼吸をし、安心して眠り、畑で野菜を育てられるのはなぜだ。誰か答えてみろ」
教室の端から、一人の生徒が手を挙げた。
「はい! 神様と精霊様が守ってくれているからです!」
「半分正解で、半分はただの信仰心だな」
ロベルはふん、と鼻を鳴らした。
「神の加護がどうこう言う前に、現実の仕組みを理解しろ。この町が安全なのは、中心にある『精霊塔』が正常に稼働しているからだ。精霊塔は周辺一帯の環境を保全し、人間が生存しやすい気候や水質を維持し続けている。いわば、この世界における最大の生命維持装置だ」
カイルは机に肘をつき、黒板の文字を眺めた。
「生命維持装置……」
小声で呟くと、隣のフィンが「何か言った?」と小首を傾げたが、カイルは首を横に振って教師の言葉に耳を戻した。
「さらに重要な役割がある」
ロベルは黒板をトントンと杖で叩いた。
「精霊塔の管理範囲内では、精霊の乱れや暴走が極限まで抑え込まれる。ゆえに、この範囲内には『魔物』は絶対に発生しない。もし塔が機能を停止し、あるいは別の土地へ移設されれば、その瞬間からそこは魔物が闊歩する死の荒野へと変わるのだ」
教室の空気が、わずかにピリッと引き締まった。
子供たちにとっても、「魔物」は地図の向こうの脅威ではなく、塔が壊れたら自分たちの街にやってくる現実的な恐怖として刷り込まれている。
「かつての戦乱の時代には、国家同士が都市ごと精霊塔を奪い合ったり、安全な領地を広げるために塔を解体して移設したりした歴史がある。……おい、そこの後ろの席、聞いてるか?」
ロベルの鋭い視線が飛んできましたが、幸いそれは別の生徒に向けられたものだった。
「精霊塔はただのモニュメントではない。この文明の命綱だ。お前たちが学ぶ魔法も、道具の調整も、すべてはこの塔が発信する管理ネットワークの範囲内だからこそ安全に成立している。そのことを忘れるな」
授業はさらに続き、簡単な精霊の構造や、個体ごとの相性に関する解説へと移っていった。
周囲の生徒たちが熱心にノートを書き取る中、カイルはぼんやりと窓の外を見ていた。
環境保全。
エリア管理。
ネットワーク。
魔物の発生抑制。
ロベルが語る言葉は「ファンタジーの歴史」というより、高度な管理システムの仕様書を聞いているような感覚だった。この世界は、誰かが作り上げた巨大なシステムの上にぽつんと置かれた、閉じた生態系なのだと、授業を受けるほどに痛感させられる。
そして、その授業の退屈さと心地よい微睡みの中で――カイルの意識は、ふっと別の場所へと引き剥がされていった。
*
(……警告。ネットワーク接続数、低下……)
頭の中に、耳鳴りのような電子音が響いた。
暗い。
冷たい。
消毒液の匂いが鼻を突く。
白い天井。規則正しく点滅するモニターの光。
自分が「カイル」としてこの世界に生まれる前――いや、もっと前。冷たいカプセルのような場所で、無機質な機械音を聞きながら、何者かに身体を固定されていた記憶。
『初期化プロセスを開始します』
『被験体データのバックアップを——』
「っ……!」
ガタッ、とカイルは勢いよく机から立ち上がった。
教室中の視線が一斉に自分に集まる。
隣のフィンが、目を丸くしてカイルの袖を引いた。
「カイル……? どうしたの、急に立ち上がって……」
「……なんでもない。ちょっと、貧血……」
冷や汗が額からぽたぽたと机に落ちる。
呼吸が荒くなり、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
教壇のロベルが険しい顔でこちらを睨みつけている。
「授業中に気分が悪くなったか? 無理をせず、保健室に行きなさい」
「……すみません」
カイルはフラフラと席を立ち、教室の外へと足を踏み出した。
廊下の冷たい空気を吸うと、ようやく頭の中の激しい電子音と冷たい機械の幻覚が霧のように薄れていった。
けれど、それは完全に消えたわけではない。胸の奥に、不気味な棘となって残っていた。
(あれは……なんだ……?)
夢にしては鮮明すぎた。
前世の記憶の断片だと思い込んでいたものは、本当にただの「前の人生」の記憶なのだろうか。
それとも、この世界のシステムが、カイルの脳の奥底に刻み込んだ「別の何か」へのアクセスキーなのだろうか――。
冷たい廊下に一人立ち尽くしながら、カイルは自分の震える両手を静かに見つめた。




