平穏
教会の巡回神官が去ったあと、ハートウェル家には以前と変わらない穏やかな日常が戻ってきた。
診療所の窓から差し込む午後の陽射しはどこまでも柔らかく、室内に置かれた薬草の乾燥を促す乾いた香りが心地よく漂っている。
「ねえ、カイル。聞いて聞いて」
ルーシアはテーブルの椅子にちょこんと腰掛け、嬉しそうに足を揺らしていた。
その顔色は血色に満ち、かつての病弱だった頃の影は微塵もない。
「なにが?」
「お母さんがね、もう少し大きくなったら、教会のお手伝いや正式な勉強会に行ってもいいって言ってくれたの!」
「へえ、よかったな」
「うん! 学園のことも教えてもらえるかもしれないし、私、もっと色んなことができるようになりそう!」
ルーシアは自分の両手を広げ、ふっと力を込めてグーを作ってみせた。
そこには以前のような不安げな震えや、すぐに息を切らすような頼りなさは一切ない。
隣でカルテの整理をしていたエレナが、優しい笑みを向けて言った。
「教会の神官様も『お墨付き』をくださったからね。あのお子さんなら、きっと素晴らしい聖職者か、あるいは優れた使い手になれるだろうって、とても感心されていたわよ」
「聞いた? カイル、私すごいのよ!」
「はいはい、すごいすごい」
カイルは軽く相槌を打ちながら、湯飲みの茶を一口啜った。
神官の聖盤が放った美しい白光。
神聖な奇跡。
選ばれし乙女。
あのとき、カイルの視界の端にだけ表示された無機質なログ――『個体識別ID』や『置換率』といった数値の羅列は、確かに存在していた。
(……まあ、いいか)
カイルは内心でそう呟いた。
もし、あれが本当に人工的な構造最適化やシステムによる書き換えだとして、だから何だというのだ。
ルーシアは元気になった。
毎日笑って、走って、大声で怒られて、当たり前のように生きている。
病弱でいつ倒れるか分からない姿におびえていた頃のフィンの涙や、家族の暗い表情を思い返せば、今の状態が「どちらにとって幸せか」なんて言うまでもない。
たとえそれが人間の自然な姿から外れたものだとしても、この世界で生きていくための「正解」としてシステムが動いているのなら、そこにわざわざ異を唱えて引っ掻き回す義理などなかった。
「カイル、またぼんやりして。どうかしたの?」
不意に覗き込んできたフィンの顔が、目の前にあった。
心配性の友人らしい、どこか少しあどけない瞳。
「なんでもない。ただ、ルーシアが元気になってよかったなって思ってさ」
「……うん。そうだね」
フィンは少し照れくさそうに笑い、それから安堵の息を長く吐き出した。
「最初は本当にどうなるかと思ったからさ。急に倒れたり、息苦しそうにしたりして……。でも、教会の人が『奇跡』だって言ってくれて、本当によかった。お母さんも安心したみたいだし」
「だな」
カイルは短く返事をした。
教会の神官が真実を知っていたのか、それともシステムに踊らされているだけなのかは分からない。けれど、彼らが与えてくれた「奇跡」という名のオブラートは、この家族にとって最も優しく、必要な救いだった。
難解なエラーコードや、冷徹な置換率のデータなんて、この温かい日常の前ではどうでもいいことだ。
「よし! じゃあ、庭でまた旗取りゲームの続きやるよ! カイルも来て!」
「え、またやるの……? ぼく、さっき負けたばかりだから作戦を練りたいんだけど……」
「言いっこなし! ほら、早く!」
ルーシアが勢いよく立ち上がり、カイルとフィンの腕をそれぞれ引っ張って外へ連れ出していく。
庭の芝生には、心地よい午後の風が吹き抜けていた。
空はどこまでも高く青く、遠くに見える精霊塔の白亜の姿は、今日も変わらず町を静かに見守っている。
カイルは引っ張られるがままに歩き出し、もう二度とあの冷たい裏側のシステムを覗き見ないでおこうと、心の中で静かに蓋をした。
ここは、この世界なのだから。
彼らが笑顔でいられるなら、それで十分だった。




