改善
ルーシアが外で遊べるようになってから、さらに一週間が過ぎた。
その変化は、近所の人々が見ても一目で分かるほどだった。
今までなら、家から診療所まで歩くだけでも途中で何度も立ち止まり、肩を上下させて息を整えていた。
ところが今は、朝から晩まで町を元気に駆け回っている。
その日もカイルがフィンの家を訪ねると、庭の向こうから元気な大声が響いてきた。
「お兄ちゃん、遅いー! 早く早く!」
「待ってってば! そんなに走ったら危ないよ……っ!」
「大丈夫だし!」
カイルが庭へ入ると、ルーシアが木の枝を一本高く掲げて走っているところだった。
枝の先には、どこからか拾ってきた赤い布切れが結びつけられている。
「何やってんだ、それ」
「あ、カイル! これ? 旗だよ!」
ルーシアは足を止めることなく、嬉しそうに手元の枝を振ってみせた。
「どっちが先にあそこの大きな石まで行けるか、競争してるの!」
「競争って……フィンと?」
「うん!」
少し離れた場所で、フィンが膝に手を置き、必死に息を整えていた。
「僕は……競争するなんて一言も言ってないよ。ルーシアが急に走り出したんだ……」
「でも、ちゃんとお兄ちゃんもついてきてくれたじゃん!」
「君が一人で急に走って、転んだら困るからだよ……っ」
「一緒だし! 走りたいから走ったんでしょ?」
「そういう意味じゃないって……」
弱り切った顔で息を吐くフィンを見て、ルーシアは楽しそうにケラケラと笑った。
その顔には、以前なら考えられなかった自信と活力が溢れている。
「ほら、カイルも一緒にやろうよ!」
「俺も?」
「三人なら、もっと面白いでしょ!」
「でもフィン、もう限界そうだぞ」
「僕は……大丈夫だから」
カイルが言うと、フィンは少し苦笑いしながら言った。
「前よりは動けるようになったわけじゃないけど……ルーシアみたいに無茶はできないってだけだからさ」
「じゃあ決まり!」
ルーシアが勝手に話をまとめ、カイルたちの前に並んだ。
「この旗が下りたらスタートね。あの石を回って、先に戻ってきた人が勝ち!」
「なんで戻ってくるまでなんだよ」
「だって、行くだけだったら簡単じゃない!」
「それで前みたいに途中で倒れたら、誰が運ぶんだよ」
「倒れないもん!」
胸を張るルーシアの横顔に、カイルは一瞬言葉を詰まらせた。
旗が下りる。
三人が一斉に走り出した。
フィンは最初から自分のペースを守り、無理をしない。カイルもそれに合わせて走る。
だが、ルーシアだけは違った。
軽い足音を立て、芝生を蹴り飛ばしながらどんどん差を開けていく。
途中で振り返り、
「遅いよー!」
と無邪気に笑ってみせる余裕すらあった。
カイルは思わず足に力を込め、速度を上げた。
石を回って、最初に戻ってきたのは――圧倒的な差でルーシアだった。
「勝ったー!」
両手を高く突き上げて喜ぶ。それだけに留まらず、彼女は勢いそのままに庭をぐるりと一周走ってみせた。
「もう一回やろう!」
「……もう一回?」
フィンが目を丸くした。
「うん! 今度はもっと遠くの木までね!」
「いや、ちょっと休もうよ……」
「えー。全然疲れてないのに?」
「前のルーシアなら……もう座り込んで動けなくなってるよ」
「昔の私と一緒にしないで!」
ルーシアは笑いながら、旗をポンと肩に乗せた。
「今の私はね、もっと遊べるんだから!」
その誇らしげな宣言に、フィンはそれ以上何も言い返せなくなった。
カイルも黙って彼女を見つめた。
嬉しい。
その感情に嘘はなかった。
ルーシアが元気になり、痛みや苦しみに怯えずに済むようになったことは、誰にとっても救いだった。
今までできなかったことができる。
外を歩ける。走れる。大声で笑える。
けれど――カイルの胸の奥には、消えない棘が深く刺さっていた。
「……ルーシア」
「なに?」
「疲れてないなら、どれくらい走れる?」
「分かんない!」
「試してみるか?」
「やってみたい!」
「カイル!」
フィンがすぐに割って入ってきた。
「あまりそういうこと言わないでよ! ルーシアは本当に限界までやっちゃうんだから!」
「分かってるって」
「分かってて言ってるなら、もっと悪いよ……」
フィンの言葉に、ルーシアがクスクスと笑った。
「お兄ちゃん、そんなに心配しなくてもいいのに」
「心配するよ……! ずっとそうだったんだから」
フィンは困惑と切なさが混ざった目で、妹を見つめた。
「僕は……君が急に元気になったことはすごく嬉しいよ。でもね、そのせいで、今まで自分を守るために必要だったものまで忘れないでほしいんだ」
「必要だったもの?」
「休むこととか、無茶をしないこととか」
ルーシアは少し考える素振りを見せると、ストンと芝生の上にしゃがみ込んだ。
「……じゃあ、一回だけ休んであげる」
「なんで上から目線なんだよ……」
「だって、私の方が元気だもん!」
そう言って、ルーシアは芝生の上にゴロンと寝転がった。
背中を地面に預け、両手を大きく広げる。
流れる雲をじっと見上げながら、彼女は頬を緩めた。
「空って……こんなに広かったんだね」
フィンが隣に腰を下ろす。
「前からずっと同じだよ」
「知ってる。でも……前は空を見る余裕なんてなかったからさ」
そのぽつりとした呟きに、フィンは言葉を失った。
ルーシアは空を見つめたまま、足先を嬉しそうにゆっくりと揺らしている。
「もっと早く知りたかったな」
「なにを?」
「走るのって、こんなに楽しいんだってこと」
カイルはその横顔を見つめた。
そこに浮かぶ笑顔には、かけらも嘘がない。心からの喜びだった。
だからこそ――カイルの胸の中に、冷たい恐怖が広がっていった。
もし、この「健康」が精霊によって与えられた人工的なものだとしたら。
今まで病弱だった彼女の身体こそが、「精霊にとって不都合な状態」だったのだとしたら。
今の彼女は、本当に病が「治った」のだろうか。
それとも、精霊というシステムにとって扱いやすい形へ『書き換えられた』だけなのだろうか――。
「カイル?」
ルーシアが顔だけをこちらに向けた。
「さっきから、すごく難しい顔してる」
「そうか?」
「うん。眉間がね、こうやってぎゅーってなってる」
ルーシアは自分の指で眉間を寄せて、不器用な真似をしてみせた。
あまりにも似ていなくて、カイルは思わず噴き出した。
「それ、俺の真似のつもりか?」
「そっくりでしょ!」
「全然違う」
「ひどいなー!」
ルーシアは起き上がると、笑いながらカイルの肩を軽く叩いた。
その手のひらには、以前のような冷たさも、弱々しい震えもない。しっかりとした体温と力強さがあった。
カイルは笑い返しながらも、胸の奥にある冷たい問いを拭い去ることができなかった。
ルーシアは健康になった。
それは紛れもなく良いことだ。
けれど――その「良いこと」が一体何を引き換えにして得られたものなのか。
その真相を知る者は、まだ誰もいなかった。




