第九話:インビジブル・トラップ
結局、澪さんを送り届ける道中は、拍子抜けするほど穏やかだった。
北野特有の、狭く入り組んだ石畳の坂道。早朝の清々しい空気の中、シュン兄と澪さんが肩を並べて歩き、その後ろを俺たちが冷やかし半分にゾロゾロとついて歩く。
「……あ。ねえ瞬さん、あそこの紫陽花、もうすぐ咲きそうね」
「本当だな。澪が好きな色だ、咲いたらまた二人で見に来ようぜ」
そんな、どこにでもある幸せなカップルの会話。道端でゴミ出しをしていた中年男が「おはようございます」と会釈し、自販機の前でスマホをいじっていた若者が、俺たちの横を無造作に通り過ぎていく。博雅は「いい朝だなあ!」と伸びをし、道満も毒づきながらもどこか表情を和らげていた。
澪さんの自宅前。
「じゃあな、ハル。お前らも寄り道すんなよ。俺は夕方の仕込みの前に、ちょっと市場まで買い出しに行ってくるわ」
シュン兄はそう言って澪さんの肩をポンと叩くと、軽快な足取りで坂の下へと向かっていった。澪さんはその背中を愛おしそうに見送ってから、自分の家の門を潜る。
俺たちは、そんな二人の後ろ姿を確認してから、再び『フォックス・テイル』への坂を登り始めた。この平穏なログが、永遠に続くパッチだと信じて。
「……あ。おかえり、安倍くん。随分と長い『散歩』だったね」
店に入ると、カウンターには相変わらず保憲が座り、もはや執念に近い正確さでオムライスを咀嚼していた。
「……はぁ。やりたかないねー、本当に。会長、まだいたのかよ。もう店閉めるぞ」
俺が投げやりに答えると、保憲は口元をナプキンで拭い、銀縁メガネを冷たく光らせた。
「有世くん。……例のデータを、彼らにも共有したまえ」
「はい……。先輩、これ、見てください」
有世が震える手で差し出したタブレット。そこには、保憲が麗子総理の特命で入手したという、『藤原の残党』たちの顔写真が並んでいた。土蜘蛛の瓦解後、地下に潜ったシステムの残滓ども。
「……ッ!?」
その写真を見た瞬間、俺の隣で道満が、持っていたグラスを落としそうになった。
「……待って。……嘘やろ」
道満が、青ざめた唇を震わせながら呟いた。
「……さっき、澪さんの家の近くですれ違った人たち……この写真の奴らと、同じや」
俺の脳裏にも、さっきの「平和な散歩」の光景が鮮明に復元されていく。紫陽花の横で会釈した男。自販機の前にいた若者。
「……そういうことか。奴らは野崎という目立つ『バグ』を囮にして、僕たちの注意を逸らしながら、物理的な包囲網で君たちを尾行し、澪さんの自宅を探ったんだよ」
保憲の淡々とした声が、地獄の宣告のように響く。
なぁ、あんたならどう思う?
平和だと思っていたあの帰り道、俺たちは一歩ごとに「最悪の事態」へと誘導されていたんだ。
俺の右手の指先が、夏の冷房の中で、今までで最も激しいビートを刻んで震え出した。
「……クソしかおらんな、ホンマに……ッ!」
俺たちは、椅子を蹴るようにして、再び灼熱の北野へと駆け出した。




