第十話:消失の境界(ロスト・エッジ)
「……はぁ。やりたかないねー、本当に。あいつら、どこまで腐ってんだよ」
心臓を突き刺すような蝉時雨の中、俺たちは来た道を全力で逆走していた。肺が焼け、喉が鉄の味に支配される。だが、止まるという選択肢は俺の中には存在しなかった。
「……ッ、シュン兄! 出ろよ、おい!!」
走りながらスマホを叩くが、呼び出し音は無機質なノイズを繰り返すだけだ。
辿り着いた澪さんのマンション前。そこには、あってはならない光景が広がっていた。
「……何やこれ。なんで警察がこんなにおるん?」
道満が足を止め、呆然と呟く。
数台のパトカーが赤色灯を回し、マンションの入り口には規制線が張られ始めていた。この短時間で、警察がこれほどの数で動くなんて異常だ。
「……親父! 俺だ、博雅。……今、北野のマンションの前に警察が山ほど来てるんだ。何が起きたか分かるか!?」
博雅が焦燥を剥き出しにして、県警本部長の親父に電話を繋ぐ。その横で、俺は祈るような気持ちでシュン兄の番号をもう一度プッシュした。
三回、四回……五回目のコールで、ようやくブツりと回線が繋がる。
『……ハルか。悪い、市場は電波が悪くてな。どうした、そんなに息切らして』
「シュン兄! 今どこや!? ……ええか、落ち着いて聞け。澪さんのマンションに警察が……たぶん何者かに連れ去られた。……今すぐ戻ってこい。入り口で合流だ!」
受話器の向こうで、シュン兄の息が止まる音がした。
直後、通話が切れる。空気を切り裂くようなエンジンの咆哮が、遠くから響いてきた。
「……晴明、親父に聞いたぞ。警察に何件か通報が入ったらしい。……『女の人が、数人の男に強引に車に押し込まれて攫われた』って。……澪さんだ、間違いねぇ」
博雅がスマホを握りしめたまま、苦しげに顔を歪めた。近隣の住民たちが、何事かと不安げな表情でマンションを見上げている。その中には、さっき保憲のタブレットで見た『藤原の残党』の姿は、もうどこにもない。
なぁ、あんたならどう思う?
さっきまで隣で笑っていた人が、システムの死角でいとも簡単に連れ去られる。
俺の右手の指先が、マンションを取り囲む警官たちの「正義感」や「野次馬の視線」をすり抜けて、その奥に沈殿するドス黒い呪詛の残り香に、激しく震え出した。
「……やりたかないねー、ホンマに……」
陽炎で歪むアスファルトの向こう側から、タイヤの悲鳴と共に、シュン兄の車がこちらに突っ込んでくるのが見えた。
一千年前の「鬼」を呼び戻すための、最悪の夏が本格的に起動しようとしていた。




