第十一話:臨界点の咆哮(オーバー・アクセル)
鼓膜を叩き割るようなタイヤの悲鳴。
規制線を張っていた警官たちが腰を抜かさんばかりの勢いで、シュン兄の黒いセダンが歩道に乗り上げ、俺たちの目の前で急停止した。
「……ハル。どういうことだ」
車から降りてきたシュン兄の瞳は、すでに一千年前の戦場を血で染めた「鬼」のそれへと書き換わっていた。その背後から立ち上る瘴気だけで、周囲のパトカーの窓ガラスがミシミシと悲鳴を上げる。
「……わからん。わからん、わからん……クソッ、やりたかないねー、本当に!」
俺は焦燥に焼かれるまま、震える指先で空中に印を刻んだ。
「太陰! 出てこい! 澪さんの残り香を追え! 一秒でも早く居場所を見つけ出すんだ!!」
影の中から、実体を持たない「つむじ風」のような気配が渦を巻いて飛び出した。純粋な霊的エネルギーとしての太陰だ。
風はシュン兄から漏れ出し始めた絶望的な妖気に一瞬、昔を思い出し『やんのか、コラ!』と暴れようかと囁きそうになる。だが、俺の「丸投げ」ではない切迫した意志を読み取ると、見えない龍のように路地裏の隙間を縫って北野の空へと消えていった。
「親父! 俺だ! 警察の力をフル動員してくれ! 攫われたのは俺の知り合いだ!ああ…今日の朝に会った澪さんだ!澪さんを連れ去った車を絶対に逃がすな!!」
博雅がスマホに怒鳴り、県警本部長である親父を動かす。その熱量に押されるように、周囲の警官たちが一斉に無線へ指示を飛ばし始めた。
「有世、ウチや! 今、北野のマンション前がバグだらけになってる。……藤原の残党や。会長と一緒に、ネットワーク側の包囲網を固めて!!」
道満が有世へ電話し、消えゆく澪さんの手がかりを繋ぎ止めようと叫ぶ。
そこへ、タクシーのドアを蹴破るような勢いで、アロハシャツを乱した泰臣が合流した。
「酒井! 晴明! ……間に合わなかったか……」
親父の顔には、さっきまでの「ろくでなし」の面影は微塵もない。
なぁ、あんたならどう思う?
日本最大のヤクザも芋を引く親父、警察も、そして伝説の鬼も。たった一人の女性が「欠落」しただけで、この街のシステムは完全にオーバーロードを起こし始めている。
「……ハル。場所は」
シュン兄の低い声が、アスファルトを割らんばかりに響く。
一千年の眠りから強引に叩き起こされたような、純度の高い殺気。その視線に射抜かれただけで、周囲の警官たちは呼吸を忘れた。
その時、泰臣がアロハの懐からスマホを掴み出し、迷わずどこかへコールした。
「……おぅ、俺だ。……騒がせて済まんな」
親父の、いつになく冷え切った、それでいて有無を言わせない「命令」の口調。受話器の向こうから漏れ聞こえる山本組幹部の怯えた声を、親父の怒号が叩き潰した。
「あぁ、酒井の店のことだ! 酒井の女がお前んとこの野崎に攫われた……ッ!!」
親父のブチギレた声が、マンションの壁に反響する。
普段は母ちゃんにシバかれているだけの「ろくでなし」が、今は一人の友人のために、日本最大の極道組織を真っ向から恫喝している。
「……いいか、山本! 橋本! これがどういう意味か分かってんだろうな! メンツだの何だの言ってる暇があったら、今すぐ動ける若い衆を全員、北野の出口に集めろ。一秒でも早くその車を特定しろ! もし逃がしたら……次は俺が直接本家に乗り込んで、お前ら全員デリートしてやるからな!!」
親父はそう言い捨てると、乱暴に電話を切った。
そして、真っ赤な瞳を光らせるシュン兄と、俺の方を鋭い眼光で射抜いた。
「……取り敢えず山本組に行くぞ。野崎が逃げた先、あいつらの情報網が一番早いはずだ」
「……はぁ。やりたかないねー、本当に……」
俺は吐き捨てるようにボヤいたが、その実、震える右手の指先は、親父が引き起こした巨大な「暴力の連鎖」を検知して狂ったようにビートを刻んでいた。
なぁ、あんたならどう思う?
国家権力の警察、最凶の陰陽師、そして日本最大の極道が、一人の鬼のために手を取り合う。
藤原の残党どもは、システムをハックしたつもりでいたんだろうが、あいつらは知らなかったんだ。
酒呑童子という怪物の逆鱗に触れることが、この国の『表』と『裏』を、どれほど無茶苦茶に再起動させてしまうのかを。
「博雅、道満! 置いて行かれたくなかったら飛び乗れ! ……シュン兄、アクセルだ!」
タイヤが白煙を上げ、黒いセダンが六甲の山道へ向けて弾かれた。




