嘘の婚約者
王宮の謁見室は、異様なほど静かだった。
高く張り巡らされた天井に、淡い光が反射し、床に落ちる影すら均一に整えられている。
「本日の面談は、非公式扱いとする」
エルナスの声が、空間の奥で静かに響いた。
玉座ではない。だが、それに近い位置に彼は立っていた。
その前に、タシトが一歩踏み出す。
視線は揺れない。ただ、周囲の空気だけがわずかに張り詰める。
「呼び出しの意図は?」
短い言葉。
だが、その奥にある警戒は明確だった。
そしてその場の中心に、まだ“いないはずの人物”がいることを、タシトは理解していた。
――カナタ。
◇
カナタが入ってくる。
「タシト隊長……」カナタは不安そうだった。
その瞬間、空気がわずかに揺れた。
タシトはすぐには動かない。
だが、視線だけが一度だけ彼女に向いた。
「……無事か」
それだけだった。
余計な言葉はない。
説明もない。
ただ、その一言だけが、逆に“関係の深さ”として残る。
エルナスは、その沈黙を見ていた。
カナタは、エルナスを見た。
だが、エルナスは何も言わない。
動いていいのか分からないまま、カナタは一歩だけ踏み出す。
そして、タシトの前に立った。
「……大丈夫でしたか」
小さく息を吸う。
「私は……エルナス王に、よくしていただいています」
言い切った瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
「どうするつもりだ」
タシトは、エルナスを見た。
エルナスは、すぐには答えない。
一度だけカナタに視線を落とし、それからタシトを見る。
「どうするつもりもない」
静かな声だった。
「ただ、確認したいことがあっただけだ」
少し間を置く。
「……君たちの“距離”をな」
エルナスはそれだけ言うと、わずかに視線を外した。
「つもる話もあるだろう。私は席を外す」
そう言って、背を向けた。
◇
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
二人きりになった空間に、カナタの心臓が落ち着かない。
恐る恐る、タシトを見る。
タシトは、しばらく何も言わなかった。
やがて、大きく息を吐く。
そして――
正装した服のポケットから、小さな箱を取り出した。
「……え」
次の瞬間。
タシトは、カナタの前で静かに跪く。
そっと、小さな箱を開いた。
中には、銀色に輝く婚約指輪。
「……カナタ。遅くなった」
「あ……」
言葉が、出ない。
これも――演技?
どこかで、誰かに見られているから?
一年間だけの、“嘘の婚約者”。
そのはずなのに。
胸の奥が、わずかに熱を持った。
ゆっくりと、カナタの薬指へ指輪がはめられる。
カナタは、小さく息を飲んだ。
タシトの視線は、カナタの指先へ落ちている。
――その表情からは、何も読み取れない。
「通信は、繋がっていないんだな」
タシトが、小さく言葉を切る。
「そうなんです。ここ、王宮のセキュリティがあるみたいで…… ユウナギにも連絡が取れなくて……」
王宮へ来てからずっと、
カナタはリング端末の通信機能が遮断されていることを気にしていた。
「……そうか」
一瞬だけ、空気が静かになる。
そしてタシトは、不意に口を開いた。
「カナタのポトフが、また食べたい」
「……え?」
タシトの口元が、ほんのわずかに緩む。
その表情は、一瞬だった。
けれどカナタには、その笑みがどこか儚く見えた。
――どうしてだろう。
胸が、小さく揺れた。
(第九三章・了)




