何もなかった夜
その違和感は、説明できないほど小さかった。
けれど――確かに、そこにあった。
放棄された宇宙ステーションは、継ぎ接ぎの金属で再構築されていた。
外壁は歪み、内部は最低限の灯りだけが脈打っている。
――監獄。
その一室で、男は笑っていた。
「……俺が何したってんだよ。なあ?」
鎖はない。
逃げ場がないだけだ。
腕には、異様な数のリング。
十を超えてなお、すべてが静かに従っている。
顔の半分は機械。
だが――笑い方は、人間のそれではなかった。
「アストレアに帰らせろよ。話はそれからだろ?」
床が開き、食料パックが滑り込む。
「うるせえな」
看守は顔も見せない。
「妄言草で脳が焼けたか?
グランディアの技術まで入れて、そのザマか」
男は返事をしない。
ただ、パックを噛みちぎる。
――咀嚼音だけが、やけに響いた。
その時。
足音。
複数。
看守の気配が、わずかに変わる。
「……来たか」
扉は開かない。
だが、外側に“立っている”のがわかる。
「何だよ。見世物か?」
男は顔も上げない。
一拍。
「――グロジア」
名前を呼ばれた瞬間、咀嚼が止まった。
ゆっくりと、顔を上げる。
「……あ?」
視線だけが、獣のように鋭い。
「アストレアに戻りたいか」
沈黙。
そして――
「条件次第だな」
口の端から、血とも油ともつかないものが垂れる。
外の声は続けた。
「仕事だ」
「……誰を殺す?」
即答だった。
わずかな間。
「タシト・レヴァント」
その名が落ちた瞬間。
グロジアは――初めて、はっきり笑った。
「誰だそいつ」
*回想
窓に外光は入らない。
会議室は、声だけが反響していた。
「……本気か。あれを、コロニーに落とす気か?」
ざわめき。
「問題ない」
短い否定。
「制御は、こちらで握っている」
一拍。
「――“正規の系統”じゃないがな。
王の許可を介さずに制御する、外付けのリング媒体だ。
オルデン・コアが処分するまでの間に発生し得た“例外”だ」
空気がわずかに変わる。
誰かが、低く吐き捨てた。
「野放しにしていい代物じゃない」
「だから使う」
即答だった。
机に指が触れる音。
「記録は残らない。所属もない。
失敗しても――最初から“いなかった”ことになる」
沈黙。
やがて、別の声。
「……そこまでして、タシトか」
かぶせるように。
「――どちらも怪物なら怪物同士をぶつけたらいい」
わずかな間。
「奴の反応を取る。座標、発現、すべてだ」
「……実験か」
「有効活用だ」
乾いた訂正。
「どうせ――処分予定の個体だ」
*
「タシト隊長、今日は遅いな。最近は土曜日は帰ってくるはず」独り言のように呟くカナタ。
あの後何があったんだろう。ユウナギは、ルイゼンさんに呼ばれて施設の外に出た。
その後、タシト隊長と戻ってきた。
――ユウナギの様子が少しおかしかった。
カナタは、想像を巡らせ一人で夕食をすませていた。
チャイムが鳴る。
「あっ、帰ってきた?」
反射的に立ち上がる。
――けど。
「……あれ」
足が、止まった。
モニターを見る。
誰も映っていない。
ノイズもない。 ただ――“何もない”。
「……?」
もう一度、チャイム。
今度は、わずかに間がずれていた。
「……隊長?」
呼びかける。
返事はない。
静かすぎる。
カナタは、ゆっくりとドアに近づく。
指が、パネルに触れる直前――
ほんの一瞬だけ、ためらった。
(……何だろう)
理由は、わからない。
けれど。
「……気のせい、か」
カナタは、深く考えず扉を開けた。
――その瞬間。
音が、消えた。
カナタは、思わず息を吸った。
――吸えた、はずなのに。
何も、聞こえない。
いや――
最初から、何もなかったみたいに。
(第七十五章・了)




