決断の渓谷
誰も知らない場所で、
ひとつの“決断”が下される。
それはまだ誰の耳にも届かない。
けれど――確実に世界を動かしはじめる。
衛星メア・フェール。
深く沈んだ渓谷の底は、
風すら通わない、重い空気に満ちた世界だった。
タシトは黙っていた。
表情ひとつ動かさず、ただ岩壁に埋もれる“それ”を見つめている。
渓谷の壁の影――
岩肌と同化するように、卵型のアンドロイドが、まるで孵化する時間を忘れたように眠っていた。
表面はわずかに光を反射し、
それはまるで、静かに呼吸しているようにも見えた。
「旧型のアンドロイド、リエル……。
このタイプの旧式卵型は、理論上は、ひと型へ変化するはずです」
白衣の科学者が、手首の端末に視線を落としながら淡々と言う。
「伝説級とはいえ、今のこの型なら、
惑星グランディアに持ち込んでも、ほとんど探知網には引っかかりません」
タシトが踏み込み、拳を壁へ叩きつけた。
ただの破壊ではない。
崩すべき一点だけを正確に選んだ、迷いのない一撃だった。
次の瞬間――
轟音が渓谷を満たし、壁が波のように崩れ落ちる。
岩片が雪崩のように落下し、
その中から、白い卵型の物体が引きはがされるように姿を現した。
ケティオスが素早く走り込み、それを受け止め、丁寧に地面に置いた。
見た目に反して、驚くほど軽かった。
粉塵がまだ空中を漂い、視界を少し曇らせている。
その静まりきらない空気の中で、科学者は端末を操作し、息を詰める。
「……データ、確認しました。
識別コード……該当なし。
製造記録も、存在しない」
言葉を切り、声を落とす。
しばし、誰も口を開かなかった。
ただ渓谷の底に、かすかな風音だけが残る。
「……どうした?」
「――神経パターンだけが、明確に残っています。
“人間の脳活動”とほぼ一致。
しかも……“休止していない”」
視線だけが、音を失っていく。
ケティオスが低くつぶやく。
「……稼働状態、ということですか?」
科学者は、ゆっくり首を振る。
「“稼働”ではありません。
制御が切れているはずの状態で――
“自律的な思考活動”が維持されています。
……この個体は、外界から遮断されたまま、
思考を、止めていません」
誰も言わない。
ただ沈黙だけが落ちる。
タシトだけが、ただ見つめていた。
驚きではない。
すでに知っていた者の視線。
けれど、心の奥では、
事態の重大さを計算していた。
◇
科学者は無言で端末に視線を戻し、さらに解析を進める。
やがて、眉を寄せ、小さく息を呑んだ。
「……奇妙ですね。
このデータ、“二系統”に送信されています。
こちらの操作を受け付けていません」
ケティオスが短く問う。
「どういうことです?」
「通常の作戦記録保存ルート――そしてもう一つ。
軍本部の上層部、直通回線です」
空気が凍った。
タシトが低く問う。
「ここで、そんな送信を許可した覚えはない」
科学者は首を振る。
「許可ではありません。
“個人権限による密送信”です。
――この現場にいる“誰か”から。」
数秒の沈黙。
誰も言わない。 けれど、視線だけが静かに一箇所へ集まっていく。
それは言葉よりも冷たく、確実な“指名”だった。
ゼスカ。
ゼスカの喉が、かすかに鳴った。
「……誤作動では?」
声は落ち着いている。
しかし言葉と違い、手袋の上からでも分かるほど、指が強く握られていた。
タシトは、ただ見つめるだけだった。
責めない。問いたださない。
それが逆に――逃げ道を、消していく。
静かに、
ケティオスのヴェールガンが、ゼスカの額に照準が定まる。
「――待て」
低い声。
ただそれだけで、誰も動けなくなる。
「生かせてやる」
まるで刑を言い渡すように。
それは救いではなく――
“生存の許可”だった。
それが宣告された瞬間、
ゼスカは一瞬だけ目を閉じた。
まるで息を吐く代わりに、“覚悟”を飲み込むように。
そして――
立ったまま、ただ静かに呼吸を戻す。
重く張り詰めた空気の中、科学者だけが再び端末へ意識を戻していた。
「……ただ、現時点では断定できません」
科学者は端末を見つめながら、声を落とす。
「この反応が何であるか、説明できる理論はありません」
少しだけ視線を上げる。
「タシト少佐。
危険を負ってまで回収する判断は……
今得られている情報だけで、本当に妥当だとお考えですか?」
タシトは短く答えた。
目は動かさず、視線だけが渓谷の底を捉える。
「妥当だ。――回収する」
渓谷に、決定だけが落ちた。
音も、風も、すべてが止まったかのように。
(第五十一章・了)
回収――
それは救済でも、発見でもない。
選び取り、抱え込み、背負うということ。
タシトはそれを理解したうえで、選んだ。
物語は、静かに次の段階へ進みはじめる。




