王宮の花
その花は、ただ美しいだけのものではない。
誰の手にも触れず、
誰の名も残さず、
それでも確かに、誰かの想いを運ぶ。
王宮で摘まれた一輪の花は、
静かに、そして確実に世界を渡っていく。
――それがどこへ辿り着くのか、
まだ誰も知らない。
王宮の温室で摘まれたクチナシ。
その香りだけが、静かに王家の気配を宿している。
セリューは直接手を伸ばすことはない。
記録の残らない配送網を通り、
花は静かに都市へ流れ込んだ。
表の顔は普通の店。
裏では“情報が集まる場所”として知られている。
「宛名は?」
花商は、当たり前の業務のように尋ねる。
「匿名で。送り先は――学校だ」
声だけ残し、依頼主は姿を消す。
普通なら、それで終わる。
――だが、この都市は静かすぎる。
花が動いた、その瞬間。
いくつもの監視網が、音もなく連動した。
違法配送の揺らぎ。
匿名支払いの偏り。
ばらばらの情報が、ある一点へと重なっていく。
そして結果だけが、特定の演算系へと送られる。
通常の管轄には属さない領域。
書類の先には――
中央特殊部隊要請学校
カナタ・アレイシア
評価基準が、わずかに書き換わる。
本来あり得ない補正。
「……そう」
その判断だけが残り、ログは消えた。
*
いま立っているのは、
コロニールミナリアの離宮の庭。
けれど、指先に触れるクチナシの香りだけは──
あの日の、惑星アストレアの宮殿庭園と同じだった。
「王になったら、こんなに制限されるんだな。本当なら直接渡したい」
エルナスは、クチナシの花を指先で摘むと、胸の奥に焼きついた光景がよみがえった。
11歳のあの日──母の厳しい申し付けに反発するように、私は宮殿を抜け出した。そこへ、一人の少女が現れた。
「この花もらっていい?」
少女はそう言って摘むと、いきなり私の耳に挿した。
そして自分の耳にも同じように挿す。
「似合う。──危なかったね。あのままだったら、本当に“操り人形”になるところだったよ」
「見てたのか?あれ、そんなに分かりやすかった?」
「ごめん、散策が好きなもので」
「本当の優しさは、相手にいい顔することじゃないよ」
そう言って、少女は笑った。
「抜け穴、見つけたんだ。……来る?」
エルナスは、その誘いに乗った。
――あれは、命知らずな逃走だった。
それでも、あのとき初めて「外の空気」を吸った気がする。
その片鱗が、どこかカナタ・アレイシアと重なる。
彼女ではない──分かっている。
それでも、惹かれてしまう。
あれは、ただの偶然だったのだろうか。
彼女と、あの少女は違う。
それでも──似ている。
危ういほどに。
あの日、名前を聞きそびれた。
気づいたときには、もう背中しか見えなかった。
*
特殊訓練施設は地下深くに造られており、
白一色の壁と均一な照明に満たされている。
影が生まれにくい構造のせいで、どこまでも逃げ場がない。
訓練を終えた特殊部隊候補生たちが、ざわめきの中で退室していく。
タシトは、皆の後を無言で歩いていた。
地上へ繋がる長いスロープ。
エレベーターも階段もあるが、今日は自然と皆、同じ道を選んでいた。
地上へ上がった先で、空気が変わった。
大きな花束を抱えた配達業者が、プラス先生と話しているのが見えたのだ。
「……カナタ!」
プラス先生が手を振る。ひと呼吸遅れて、その意味が周囲に伝わる。
「お前宛てに、花束が届いた」
ざり、と靴音が止まった。
ほとんどの生徒が足を止め、視線だけが一斉に向く。
そこへ、遅れてタシトが現れる。
腕に付いた埃を払いながら歩み寄り、状況を理解した瞬間、動きがわずかに止まった。
プラス先生が花束を掲げる。
濃い薔薇の赤。その中に、紛れるように──白。
「……くちなし」
カナタは、誰よりも先に気づいた。
先生がさらに封筒を差し出す。
「メッセージ付きだ。……『いつかのラン友より』、だとさ。なんだろな」
空気が、静かに揺れた。
ユウナギは、強く唇を噛んだ。
自分の手の届かない場所へ連れていこうとするのは、タシトだけではなかった。──否応なしに、力が及ばない現実が、胸に刺さる。
「ありがとうございます」
カナタは、花束を静かに受け取る。
タシトは、横目にそれを一瞥しただけで、何事もなかったように背を向けた。
淡々と歩き去るその背中を、周囲の生徒たちはただ無言で見送るしかなかった。
(第四十七章・了)
たった一つの花が、
人の記憶を呼び起こし、
そして世界をわずかに動かす。
それは偶然ではなく、
どこかで繋がっていたもの。
まだ見えない糸が、
確かに動き始めている。




