帰る場所
人は誰でも、帰る場所を探している。
それが家なのか、人なのか、記憶なのか、
その時の自分には、まだ分からない。
けれど――
誰かの「おかえり」を待つ時間は、
少しだけ、心を家族にする。
特殊能力訓練学校の昼休み。
広い食堂には、訓練服姿の生徒や職員が溢れ、あちこちで話し声と食器の音が重なっていた。
天井まで届くガラス窓の向こうからは、恒星ソレイユの光がやわらかく差し込み、人工照明とは違う穏やかな温度を床に落としている。
区画ごとに配置された観葉植物が、人の多さとは裏腹に、どこか落ち着いた空間を作っていた。
奥のカフェテリアには軽食を求める列ができ、昼休みのざわめきはまだしばらく続きそうだった。
一階エントランス。
大階段の下に、タシトの姿が見えた。
人の流れの中で、彼だけがいつも少し浮いている。
誰とも並ばず、誰とも話さず、
——あの人は、いつも一人で帰っていく。
次の瞬間には、カナタの足はもう動き出していた。
「ごめん、ミラ。先行ってて!」
あまりにもまっすぐな勢いに、ミラは言葉を失う。
呼び止めようとした声は喉に引っかかり、音にならなかった。
少し離れた場所で、ユウナギはそれを見ていた。
声は届かない。
その距離だけが、やけに遠く感じた。
カナタは息を切らせて、タシトの前に立つ。
一ヶ月が過ぎていた。
そのあいだ、タシトは一度も帰って来なかった。
「……タシト隊長、いつ帰られますか?」
勢いのまま、声がこぼれる。
「私、……家庭料理と言うものを作ってみたいんです」
——誰かのために作るご飯。
それがどんなものか、知りたかった。
言葉にした瞬間、もう引き返せない気がした。
「え?」
短い問い返し。
一瞬、空気が止まる。
タシトはわずかに視線を落とした。
沈黙が、ほんの一呼吸だけ流れる。
そして――
「……なら、今日帰る」
いつもの無表情。
変わらない声。
なのに、その一言は、胸の奥にまっすぐ落ちてきた。
「今日!? え……あ、はい! 分かりました!」
何の準備もしていない。
心だけが先に走ってしまっていたことに気づいて、慌てるカナタ。
けれど、その顔はどこか――安心した表情だった。
ユウナギは視線をそらし、
隣のシャドと、何事もなかったように食堂へ向かった。
「ごめん、お待たせミラ」
「……カナタ、本当に隊長の“婚約者”になってしまったんかな」
ミラが、ぽつりと落とす。
「……」
カナタは黙った。
「カナタが選んだ道なら、私は何も言わない。
でももし、隊長に“何か”握られてるなら言って。
私は、カナタの味方だから」
ミラの勘は、いつも鋭い。
そして同時に――ずっと、私を信じてくれている。
「時がきたら……その時には、ちゃんと話す。
それまで、待ってて」
「……時が来たら、か。……わかった」
それ以上、この話題が
ミラの口に上ることは、もうなかった。
一年間の婚約生活。
確かに、タシトはそう言った。
なら、その間だけでも、家族と言うものを演じてみよう。
好奇心ではない。心の穴埋めでもない。
ただ、何かを学びたいと思った。
そんなことを考えてしまう自分が、端から見れば、きっとおかしなやつに違いなかった。
夕刻。いつものように、ケティオスが門の前で待っていた。
「ケティオスさん、今日は……家庭料理を作ります。
買い出しに寄っても、いいですか?」
少しの沈黙。
ケティオスは視線を伏せ、考える。
「……家庭料理?どのような?」
「わかりません。でも養母はよく出来合いのポトフを買って来てくれていました。でも、私は一から作ってみようかと」
「そうですか。ポトフの材料をですね」
そう言って、指先でリングを軽く撫でる。
通信の光が一瞬だけ揺れた。
「はい。わかりました」
「――意外だ」
小さくつぶやいたあと、どこか柔らかい目でカナタを見る。
「では、急ぎましょう。時間は限られています」
「ありがとうございます!」
久しぶりに降り立った郊外のスーパーは、
どこか懐かしい“生活の匂い”に満ちていた。
軍車両の金属の冷たさも、
特殊部隊の緊張感もない場所。
ケティオスと並んで歩く距離が、
ほんの少しだけ近づいた気がした。
買い物袋を抱え、
タシトの帰る高層ビルへ向け、車は静かに走り出す。
「……何となく、分かった気がします」
突然、ケティオスが口を開いた。
「え?」
「タシト隊長は、人を寄せ付けない方です。
それなのに“婚約者”がいると聞いた時、
部隊の者たちは、皆驚きました」
少しだけ、柔らかい声音で続ける。
「――あなたが、あの方を変えたのかもしれません」
カナタは、返す言葉を失った。
そんな風に言われるような関係じゃない。
心が深く触れ合ったわけでもない。
(……違うよ)
胸の奥で言いかけて、
代わりに、ひとつだけ強く思った。
――今日は家族として、ただ労おう。
ただそれだけだった。
それが本物かどうかなんて、まだ分からなくても。
(第四十四章・了)




