不思議な来訪者
タシトの“婚約者”として保護されることになったカナタ。
安全なはずの生活は、どこか「静かな檻」のようで――。
そんな日常の中に、ひとりの不思議な少女が現れる。
カナタは、高層ビルの地下駐車場へ降りていった。
そこから案内されるまま、静かな住居へと通される。
リビングは広く、外の喧噪が嘘のように静かだった。
観葉植物の根元には自動給水が流れ、白い花がひとつ、凛と咲いている。
「この花は?」
思わず尋ねると、ケティオスが淡々と答えた。
「クチナシです」
甘い香りが、胸の奥を締めつけた。
――この匂い。
いつか、タシトから感じた香りだ。
「私、タシト隊長と……住むんですね?」
ケティオスが一瞬、まばたきを止める。
「……え?」
「あ、その……信じられなくて。私、ここで暮らせるんだって」
口が滑る。危ない。婚約の真実を知られてはいけない。
でも――“隣”じゃなくて“同じ家”。
その事実が、ゆっくり現実味を帯びてのしかかってくる。
「外出はお控えください」
ケティオスの声は丁寧だが、容赦がない。
「必要なものは、すべて私がご用意いたします。タシト隊長のご指示です」
「友達に会いに行くのは……?」
「駄目です」
その一言は鋭く、打ち落とされた。
「タシト隊長は軍内でも要の存在です。婚約者である以上、あなたは“守られるべき弱点”にもなり得ます。ご理解ください」
監禁――?
そう考えた途端、ここが“家”ではない気がして、背中に冷たい汗が滲んだ。
「登校の際も、毎朝私がお送りいたします」
その夜、タシトは帰ってこなかった。
静かな部屋に、クチナシの香りだけが残る。
翌朝、ケティオスが迎えに来た。
「おはようございます」
丁寧で落ち着いた声。
なのに――なぜかユウナギの面影と重なる。
似ていないのに、似て見える。
きっと、今の自分が不安定なだけだ。
学校に着き、教室の扉を開けた瞬間。
ざわめきが、音を失ったように止んだ。
視線が一斉に刺さる。
痛い。
息が苦しくなる。
「衛星メアで、タシト隊長と一緒に消えたよな」
「しかもさ、あれ……雰囲気良かったよな」
噂は勝手に形を持ち始める。
そんなんじゃない。
なのに――否定する声が出ない。
前の席で、ユウナギはただ静かに授業を待っていた。
いつもと同じ姿勢。
でも、背中が遠い。
ミラが振り向く。
目が合った。
「……おはよう」
「……おはよう」
それだけで胸がいっぱいになり、涙がこぼれそうになった。
「ちょっと意地悪してみる?」
後ろで誰かが低く笑う。
「やめとけ。殺されるぞ」
「……確かに」
そんな軽口すら、今日は遠くに聞こえる。
そこへ、プラス先生が入ってきた。
「えー、今日は一つ知らせがある。
ずっと不登校だった生徒が、今日から復帰する。仲良くしてやってくれ」
静かな空気が、さらに静まる。
扉が開き、ゆっくりと少女が入ってきた。
マントのフードを深く被り、顔の半分が影に沈んでいる。
「……すみません。長く欠席していました。
ヨガサ・イーサンです」
落ち着いた声なのに、不思議と教室の温度が一度下がったように感じる。
「将来の夢は――占い師です」
その瞬間、微かなざわめきが走った。
「……ヤバいの来たな」
どこかで誰かが、息をひそめるように呟く。
彼女は前を向いたまま、一度だけ静かに教室を見渡した。
その視線が、なぜかカナタの胸を掴んで離さなかった。
「いやいや、ヨガサ。ここは特殊部隊養成学校だ。
いきなり、別の夢を語ってどうするんだ」
プラス先生が苦笑しながら言う。
「すみません、先生。……私、人生を考えると、すぐ迷子になってしまうので」
声は穏やかで、どこか場に似つかわしくないほど柔らかかった。
「あ、ああ……それはまた後で聞こう。
とりあえず、カナタの後ろに座ってくれ」
ヨガサは静かに頷き、カナタの横を通り過ぎて後ろの席へ向かう。
通り過ぎる瞬間、なぜか風が一度だけ止んだような感覚がした。
――重たいわけじゃない。
けれど、言葉にできない“温度の違い”だけが、背中に触れていた。
授業が始まる。
しばらくして――カサ、カサ、と紙の音が微かに響いてきた。
(気になる……)
思わず振り返ると、ヨガサは端末を閉じ、鉛筆で何かを書いていた。
「すみません。端末が、どうにも馴染まなくて」
申し訳なさそうに微笑む姿が、妙に人間味があった。
「それなら……これ、良かったら使ってください」
カナタはプリントを差し出す。
「今までの要点、まとめてるので。
私、またコピーすればいいので」
ヨガサは一瞬だけ手を止めた。
そして、静かに言葉を落とす。
「あなたは、――」
教室が、息をひそめる。
次にくる言葉を、誰もがなぜか待っていた。
「……優しい人ですね」
胸にそっと触れる声だった――のに。
「いや占いじゃないんかい」
ソードがボソッと遠慮気味に突っ込んだ。そのタイミングが絶妙すぎて、周囲が思わず息をゆるめた。
ミルルが手を上げる。
「先生! このマントの人のせいで、前が見えないんですけど!」
「あぁ、そうだった。ヨガサ、マント外せるか?」
少しの沈黙。
「……出来ません」
プラス先生は一瞬だけ戸惑い、しかし無理に踏み込まずに頷いた。
「……だそうだ。続けるぞ」
教科書に視線を戻す。
その瞬間。
バーチが、勢いよく笑いを含んだ声で叫んだ。
「いやなんでやねん!」
教室に小さな笑いが走り、張り詰めた空気が、ほんの少しだけ解けた。
「ヨガサは、少し人前が苦手なんだ。
無理はさせない。だが――仲良くしてやってくれ」
教室は再び静まり返った。
だが今度の沈黙は“恐れ”ではなく、
“触れると壊れてしまいそうで、どう扱えばいいか分からない空気”だった。
ヨガサは顔を伏せたまま、
けれどどこか遠くを見るような声で、かすかに話す。
「……大丈夫です。
ただ……人の顔を見ると、少し緊張するだけで」
その声は不思議と落ち着いていて、
教室の空気を柔らかく撫でた。
カナタの胸が、なぜか少しだけ痛くなる。
(……この子、ただの恥ずかしがりやじゃない)
ヨガサは前を向いたまま、ぽつりと続けた。
「でも安心してください。
私、人の心なら……わりとよく見えるので」
カナタの背中に、微かな視線が触れた気がした。
「とりあえず、ミルルとヨガサの席を入れ換えよう。また後日、席替えをする」プラス先生は、机の移動を指示した。
ミルルの机が動く音だけが、やけに大きく響いた。
カナタも机を持ち上げるのを手伝った。
その拍子に、ヨガサの机の上に置かれていたメモが、
ふと重なりからずれて、視界に入る。
ほんの一瞬。
けれど、十分だった。
それは――ウサギの走り書きだった。
丸くて、小さくて、どこか寂しそうなウサギ。
なのに、見ていると胸の奥が――少しだけ温かくなる。
(第三十五章・了)
静かに閉ざされていく生活と、突然の来訪者。
カナタの心に灯った小さな違和感は、
まだ誰にも気付かれていない――。




