動き出す境界
ただの一日になるはずだった。
その中心に、彼が現れるまでは。
タシトは、官舎の廊下を歩いていた。
早朝の空気は冷たく、誰の声もないはずの時間――
「……戻ったのか」
背後から低い声が落ちてきた。
「どこに行っていた?」
特殊能力部隊曹長、ジランド・ヴェルローク。
短く刈られた髪。大きな体躯。
見下ろすだけで圧力になる男。
「……」
タシトは答えない。
「これ以上、勝手な行動は控えろ」
ジランドの声が固くなる。
「お前が“何かを隠している”と、
軍が嗅ぎはじめている」
廊下の空気が、少しだけ重くなった。
まだ朝だというのに、息が詰まる。
「……あの時、お前を拾ったのは間違いだったのか」
「俺に、そう思わせるな」
タシトは目を伏せる。
そして――
「……わかった。すまない」
次の瞬間、彼の姿は掻き消えた。
瞬間移動。
何も残らない廊下に、ジランドだけが立っていた。
*
学院に、登校を告げる厳かな鐘が鳴る。
特殊部隊訓練生――選ばれし精鋭クラス。
「おはよー!」
教室の端で、軽い声が飛ぶ。
「……はぁ。もうこれは呪いだよな」
椅子に腰を下ろしたまま、ソードは指のリングを睨みつける。
隣でバーチも同じようにため息をついた。
「なぁ、ミルル。俺、この一週間何してたと思う?」
バーチが振る。
「知らないよ。ていうか、あんまり知りたくもないけど……」
ミルルは肩をすくめてから、
「女の子追いかけてた、とか?」
と付け足した。
「俺そんなイメージ?」
バーチは乾いた笑いをこぼす。
「違うの!?」
ミルルが机から乗り出した。
「ソードと訓練してた」
「――うそ!?すご!見直した!」
なぜか笑いながら言うミルルに、ソードが冷ややかな視線を送る。
「だってこいつ、衛星メアで全然使えなかったろ?
俺、怖くてな。今後のためにも」
「まぁ……ソウルメイトとしては、そうなるよね」
ミルルがちらりとソードを見る。
「お前ら……見てろよ」
「おはよー!昨日の戴冠式見た?」
ミラが入ってくる。
「見た見た!」
ミルルが勢いよく振り返る。
「王、めっちゃカッコよくてびっくりした!」
「まあ、それもそうだけど――」
ミラが続けようとした、その時。
教室の扉が開く。
二人が入ってくる。
「……いた……!」
ミラは一瞬固まってから、
「なんで“そこに”いたの!!?」
と、カナタに詰め寄った。
「戴冠式!!」
「――おしゃべりはそこまでにして」
授業開始前の教室に、プラス先生の声が突然落ちた。
「悪いが今日は授業は無しだ」
教室がざわつく中、シャドが遅れて顔を出す。
「え?なに、もう授業始まってた?」
「カナタ。事務室に来てくれ」
*
事務室。カナタは椅子に座らされ、スーツ姿の男と向き合っていた。
「悪いな、カナタ。……これは“上の上”からの通達だ」
「上の、上?」
「君には、ここを辞めて転入してもらう」
端末が差し出される。地図。王都。
「――え?」
「王直属の身辺……まあ、言ってみれば“お側付き”だ」
プラス先生の声が遠ざかる。
エルナスの心意気なのだろうか――
そう思った瞬間、胸の奥に“あの時”の記憶が浮かぶ。
川原。
まだ夜の冷たさを残した、早朝の空気。
レベルが無いまま進級した私を、誰よりも真剣に心配してくれた人。
母とぶつかって、どうしようもなくて、逃げるように来たあの場所で――
エルナスは最後まで、黙って話を聞いてくれた。
*まだ私を、気にかけてくれている?
それとも、ただ“王”として必要と判断しただけ?*
きっと、私がまだ特殊部隊で訓練を続けていたことにも驚いたのだろう。
――そう思おうとした。
「どうする? カナタ。……と言っても、ほぼ“勅令”みたいなものだが」
プラス先生の声が、少しだけ優しく落ちる。
「ま、待ってください。それは――」
言い終える前だった。
「駄目だ」
ドアが開き、低い声が、部屋の温度を一段下げる。
タシトが立っていた。
次の瞬間。
彼は迷いもなく手を伸ばし、端末を掴むと、無造作にそれを折り砕いた。
乾いた音が、事務室に落ちる。
「タ、タシト隊長!?」
プラス先生が呆然と声を漏らす。
割れた板から視線が離せないまま、顔色が青くなっていく。
通達を持ってきたスーツの男は、完全に言葉を失っていた。
「な、何てことを……あなたは、一体……!」
タシトは一歩、前に出た。
その声は、ただ静かに、しかし絶対だった。
「彼女は、私の婚約者だ」
――空気が止まった。
音も、呼吸も、時間も。
事務室の全てが凍りつく。
そして。
カナタが、一番、言葉を失っていた。
*
下校の途中。
まだ昼前だというのに、空気はどこか緩く、三人は肩の力を抜きながら歩いていた。
「なあ、飯でも食いに行かない?」
バーチが伸びをしながら言う。
「なんもしてないのに体力削られるって、どんな学校だよ……」
ソードはぼやくように言った。
「突然の休みって最高!」
ミルルは笑顔で言ったが、すぐに気持ちを切り替えたように手を振る。
「でも私、ちょっとショップ寄る!ここで抜けるね!」
その瞬間――
通信が鳴った。
三人の足が、同時に止まる。
「……もしもし?」ミルルが出る。
『プラス先生だ。授業を再開する。タシト隊長もお戻りだ』
「「はぁ!?」」
バーチとソードの声が綺麗に揃った。
「嘘でしょ……」
バーチが頭を抱え、
「マジかよ……」
ソードは心底嫌そうに顔をしかめる。
そして。
「よっしゃあ!!」
ミルルだけが両拳を握ってガッツポーズをしていた。
「なんでお前だけテンション上がんだよ!!」
そんな軽口を叩きながら戻った教室――
空気は、さっきまでとは違っていた。
重い。
静かすぎる。
誰も冗談を言わない。
そして、その中心に。
タシト隊長が立っていた。
ただそこにいるだけで、空気が締め上げられる。
授業再開のベルが鳴る。
カナタは、タシトを見た。
心が、追いつかない。
その“事実”を知っているのは、
いま、この場で――カナタと、プラス先生だけ。
他の誰も、まだ知らない。
(第二十八章・了)
軽い足取りで戻ったはずの教室は、
もう“いつもの場所”ではなかった。
静寂の中心に立つタシト。
ただ、それだけで世界は変わる。
まだ知られていない事実。
カナタの胸だけが、その重さを知っている。
次に動くのは――彼か。
それとも、運命か。




