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動き出す境界

ただの一日になるはずだった。

その中心に、彼が現れるまでは。


タシトは、官舎の廊下を歩いていた。

早朝の空気は冷たく、誰の声もないはずの時間――


「……戻ったのか」

背後から低い声が落ちてきた。


「どこに行っていた?」

特殊能力部隊曹長、ジランド・ヴェルローク。

短く刈られた髪。大きな体躯(たいく)

見下ろすだけで圧力になる男。


「……」

タシトは答えない。


「これ以上、勝手な行動は控えろ」

ジランドの声が固くなる。


「お前が“何かを隠している”と、

軍が嗅ぎはじめている」


廊下の空気が、少しだけ重くなった。

まだ朝だというのに、息が詰まる。


「……あの時、お前を拾ったのは間違いだったのか」

「俺に、そう思わせるな」


タシトは目を伏せる。

そして――

「……わかった。すまない」


次の瞬間、彼の姿は掻き消えた。

瞬間移動。


何も残らない廊下に、ジランドだけが立っていた。




学院に、登校を告げる厳かな鐘が鳴る。

特殊部隊訓練生――選ばれし精鋭クラス。


「おはよー!」

教室の端で、軽い声が飛ぶ。


「……はぁ。もうこれは呪いだよな」

椅子に腰を下ろしたまま、ソードは指のリングを睨みつける。

隣でバーチも同じようにため息をついた。


「なぁ、ミルル。俺、この一週間何してたと思う?」

バーチが振る。


「知らないよ。ていうか、あんまり知りたくもないけど……」

ミルルは肩をすくめてから、

「女の子追いかけてた、とか?」

と付け足した。


「俺そんなイメージ?」

バーチは乾いた笑いをこぼす。

「違うの!?」

ミルルが机から乗り出した。


「ソードと訓練してた」


「――うそ!?すご!見直した!」

なぜか笑いながら言うミルルに、ソードが冷ややかな視線を送る。


「だってこいつ、衛星メアで全然使えなかったろ?

俺、怖くてな。今後のためにも」


「まぁ……ソウルメイトとしては、そうなるよね」

ミルルがちらりとソードを見る。


「お前ら……見てろよ」


「おはよー!昨日の戴冠式見た?」

ミラが入ってくる。


「見た見た!」

ミルルが勢いよく振り返る。

「王、めっちゃカッコよくてびっくりした!」


「まあ、それもそうだけど――」

ミラが続けようとした、その時。


教室の扉が開く。

二人が入ってくる。


「……いた……!」

ミラは一瞬固まってから、

「なんで“そこに”いたの!!?」

と、カナタに詰め寄った。


「戴冠式!!」


「――おしゃべりはそこまでにして」

授業開始前の教室に、プラス先生の声が突然落ちた。

「悪いが今日は授業は無しだ」


教室がざわつく中、シャドが遅れて顔を出す。

「え?なに、もう授業始まってた?」


「カナタ。事務室に来てくれ」



事務室。カナタは椅子に座らされ、スーツ姿の男と向き合っていた。

「悪いな、カナタ。……これは“上の上”からの通達だ」


「上の、上?」


「君には、ここを辞めて転入してもらう」

端末が差し出される。地図。王都。


「――え?」


「王直属の身辺……まあ、言ってみれば“お側付き”だ」

プラス先生の声が遠ざかる。


エルナスの心意気なのだろうか――


そう思った瞬間、胸の奥に“あの時”の記憶が浮かぶ。

川原。

まだ夜の冷たさを残した、早朝の空気。

レベルが無いまま進級した私を、誰よりも真剣に心配してくれた人。

母とぶつかって、どうしようもなくて、逃げるように来たあの場所で――

エルナスは最後まで、黙って話を聞いてくれた。


*まだ私を、気にかけてくれている?

それとも、ただ“王”として必要と判断しただけ?*


きっと、私がまだ特殊部隊で訓練を続けていたことにも驚いたのだろう。

――そう思おうとした。


「どうする? カナタ。……と言っても、ほぼ“勅令”みたいなものだが」


プラス先生の声が、少しだけ優しく落ちる。


「ま、待ってください。それは――」


言い終える前だった。


「駄目だ」


ドアが開き、低い声が、部屋の温度を一段下げる。

タシトが立っていた。


次の瞬間。

彼は迷いもなく手を伸ばし、端末を掴むと、無造作にそれを折り砕いた。


乾いた音が、事務室に落ちる。


「タ、タシト隊長!?」


プラス先生が呆然と声を漏らす。

割れた板から視線が離せないまま、顔色が青くなっていく。


通達を持ってきたスーツの男は、完全に言葉を失っていた。


「な、何てことを……あなたは、一体……!」


タシトは一歩、前に出た。

その声は、ただ静かに、しかし絶対だった。


「彼女は、私の婚約者だ」


――空気が止まった。


音も、呼吸も、時間も。

事務室の全てが凍りつく。


そして。


カナタが、一番、言葉を失っていた。




下校の途中。

まだ昼前だというのに、空気はどこか緩く、三人は肩の力を抜きながら歩いていた。


「なあ、飯でも食いに行かない?」

バーチが伸びをしながら言う。


「なんもしてないのに体力削られるって、どんな学校だよ……」

ソードはぼやくように言った。


「突然の休みって最高!」

ミルルは笑顔で言ったが、すぐに気持ちを切り替えたように手を振る。

「でも私、ちょっとショップ寄る!ここで抜けるね!」


その瞬間――


通信が鳴った。


三人の足が、同時に止まる。


「……もしもし?」ミルルが出る。


『プラス先生だ。授業を再開する。タシト隊長もお戻りだ』


「「はぁ!?」」

バーチとソードの声が綺麗に揃った。


「嘘でしょ……」

バーチが頭を抱え、


「マジかよ……」

ソードは心底嫌そうに顔をしかめる。


そして。


「よっしゃあ!!」

ミルルだけが両拳を握ってガッツポーズをしていた。


「なんでお前だけテンション上がんだよ!!」


そんな軽口を叩きながら戻った教室――


空気は、さっきまでとは違っていた。


重い。

静かすぎる。

誰も冗談を言わない。


そして、その中心に。


タシト隊長が立っていた。


ただそこにいるだけで、空気が締め上げられる。


授業再開のベルが鳴る。


カナタは、タシトを見た。

心が、追いつかない。


その“事実”を知っているのは、

いま、この場で――カナタと、プラス先生だけ。


他の誰も、まだ知らない。




(第二十八章・了)


軽い足取りで戻ったはずの教室は、

もう“いつもの場所”ではなかった。


静寂の中心に立つタシト。

ただ、それだけで世界は変わる。


まだ知られていない事実。

カナタの胸だけが、その重さを知っている。


次に動くのは――彼か。

それとも、運命か。

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