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帰れない場所

夜。


ルイゼンは、洗面台へ片手をついていた。


「……っ」


指先が、震える。


視界が揺れる。


両腕のリングは、 今も完全に光を失っていた。


全解除以降。


神経過敏症状が止まらない。


聴覚。視覚。触覚。


全てが、過剰だった。


遠くの機械音すら、 脳へ直接突き刺さってくる。


「……タシトは、これ以上の高能力者なのか」


低く漏れた声。


次の瞬間。


洗面台へ、赤い血が落ちた。


《ルイゼン様。エルナス王が――》


一番外側のIDリングへ、通信が入る。



ルイゼンが部屋へ戻る。


男が倒れていた。


近くでは、武装警備員が立ち尽くしている。


そして。


服の乱れた王が、口元へ血を滲ませたまま座り込んでいた。


「……この者は?」


ルイゼンの声が、わずかに震える。


「オルデンコア重鎮、第七席――ギドリア様です」


若い監視員が、息を呑みながら答えた。


ルイゼンは、倒れた男を足先で仰向けにする。


「死んでいるのか?」


「……急所を狙った。正当防衛だ」


エルナスが、低く言った。


特殊能力を持たない王だったが、武術だけは群を抜いていた。


後ろ手を拘束されたまま。


何が起きたのかは、十分すぎるほど伝わる。


(……なぜだ)


ルイゼンの視線が、わずかに揺れる。


(なぜ、侵入を許した)


本来なら。


オルデンコア上層部の接近を、フィールドが見逃すはずがない。


(……感覚異常か)


全解除以降。


神経過敏による乱れが、警戒網へ影響していた。


「この部屋に、誰も通すな!」


ルイゼンが、監視員へ怒鳴る。


「どんな身分の者でもだ!」


荒くなる呼吸。


我に返ったルイゼンは、 壁へ手をついた。


「……もう、我慢するな」


エルナスが、倒れた椅子を避け近くのベッドへ腰を下ろす。


「全解除して一週間だ。 違うか?」


「……」


「取引をしよう」


後ろ手に拘束されたエルナスは、乱れた襟元へ口元を押し当て、血を拭った。


「私は、ルイゼンのリングを通常制御へ戻す」


ルイゼンの呼吸が、わずかに止まる。


「お前が望む通り――」


短い沈黙。


「タシト少佐のリングは、全制御のままにする」


低い声。


「それでいいだろう?」


わずかな沈黙。


「だから――私を解放してくれ」


そして、エルナスは真っ直ぐルイゼンを見た。


「約束する。

――私は、タシト少佐に執着していない」


「……」


ルイゼンが、乾いた笑みを漏らす。


「……策士だ。あなたは昔から」


短い沈黙。


エルナスが、目を伏せる。


「本当に、そう思うのか?」


エルナスが低く返す。


ルイゼンが、初めて動揺する。


「……」


「……お前を失いたくない」



夜風が、王宮の庭を抜ける。


拘束具の外れる音が、小さく響いた。


「……これで、取引成立ですね」


ルイゼンが、低く言う。


エルナスは、自由になった手首へ静かに触れた。


「私は、セリュー殿へ牙を向けた。もう王宮には戻れないでしょう」


短い沈黙。


「次に会う時、それでも、まだ話ができる関係であれば良いのですが」


ルイゼンの視線が、わずかに揺れる。


「……レベルを戻してください」


「わかった」


リングへ、淡い光が戻る。


ルイゼンが、小さく息を吐いた。


「……私も、甘くなったのでしょうか」


自嘲気味の笑み。


「主人に、似たのかもしれません」


庭の蝶が、夜風へ舞い上がる。


ルイゼンは、わずかに目を細めた。


そして、振り返ることなく王宮の庭を後にする。



(第百二十一章・了)


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