帰れない場所
夜。
ルイゼンは、洗面台へ片手をついていた。
「……っ」
指先が、震える。
視界が揺れる。
両腕のリングは、 今も完全に光を失っていた。
全解除以降。
神経過敏症状が止まらない。
聴覚。視覚。触覚。
全てが、過剰だった。
遠くの機械音すら、 脳へ直接突き刺さってくる。
「……タシトは、これ以上の高能力者なのか」
低く漏れた声。
次の瞬間。
洗面台へ、赤い血が落ちた。
《ルイゼン様。エルナス王が――》
一番外側のIDリングへ、通信が入る。
◇
ルイゼンが部屋へ戻る。
男が倒れていた。
近くでは、武装警備員が立ち尽くしている。
そして。
服の乱れた王が、口元へ血を滲ませたまま座り込んでいた。
「……この者は?」
ルイゼンの声が、わずかに震える。
「オルデンコア重鎮、第七席――ギドリア様です」
若い監視員が、息を呑みながら答えた。
ルイゼンは、倒れた男を足先で仰向けにする。
「死んでいるのか?」
「……急所を狙った。正当防衛だ」
エルナスが、低く言った。
特殊能力を持たない王だったが、武術だけは群を抜いていた。
後ろ手を拘束されたまま。
何が起きたのかは、十分すぎるほど伝わる。
(……なぜだ)
ルイゼンの視線が、わずかに揺れる。
(なぜ、侵入を許した)
本来なら。
オルデンコア上層部の接近を、フィールドが見逃すはずがない。
(……感覚異常か)
全解除以降。
神経過敏による乱れが、警戒網へ影響していた。
「この部屋に、誰も通すな!」
ルイゼンが、監視員へ怒鳴る。
「どんな身分の者でもだ!」
荒くなる呼吸。
我に返ったルイゼンは、 壁へ手をついた。
「……もう、我慢するな」
エルナスが、倒れた椅子を避け近くのベッドへ腰を下ろす。
「全解除して一週間だ。 違うか?」
「……」
「取引をしよう」
後ろ手に拘束されたエルナスは、乱れた襟元へ口元を押し当て、血を拭った。
「私は、ルイゼンのリングを通常制御へ戻す」
ルイゼンの呼吸が、わずかに止まる。
「お前が望む通り――」
短い沈黙。
「タシト少佐のリングは、全制御のままにする」
低い声。
「それでいいだろう?」
わずかな沈黙。
「だから――私を解放してくれ」
そして、エルナスは真っ直ぐルイゼンを見た。
「約束する。
――私は、タシト少佐に執着していない」
「……」
ルイゼンが、乾いた笑みを漏らす。
「……策士だ。あなたは昔から」
短い沈黙。
エルナスが、目を伏せる。
「本当に、そう思うのか?」
エルナスが低く返す。
ルイゼンが、初めて動揺する。
「……」
「……お前を失いたくない」
◇
夜風が、王宮の庭を抜ける。
拘束具の外れる音が、小さく響いた。
「……これで、取引成立ですね」
ルイゼンが、低く言う。
エルナスは、自由になった手首へ静かに触れた。
「私は、セリュー殿へ牙を向けた。もう王宮には戻れないでしょう」
短い沈黙。
「次に会う時、それでも、まだ話ができる関係であれば良いのですが」
ルイゼンの視線が、わずかに揺れる。
「……レベルを戻してください」
「わかった」
リングへ、淡い光が戻る。
ルイゼンが、小さく息を吐いた。
「……私も、甘くなったのでしょうか」
自嘲気味の笑み。
「主人に、似たのかもしれません」
庭の蝶が、夜風へ舞い上がる。
ルイゼンは、わずかに目を細めた。
そして、振り返ることなく王宮の庭を後にする。
(第百二十一章・了)




