連動作戦
1939年9月23日。大日本帝国海軍連合艦隊による第二次ミッドウェー海戦大勝利を受けて、ロシア戦線とオスマン戦線は大日本帝国陸軍の派遣軍を主力とした大規模な攻勢作戦が開始されていた。それは第二次ミッドウェー海戦大勝利による連動作戦であり、敵に隙を与えない為に間髪入れないものとなっていた。
ロシア派遣軍司令官山下奉文大将とオスマン派遣軍司令官本間雅晴大将がその連動作戦の立案を行った。そしてその連動作戦は皇軍統合作戦司令本部の許可も下り、それぞれの国のロシア帝国軍総司令部とオスマン帝国軍最高戦争指導会議も協力を表明し、連動作戦は実行される事になった。連動作戦は2つの意味があった。
まずは大日本帝国海軍連合艦隊の第二次ミッドウェー海戦での大勝利による世界への影響を考慮して、ある種の継続性を持たせるという意味での連動作戦だった。
そして2つ目はロシア戦線とオスマン戦線での同時攻勢という意味での連動作戦だった。それぞれの戦線で『スモレンスク攻防戦』と『ババエスキ攻防戦』で、第二神聖ローマ帝国陸軍の侵攻を阻止してからはロシア帝国とオスマン帝国は部隊再編を行っていた。
まさに大日本帝国陸軍のロシア派遣軍とオスマン派遣軍による安定の賜物であり、ロシア帝国とオスマン帝国には貴重な時間を稼ぐ事に成功したのである。しかもそれに加えて大日本帝国からの大規模軍事援助は、増加すれども少なくなる事は無かった。
この大規模軍事援助がロシア帝国とオスマン帝国にとっては、まさに国家存亡の生命線であった。大規模軍事援助には武器・弾薬のみならず、食料や衣料品等の民生品も含まれていたのだ。ロシア帝国とオスマン帝国は国内企業は全てが軍需生産に特化しており、民需工場は全て軍需工場に転換していた。
大日本帝国も軍需工場に転換して軍需品生産に特化していたが、そもそもの工場数が世界最大であり民需工場は少ないながらも民生品を生産していた。それがロシア帝国とオスマン帝国には救いであったのだ。
そんな中での連動作戦は、第二神聖ローマ帝国陸軍の虚を突く事になり、大日本帝国陸軍派遣軍を主力として大規模攻勢を行う事になった。




