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想いはいつまで憶えられているのだろう?  作者: 並矢美樹
パンドラの箱の底には
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逃避

 2歳違いの妹が保育園に行き、小学生になる頃に、家族関係も難しくなってきていた。


 まず妹が保育園の時にはまだまだだったけど、小学校に入る頃にはもう、家にほとんど居なくなっていた。

 家が近い同学年の子がいたのだが、気がつけばその子の家に遊びに行ってしまい、家にいることがほとんどないような状態になっていたのだ。

 妹も、その頃になれば物事が見えてきて、自分という存在が家族間の中でほとんど関心を呼ぶことがないのが分かっていた。 そして自分が関心を持たれるのは、何かしらの兄の世話を言い付けられる時だけなのだと。

 家にいれば、ほぼ放置状態にされるか、さもなければ兄の世話をさせられる。

 それならば、家を抜け出してしまう方が良いという判断なのだろう。 幼い身でそこまで具体的に考えてしていた行動ではないのだろうが、事実としてはそんなところだ。


 私と違うところは、妹は私というワンクッションがあったので、兄の世話べったりにそれまでならなかったし、頼られることも少なかった。 それだからか私と比べればまだ精神的にというか知識的にというか、同い年くらいの子との差が大きく生じてなくて、保育園に行くと私とは違って、普通に周りの子たちと同じことが出来たのだ。

 それが近くの友達の家に入り浸ることが出来るという下地になった。

 私では近くの同い年の子の家に遊びに行くことは出来ない。 簡単な理由だ。 一緒に何かして遊ぶことが出来ないからだ。 私には同い年くらいの子供と遊ぶことは我慢でしかなかった。


 もう一つ私には問題があった。 祖母である"あい"の目を掻い潜って、抜け出すことが妹とは違って難しかったのだ。

 祖母の"あい"は、長男である兄には障害児だからという根本的なところか、自分が関わって何かあっては困るという気持ちが勝るのか、ほとんど関心を寄せなかったし、極力タッチしないようにしていた。 その反動で、次男の私に対しては過剰な溺愛状態だった。

 長男に障害があるのに、次男にも何かあってはならないという、心配ももちろんあったのだろう。 でも、妹まではその溺愛や心配は及ばなかった。

 一つの理由としては、私は虚弱な体質だったが、妹は普通に健康な子供だったからかも知れない。 男女の差だけが理由ではないと思いたいところだ。

 ま、現実としては、兄の世話のために家の外に出ることがほとんどなく、動き回ることも出来ず、その上怪我をさせてはいけないと過保護に見張る祖母がいるのだ。 私が虚弱児一直線は仕方のないことだろう。


 そんな訳で、私は家の外に逃げることは出来なかったが、それが出来る妹が羨ましかった。 妹にしてみれば、まだ関心を持たれているだけ私の方がマシに思えていたのだろうけど。


 そんな私の逃避は、本を読むことだった。


 家には教師だった親の集めた児童向けの本がたくさんあった。

 当時はまだ学校に図書館が整備され始めた時代で、その前の時代に教師をしていた両親は、その前の形態である学級文庫という形で、私費で自分の受け持ちの学級に本を置いて、子供に貸したりしていたのだ。 その残滓が家には大量に残っていたのだ。

 家を建てた時にはまだ父親は教師だったので、その時の必要から応接間と父の書斎を兼ねたような部屋があり、そこは児童向けのちょっとした図書館といえるような量の本があった。 私はその部屋の片隅に隠れて、片っ端からその本を読んだ。

 教師時代、母親は主に低学年、父親は高学年を担任することが多かったらしいが、その影響か、集められた本は低学年向けから高学年向けの物まで網羅されていた。 私はもう片っ端から読んでいき、年齢は低学年でも関係なく、高学年向けどころか、違う棚の両親の本、教師に向けた本まで何でも読んだ。

 体は周りの子よりも小さいけど、精神年齢だけは上になってしまっていた私には、そんな大人向けとか、指導者向けの本でも、まあ読めてしまったのだ。


 本を読んでいて、それに集中すれば、他のことを考えなくて良い。 そんな気持ちがあったからだろうか、私は本を読むことに集中してしまうと、呼ばれてもその声には気づかず、肩を揺り動かさられなければ、周りの一切が意識外になっていて気が付かないほどだった。

 兄の世話をさせようと呼んでも、なかなか返事がなく、使うには呼びに行って揺り動かし、状況説明をしてやって命令しないとならない。 それだけの手間をかけるなら、自分で対処してしまう方が楽だとなり、私は本に集中することで、かなりの逃避が出来たのだ。

 もちろん、時々は盛大に怒られることにはなるのだが。



 この時期に起こった一番大きな変化は、祖母"あい"との同居が解消となったことだろう。

 祖母"あい"は転んで、大腿骨を折るという怪我を負ってしまったのだ。

 しばらくは身動きが出来ず、布団の上で過ごすことしか出来ないという、介護が必要な身体となってしまったのだ。


 これはもう、完全に無理でやっていけない状況だ。

 何しろ、全面的に介助が必要な者が2人。介護出来る大人は2人。商売をしているからそちらは優先。 他はまだ小学校低学年と保育園児。

 生活が回る訳がない。


 その上、介護も母の時はやはり兄優先で、祖母のことは常に後回しだった。

 普段ならば仕方がないと思うのだろうけど、自分も痛かったり、身動きが取れずにイラついていたり、精神的にもキツかったのだろう。 つい口にしていなかったことが、出てしまった。


 「お前は、上の子のことばかりで、他のことは何もしない。 何も考えようとしない。

  嫁として母として、お三度さえ、私に全てやらせて自分ではしない。 だから私が動けなくなると、こんな食事しか用意することも出来ない。

  障害を持った子だからといって、何も我慢することもない生活をさせていれば良いとだけ思っているのか。 自分とその子のことしか、お前は何も頭にない」


 日頃姑として、諸々鬱憤も溜まっていたのだろう。 それでも今の私が考えるに、祖母の言うことはとても真っ当な言葉だ。

 真っ当で正論だからこそ、余計に祖母と母の間は険悪化した。 それもあって、祖母は急遽伯母、つまり父の姉の家に移ることになった。


 これは蛇足だが、今となって考えると、兄のことがあるから仕方ないと納得するしかなかった訳だけど、急に全面的に介助が必要な状況の老母を引き取らねばならなくなったら、伯母の家も大変だっただろうと思う。

 そもそもにおいて、伯母と祖母は、過去のことがあるので、仲良く一緒には暮らせないので、我が家の方に来ていたのだから。




 祖母が家にいなくなると、大人1人分の労力が消える訳で、その皺寄せが私と妹にかかってくる。 母が兄につききりになれないので、兄の世話が今まで以上に私と妹に要求されることとなったのだ。


 妹も小学校に上がると、今まで以上にすぐに家から出て行く。 私も小学校中学年ともなると、さすがに友達と遊ぶようにもなる。

 それに加えて、この頃近くに出来たデパートの本屋に立ち読みに行くという技を覚えた。 私は学校から帰ると、なるべく何かを言われる前に家から抜け出して、その本屋に行くことにしていた。 そして夕方遅くまで、本屋で過ごすのだ。

 毎日のこととなると、学校から戻るのをしっかりと見張られていて、抜け出せなくなったりもした。 その時は仕方ないので、学校から児童館に直行して、そこの本を読み耽った。 とにかく、なるべく家に居る時間を私も妹も減らしたかったのだ。

 物心ついてくれば、自分の置かれた状況が普通ではないことは理解出来るようになる。 そうすれば、逃げたくなるのが当然の状況だったのだ。


 私は小学生の時に、もう腕時計を持っていた。 というよりも父に腕時計を付けられた。 重くてガチっとしたその腕時計は、周りの子たちには羨ましがられたが、私は嫌で嫌でしょうがなかった。

 何故なら、その腕時計はとても当時としては珍しいのだけど、腕時計なのに目覚まし時計のように指定の時間にベルがなったのだ。

 つまり父は、「ベルが鳴ったら、家に戻れ」と、言葉の通り私に枷を付けたのだ。

 夕刻になれば、何もしなくても家に戻るのに、そこまでして私を家で兄の世話をさせるために戻したかったのだ。

 今の私には、どう考えても異常な行動のように思えるのだけど、当時の父や母にとっては、必要な時に戻って来ないから、戻る時間が分かるように、というだけの意識だったのだろう。


 ちなみに、僕の本屋通いは、高校に入るまで続く。 高校に入ってからは、通学の帰宅時に本屋に寄り、学校が早めに終わっても、常に帰宅時間は常に一定だった。 ま、その頃にはもう理由は別になっていたのだが。



 これはもう本筋から外れてしまうのかも知れないが、母は料理が下手だった。

 兄の世話や、商売があまり軌道に乗っていない時は内職に忙しかったこともあるのだろうが、料理にまず手間を掛けなかった。

 祖母は料理に手間をきちんとかける人だった。 そこに味に差が出るのは必然だったのだが、それだけでなく手先は器用なのに、料理となるとダメだった。

 自分でも自覚があるのだろう、新聞や雑誌に載った料理レシピは丁寧にノートに貼って集めたりしていたし、料理のレシピ本なんかもよく買っていた。

 その中で気になった料理をその通りに作ったりはして、その時には家族に褒められる。 でもほぼ2度と作ることはない。

 料理のレシピ本というのは、当然だけど万人向けで、それぞれの好みや、その日の体調、気候なんかは考慮される訳ではない。 それだからこそ、最後のところの塩少々だとか量がきちんと指定されていない部分もあって、味見が必要なのだと私は思うのだが、母は「少々ってどのくらいの量よ?」と思ってしまう質の人だったのだ。

 だからきっと2度は作らなかったのだろう。 2度目は1度目に手を加えねばならないから。

 そして母は、魚を食べない人だった。 そして父は田舎の出なのに、基本野菜を食べない人だった。

 結局父は若くして癌で死ぬことになるが、ヘビースモーカーだったことだけでなく、母との食生活も影響していたのではないかと今になって思う。 私や妹の体格の悪さも遺伝だけではないかもと、大人になってから思ったりした。

 ま、母が料理が下手だったこともあって、僕は子供の頃からよく自分で料理はした。 祖母が僕を可愛がる一端として、料理の手伝いをさせた影響もあって、これだけは祖母に感謝する部分だ。



 本筋に戻るが、この当時もう一つ生活を圧迫している事があった。

 親が新興宗教にハマっていたのだ。


 宗教に救いを求める気持ちが理解出来ない訳でもないけど、幼い子どもにまで介護を手伝わせないとならない状況で、余計な時間を最低朝晩かなりの時間を取られることに問題は感じなかったのだろうか、と今の僕は思ってしまう。


 私は色々な宗教の教義なんてことには、とても興味を惹かれるが、教団活動だとかの宗教団体は毛嫌いしている。

 それはきっとこの時期の経験から来ているのだろう。


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