本当のことは報道されない
私が小学生の低学年から中学年にかけて、私の周りの環境というか雰囲気はもの凄く急激に変化した。
私の住んでいる地域を、70年安保闘争という嵐が襲ったのだ。
私の生涯初の友人が、金髪碧眼の男の子だったことでも分かるように、私が住んでいる土地では、少なくとも一般人レベルでは、米軍基地関係者との間は友好的だった。
私たち幼い者は、髪の色、目の色を気にせず、言葉も互いにちゃんぽんで、それなりに不自由しないで一緒に遊んでいた。
ただ、当時はまだ米軍関係者では、白人と黒人との間には明確な線が引かれていて、私たちが基本的に遊ぶのは、基地外に家を持てる将校扱いの人の子供だから、ほとんどが白人で、黒人の子と遊ぶことはほとんどなかった。 そもそも一緒になる機会がなかった。
ごく少数の黒人も、基地の外に住居を持てたようだけど、日本人で黒人の人に住宅を貸す人はいなかった。 理由があった。 黒人の人に貸すと、その体臭が染み付いてしまい、次に他には貸せなくなり、採算が取れなくなるとのことだった。
ま、これは私は子供心に、それは仕方ないかも知れないな、なんて思っていたことを覚えている。 子供ではそんなに感じないけど、大人となると日本人と比べると、当時は生活習慣の違いからか、食生活の違いからか、外人さんは白人であっても臭かった。 黒人の人は人種的なことか、まだ当時は肉体労働的なことを役割とすることが多かったからだろうか、明確により日本人からすると臭かったのだ。
ま、大人の間では、まだ1960年代は明確な人種差別もあったりして、色々と難しいこともあったのだろうけど、子供の私らにはそんなことは分からない。
私たちと一緒に遊ぶ外人の子が、ほぼ白人の子に限られていたのは、単純に知り合う機会が、白人の子と、白人と日本人のハーフの子ばかりだったからに過ぎない。 私はそうだったけど、少し場所が違えば、その状況は違っていただろう。
少し話がズレたが、庶民レベルでは米軍基地の人たちとは友好的な付き合いがされていたのだ。
夏になれば、基地内の広場で花火大会が催されたりした。 子供の私は、その時に買えるコーラの缶が、250mlではなくて、少し太い350mlであることに興奮したりした。
その広場も、ベトナム戦争が泥沼化して、70年安保が問題になる頃には、修理する戦車や装甲車の野積場と化していたのだが。
私の住んでいた場所近くの米軍基地は、米軍の戦車や装甲車の修理や整備をする基地だった。 元々、日本の軍が基地として作った時から、そういうことを意識して作ったらしいので、きっと本来的な使い方だったのだろう。
それが理由で、70年安保闘争を象徴するような場所の一つとなってしまったのだ。
米軍の基地に反対する人や、基地に持ち込まれたり、修理されて送り出される戦車の移動を阻もうとする人たちが、連日のようにデモをしたり、座り込みをしたりする騒ぎとなってしまったのだ。
当然だけど、基地の外に暮らす人はいなくなり、基地の側に暮らす私たちとの関係は、急激に何も無くなってしまった。
それだけではない、私たちが遊ぶ場所にしていた公園は、デモ隊の集結場所となり、小学校に作られた小山の滑り台は、基地内を映す絶好のポイントとなり、休日にはテレビカメラと望遠レンズをつけたカメラが並ぶことになった。
基地のメインゲートに向かう道は、元々商店街となっていたのだが、そこには座り込みを行う人が屯していて、その人たちに周りの商店が援助の物資を贈る。
今現在の私には理解できないのだけど、当時はそのデモをしたり、座り込みをする人たちが、どういう訳か絶対的に正義という雰囲気だったのだ。
そんな中を、戦車を積んだトレーラーが、基地を出たり入ったりしていて、その度に騒ぎとなるのだ。
デモはすぐに大掛かりなモノに変化していった。 もちろん人数が膨れ上がったことが一番なのだけど、私にとってはそれ以上にデモの雰囲気さえ大きく変化していくのが、不思議を通り越して、恐ろしい気持ちがした。
小学校でも、繰り返しデモに近づかないように、座り込みに近づかないようにと注意を受けるような日々になってしまったのだ。
デモも最初は、ただ単に集まった人がプラカードを掲げて、静かに歩くだけだった。
それが自分たちの主張をシュプレヒコールするようになると、それを目に見える形で制服の警官がデモ隊の周りに配置されるようになった。
人が増え、その統制を執るためにスピーカーまで使われるようになると、転倒する者が出て、それを防ぐためにデモ隊は腕が組まれるようになった。 警察は単純な制服警官だけでは人数も足りなくなったのか、長めの警棒を持つ機動隊までがデモ隊を囲む。
すると、それに刺激されたからだろうか、デモ隊はその動きが単なる行進ではなく、人数が増えての混乱もあるのだろうけど、蛇行が加わった。
そうすると、囲んでいる警官や機動隊員に打つかったりも出てきた。 でもまだ双方抑制的で、打つかったデモ隊の人も謝ったりしていたし、警官や機動隊員も転んでしまったデモ隊の人を助けたりもしていた。
そして、腕を組んでいるだけでは、それは簡単に外れてしまい、転倒を防げないと、プラカードや旗を挙げるのに使っていた竹竿を横にして掴まって、横列を維持する方法が取られるようになった。 最初はあくまで、転ばないため、安全の為だった。
しかし、転ばないため、安全の為の竹竿は、デモ行進の蛇行の圧力を高めることになった。
集団心理もあるのだろう。 基地のゲート付近では、戦車の出入りを頂点にどんどん熱も上がって行く。
警察側もデモ隊の蛇行の圧力に、生身と警棒だけでは耐えられなくなり、人員が増えるだけではなくて、盾が装備されてデモ隊をびっしりと囲むようになる。
こうなるともう止まらない。
最初は囲む盾に軽く接触する程度が、押し返されたの、突き飛ばされたのと、どんどんエスカレートして行く。
双方のスピーカーからも、最初は止めようとすることばだったのが、罵り合いに近い内容に変わっていく。
竹竿の使用方法、持ち方も変化して、横列を綺麗に保つための物から、槍もどきの武器に変わって、盾を突く道具になる。
こうなると機動隊側も鎮圧のために応戦することになり、放水されたりする。
その水に冷やす効果は無くて、逆に余計に暴力的な行動を促す結果となった。
これらの帰結として、催涙ガスの使用となった。
デモ隊と警官・機動隊との攻防を、周りの一般人はプロレスの興行でも見るかのように眺めていた。
「危険ですから下がって近づかないでください」
などと双方のスピーカーから促されるが、私のような小学校中学年の子供でさえ見ている場所で、衝突が起きていたのだ。
今、思い出してみると、ひどく異様な光景だ。 基本的には正義だと周りが考えていた人々が、暴力に訴えて、それを警察という国家の機構が押さえつけようとしていて、形としては一般人をその暴力から守る形になっている。 なんだかややこしい。
その一般人は、その暴力的な衝突にあまり危機感を持っていなくて、逃げることもなくすぐ近くで見物しているのだ。
それにしても催涙ガスの効果は絶大だった。 最初使われた時は、即座にデモ隊側は鎮圧されることになった。
一般の見物人も、催涙ガスが使われると、即座に逃げた。 離れていても風が吹いたりしていると風下側では被害が出たからだ。
だけど当然、すぐに対策は色々とされることになる。
デモ隊側では、ヘルメット、ゴーグルなどのメガネ、顔を覆うタオルは必需品となったし、催涙ガスを発射する銃を持った機動隊員を見つけると、その近くからは一斉に逃げたりした。 ま、これはデモ隊に限らない、周りの見物している者も、催涙ガス銃を持っている機動隊員を見ると、即座にその場から距離を取った。
その機動隊員から距離を取ったのは、催涙ガスの二次被害に遭いたくないからだけじゃない。 デモ隊側だって、黙ってはいない。
催涙ガス銃を持った機動隊員には、投石などの攻撃が襲いかかったのだ。 つまり今までは自分たちは安全だと思っていた見物人も、とばっちりで怪我する可能性がとても高くなったからだ。
こういった経過はテレビのニュースなどで報道されていて、大きな話題になっていたが、私たち近くに住む者にとっては、これが日常の一風景になってしまっていた。
催涙ガスに石礫まで飛び交って、かなり暴力的で殺伐としていたのだけど、それでも何というか抑制は効いていて、どちら側もそこまで酷いことはしないという暗黙の了解がある感じだった。
催涙ガスも、本当に抑制のためという感じで発射されていたし、石礫も本当に怪我を負わせるというような攻撃ではなく、逃げる時間を作るための牽制のような感じだったのだ。
テレビや新聞などの報道も、政府側の立場に立つ報道だけでなく、デモ隊側に立つかのような報道も結構あったような気がする。
だけどやはり事態は、急激に悪化する。
催涙ガスは、隠れるように現場に来た隊員が逃げられる前に発射するようになり、それを阻止するための石礫は牽制ではなくなり攻撃的になる。
そんな中、身の危険を感じたからだろうか、催涙ガスの水平撃ちが見られるようになった。 そして事故が起こった。
この事は、子供であった私にも、本当にショックな出来事だった。
事故に遭われた方には申し訳ないのだけど、私がショックを受けたのは事故自体ではない。 この事故に関しての報道にショックを受けたのだ。
政府の、絶対に水平撃ちを認めない姿勢にも驚いだのだけど、何よりも驚いたのが、確実な証拠となる水平撃ちの映像が一つもテレビに出てこないことだった。 私は水平撃ちをしている機動隊員を、テレビ局のカメラが写していたのを実際に見ているのだ。 それだけじゃない、明確な攻撃の意図を持って石を投げている者についてもカメラは捉えていたはずなのに、その映像も出てこない。
テレビだけじゃない、新聞その他の報道記者も現場にはたくさん来ていて、それらを見ていたはずなのに、そのことに関する明確な言葉が出て来ない。
私は子供だったけど、理解してしまった。 これが報道管制なんだと。 「戦時中じゃあるまいし、こんなことあるの?」というのが、その時の私が子供心に思ったことだ。
それから私は子供ながら考えた。 テレビだとか、新聞だとかという報道は、戦争中という明確な理由がなくても、正直な報道というのはされないことがあるのだ、と。
この時の私は、まだ子供心に政府に対する不信感を持っただけだったのだけど、報道というモノに対しての疑問を常に考えるきっかけになった。
後から、政府の意向だけでなく、報道には色々な制限や、意図が隠されていることが多いと考えるようになったけど、その一番最初の強烈な出来事が、これだった。




