ヴァルシュタット男爵家(書斎)
ルトギエルは、書斎で卓上の書類に目を通していた。文字だけの資料に混じって、小型の航空機とおぼしき平面図も見受けられる。
コンコンコンとノックの音がすると、ルトギエルは大きな引き出しを開き、書類を放り込んで閉じた。
「どうぞ。開いている」
カチャリと静かにノブが回ると、音もなく部屋に若い〈狩人〉が滑り込んで来た。まるで風のようだな、とルトギエルは思う。
「キミか。アウィス君」
ルトギエルの一言だけで、しばらくの間ふたりの視線が交わされたが、ようやくアウィスが言葉を絞り出した。
「『あのとき光を失ったことで、逆に見えるようになったことも多い』」
「……」
「いつも、閣下のことを『見護っております』と……我が主、セレスティーナ・シルワウィリデから、ルトギエル・ヴァルシュタット閣下への個人的な伝言です。それだけお伝えに参りました」
「セレスティーナ姫から?」
アウィスは言うことだけ言ってしまうと、すっと消えるように部屋を後にしてしまった。
あの婚礼の夜、毒を盛られたセレスティーナは、生死を彷徨った後、奇跡的な回復を見せた。
しかし、あの黒瑪瑙の如くと言われた漆黒の瞳に、二度と光が宿ることはなかった。セレスティーナは今も闇の中にいる。
ルトギエルは、セレスティーナの意識が戻らなかったときも、意識が戻ってからも、伴侶として迎えるという姿勢は崩さなかった。
盲目の妻をヴァルシュタットの家に迎え入れるに何の躊躇いもなかったし、そのための準備もしていた。
しかし、自らのセレスティーナへの気持ちを疑わなかったルトギエルになされた、あるひとりの〈狩人〉からの問いかけに、彼は苦渋の選択を迫られることとなった。
すなわち、「セレスティーナを護ることがあなたにできるのか?」と。
婚礼の日、姫の杯の一服に気付くことがことができなかったあなたに……。
結局のところ、彼女を護るために婚姻はなかったこととされ、セレスティーナは〈狩人〉らに護られ〈杜〉に帰った。
政治屋や自称識者は「当たり前の選択」と言い、街の人々は「見損なった」「お姫さまがかわいそう」などと勝手なことを口々に言ってルトギエルを非難したが、ルトギエルがそのことについて口を開くことはなかった。
ヴァルシュタット家の先代も、生前、献身と貢献の大きさに比してあまりにもお粗末な〈杜の民〉の待遇……その改善のために心を砕いていた。
その一助として、今回の王国と〈杜〉の関係強化のための婚姻は、王室の意も受けてのことだった。
だが、この国に巣くう、権力の妖魔がそれを良しとしなかった。
〈杜〉の者がこれ以上、王国への影響力を増すのも許しがたいし、新参者のヴァルシュタット家も目障りだったということだ。
既得権益者にとっては、悪くなることも良くなることですらも、変わることはすべてが阻止すべき事案なのだ。
「セレスが……そんなことを……」
ひとり部屋に残されたルトギエルは、虚空を睨みながら、彼にしか聞こえない呟きを漏らし、暫時、滲む居室の壁を呆然と見つめていた。




