第9話 梅田に、自分の店を開いた
封筒を受け取った。
手の中で。
妙に重く感じた。
ただの紙なのに。
十二年間。
俺が避け続けてきた場所から届いた。
それだけで。
胸の奥がざわついた。
「開けないの?」
エレーヌが聞いた。
「……今はええ」
「いいの?」
「うん」
俺は封筒をテーブルに置いた。
見ない。
今は見ない。
そう決めた。
「何が書いてあるか、怖い?」
エレーヌの言葉に。
俺は苦笑した。
「……せやな」
「あなたが話したくないなら、聞かない」
「ありがとう」
エレーヌはそれ以上、何も言わなかった。
その夜。
俺は眠れなかった。
ベッドの横に置いた封筒。
何度も目がいく。
結局。
午前二時。
俺は起き上がった。
封筒を手に取る。
そして。
ゆっくり開いた。
中には。
一枚の便箋が入っていた。
『しげるへ』
そこから始まっていた。
差出人は。
父さんだった。
『久しぶりだな』
たったそれだけの文章なのに。
胸が苦しくなった。
続きには。
母さんのこと。
家のこと。
近所のこと。
そして。
最後に。
一文だけ。
『一度、帰ってきてくれないか』
俺は便箋を置いた。
帰ってきてくれないか。
その言葉が。
何度も頭の中を回った。
俺は帰らない。
そう決めていた。
十八歳のとき。
船に乗ったあの日から。
ずっと。
でも。
なぜ今になって。
父さんは俺を呼ぶのか。
翌朝。
エレーヌに話した。
「帰ってきてくれって」
「佐渡に?」
「うん」
「行きたい?」
「……分からん」
エレーヌはしばらく黙った。
「しげる」
「ん?」
「あなたは、ずっと佐渡を避けてきたよね」
「そうや」
「でも、嫌いだから避けているだけじゃないと思う」
俺は何も言えなかった。
「本当は、怖いんじゃない?」
「……」
「昔の自分に会うのが」
その言葉に。
胸を突かれた。
俺は。
佐渡そのものが嫌いだったわけじゃないのかもしれない。
あの場所に戻れば。
十八歳の自分を思い出してしまう。
みさき。
学校。
噂。
あの日。
全部。
忘れたかった。
だから。
帰らなかった。
俺は便箋を折りたたんだ。
「まだ帰らへん」
「うん」
「俺には今の生活がある」
エレーヌが笑った。
「そうだね」
俺は。
今の生活を大切にしたかった。
梅田の店。
スタッフ。
お客さん。
そして。
エレーヌ。
俺はもう。
過去に戻る必要なんてない。
そう思っていた。
それから数週間。
店は相変わらず忙しかった。
朝から仕込み。
昼にはお客さんが増える。
夕方には仕事帰りの人が立ち寄る。
「ここのケーキ、テレビで見ました」
「ありがとうございます」
「おすすめは?」
「季節のタルトですね」
「じゃあ、それください」
そんなやり取りが楽しかった。
自分が作った菓子を。
誰かが美味しいと言ってくれる。
それだけで。
十分だった。
ある日の夕方。
店の入口から。
見慣れない女性が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
俺はいつものように声をかけた。
女性はショーケースを眺めている。
「こちら、人気の商品ですか?」
「はい」
「じゃあ、これを」
「ありがとうございます」
会計をする。
女性はケーキを受け取って。
店を出ていった。
そのときは。
何も思わなかった。
ただ。
その日の夜。
閉店作業をしていると。
店の電話が鳴った。
「はい、パティスリー・シエルです」
『……しげる?』
俺は固まった。
「……誰や?」
『私』
その声を。
忘れるはずがなかった。
十二年間。
一度も聞いていない。
でも。
一瞬で分かった。
「……みさき?」
『うん』
心臓が跳ねた。
「何で……」
『今、大阪にいるの』
「大阪?」
『うん』
「何しに?」
少しの沈黙。
そして。
彼女は言った。
『あなたに、聞きたいことがある』
俺は黙った。
『十二年前のこと』
その瞬間。
嫌な予感がした。
『それから――』
みさきの声が震えた。
『今まで、私を追いかけていたのは……本当にあなたじゃないの?』
俺は。
言葉を失った。
電話の向こうで。
みさきが泣いていた。
『お願い……』
『本当のことを教えて』
俺は答えた。
「俺は、何もしてへん」
そして。
電話が切れた。
受話器を置いた俺の手は。
震えていた。
十二年前。
終わったはずの恋。
終わったはずの故郷。
終わったはずの過去。
その全部が。
今。
梅田で。
俺の人生を追いかけてきていた。




