第7話 フランスへ行かないか
「エレーヌです」
そう言って笑った女性。
それが。
俺とエレーヌの出会いだった。
ただ。
最初は、彼女が何者なのか。
俺は知らなかった。
「俺に何の用なん?」
「あなたのケーキを食べてみたかったの」
「……ケーキ?」
「そう」
エレーヌは笑った。
「ジャン=ピエールから聞いたの」
その名前を聞いて。
俺は納得した。
「ジャンさんの知り合い?」
「友達よ」
「そうなんや」
俺は少し安心した。
ジャン=ピエールは、俺をフランスへ連れてきてくれた人だ。
厳しい人だった。
でも。
俺の才能を最初に認めてくれた人でもある。
「じゃあ、これ」
俺は店の試作品を一つ渡した。
「食べてみ」
「いいの?」
「売り物やないけどな」
エレーヌは嬉しそうに受け取った。
そして。
一口。
「……おいしい」
「ほんま?」
「うん」
彼女は目を輝かせた。
「甘すぎない」
「そこを狙った」
「すごい」
「そんな大したもんやないって」
「ううん」
エレーヌは首を振った。
「あなた、自分のことを低く見すぎ」
その言葉に。
俺は少し驚いた。
自分のことを褒めるのは苦手だった。
昔から。
何をしても。
「お前は大したことない」
そんな言葉ばかり聞いてきたからだ。
だから。
「才能がある」と言われても。
簡単には信じられなかった。
でも。
エレーヌは何度も店に来るようになった。
仕事が終わると。
近くのカフェで話す。
フランスのこと。
日本のこと。
お互いの仕事。
くだらない話。
そんな時間が増えていった。
ある日。
エレーヌが聞いた。
「しげるは、どうしてフランスに来たの?」
「菓子の勉強や」
「それだけ?」
「……まあな」
「日本に帰りたい?」
その質問に。
俺は少し考えた。
「分からん」
「家族は?」
「おる」
「故郷は?」
俺は答えなかった。
エレーヌも、それ以上聞かなかった。
その距離感が。
俺には心地よかった。
無理に踏み込んでこない。
でも。
必要なときには隣にいてくれる。
そんな女性だった。
そして。
俺は少しずつ。
彼女に惹かれていった。
ある休日。
エレーヌが俺を街へ連れ出した。
「今日は仕事禁止」
「なんで?」
「あなた、休みの日まで菓子のこと考えてるから」
「別にええやん」
「駄目」
彼女は笑った。
「今日は普通の人になって」
「普通の人って何やねん」
「分からない」
二人で笑った。
街を歩いた。
食事をした。
映画を見た。
特別なことは何もしていない。
でも。
俺には、その時間が幸せだった。
帰り道。
エレーヌが突然言った。
「しげる」
「ん?」
「私、あなたのこと好き」
足が止まった。
「……え?」
「好き」
あまりにも真っ直ぐだった。
俺は言葉が出なかった。
「返事、今じゃなくてもいいよ」
「……」
「でも、私は本気」
俺は彼女を見た。
背が高くて。
綺麗で。
明るくて。
誰とでも話せる。
そんな女性が。
俺を好きだと言っている。
信じられなかった。
でも。
嬉しかった。
「……俺も」
「え?」
「俺も、エレーヌのこと好きや」
彼女は笑った。
そして。
俺の手を握った。
その瞬間。
俺は思った。
もう。
過去を振り返らなくてもいい。
俺には。
これからがある。
それから俺たちは。
一緒にいる時間が増えた。
仕事では厳しい修業。
終わればエレーヌと過ごす。
そんな生活だった。
そして。
五年間のフランス修業を終える頃。
俺は一人のパティシエとして。
自分の名前で仕事を任されるまでになっていた。
ジャン=ピエールが言った。
「しげる」
「はい」
「もう、お前は十分学んだ」
「……ありがとうございます」
「これからは、自分の店を持て」
俺は驚いた。
「自分の店?」
「そうだ」
ジャンは笑った。
「お前ならできる」
俺は黙った。
自分の店。
その言葉を聞いたとき。
胸の奥に。
一つの街が浮かんだ。
日本。
大阪。
梅田。
俺は帰国を決めた。
ただし。
佐渡には帰らない。
帰る場所は。
大阪だった。
そして。
エレーヌも日本へ来ることを決めてくれた。
「日本に行っても、私と一緒にいてくれる?」
彼女が聞いた。
俺は笑った。
「当たり前やろ」
「約束?」
「約束や」
その頃の俺は。
本当に幸せだった。
過去なんて。
もう終わったと思っていた。
佐渡も。
みさきも。
十二年前の出来事も。
全部。
遠い昔のことになったと思っていた。
そして。
俺は日本へ帰った。
大阪・梅田で。
自分の店を開くために。
――それが。
俺の人生の第二章の始まりだった。




