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九龍の華 ―死んだはずの大学生、平安の世で天下を読む―』  作者: あめのひくもり


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第八話 まだ見ぬ父

第八話 まだ見ぬ父


京の門をくぐった瞬間。


華は、思わず立ち止まった。


「……人、多すぎない?」


高野山とは比較にならない。


大路には牛車。


荷車。


馬。


商人。


僧。


役人。


旅人。


行商人。


道の両側には店が並び、あちらこちらから声が飛ぶ。


「焼き餅!」


「干魚はいらんか!」


「東昇国の絹だよ!」


「薬草あります!」


匂いまで混ざっている。


魚。


香。


汗。


土。


飯。


馬。


「五条」


「何だ」


「帰りたい」


「早い」


「山の方が静かだった」


「お前は都に来たかったのではないのか」


「来てみないと分からないこともある」


「都合のいい男だ」


華は周囲を見回した。


十四年間。


ほとんど高野山しか知らなかった。


前世の記憶には東京も大阪もある。


人混みそのものが初めてというわけではない。


それなのに。


この都は妙だった。


建物。


着物。


牛車。


何もかもが古い。


だが、人間だけは変わらない。


金持ち。


貧しい者。


急いでいる者。


暇そうな者。


何かを売る者。


騙そうとする者。


前世の街と。


それほど違わない。


「華様」


英の声。


振り返る。


「私たちはここで」


「別れる?」


「はい」


英が頷いた。


町医者としての姿。


地味な衣。


そばかす。


どう見ても関白の娘には見えない。


「先生はどこへ?」


「診療所へ戻ります」


「関白家じゃなくて?」


英の目が細くなる。


「都まで聞かないというお約束でした」


「もう都だよ」


英が止まる。


華は笑った。


「だから教えて」


「…………」


英はすみれを見る。


すみれが小さくため息をついた。


「先生」


「何です」


「もう宜しいのでは」


英はしばらく黙った。


やがて。


「華様」


「はい」


「私のことは」


一拍。


「平家では、今まで通り知らないことにしてください」


「やっぱり平英姫?」


英は答えなかった。


華が五条を見る。


「また沈黙」


「答えだろ」


「本人から聞きたい」


英が諦めたように息を吐いた。


「……そうです」


華は思わず英を見る。


上から下まで。


「先生が?」


「何ですか、その目は」


「いや」


華は首を傾げる。


「関白の娘って、もっとこう……」


「こう?」


「豪華?」


英の眉が動く。


「悪うございましたね」


「悪いとは言ってない」


「では何です」


「普通」


英の目がさらに冷たくなる。


すみれが華の後ろで小声で言った。


「華様」


「何?」


「そこで止めた方がよろしいかと」


「何で?」


「命のためです」


華は本気で意味が分からなかった。


五条は既に少し離れている。


逃げた。


「まあいいや」


華が言う。


「また会える?」


英の表情が一瞬変わった。


「……なぜです?」


「傷」


華が左腕を見せる。


「最後まで診てもらわないと」


英は少しだけ笑った。


「患者の自覚がおありになったのですね」


「先生が言い続けたから」


「では」


英が言う。


「またお会いすることもあるでしょう」


「診療所どこ?」


「教えません」


「何で!」


「探してください」


「京広いよ!」


英はすでに背を向けた。


すみれが頭を下げる。


「華様、五条様。道中ありがとうございました」


五条が頷く。


華はまだ納得しない。


「すみれさん」


「はい」


「診療所」


すみれが微笑んだ。


「私も申し上げられません」


「主従だなあ」


英が遠くから言った。


「すみれ!」


「参ります」


すみれが英を追う。


華は二人を見送った。


人混みの中。


あっという間に見えなくなる。


「五条」


「何だ」


「変な人だった」


「お前が言うな」


また言われた。


     ◇


太政大臣・橘秀逸の屋敷は。


大きかった。


華の想像より遥かに。


門。


庭。


建物。


使用人。


警護の兵。


華は門前で立ち止まった。


「……ここ?」


「そうだ」


「父上って金持ち?」


五条が華を見る。


「太政大臣だぞ」


「給料どれくらい?」


「知らん」


「税金?」


「やめろ」


「何で」


「屋敷に入る前から問題を起こすな」


門衛が華を見る。


五条が書状を出す。


「高野山より参った。橘華様だ」


門衛の顔が変わる。


すぐに頭を下げた。


「お待ちしておりました」


華は少し落ち着かない。


自分の家。


らしい。


だが。


何も知らない。


門をくぐる。


庭。


池。


松。


小さな橋。


高野山とは全く違う。


整いすぎている。


「華様!」


女の声。


使用人たちが並んでいた。


十人以上。


全員が頭を下げる。


「お帰りなさいませ」


華は固まった。


「五条」


小声。


「何だ」


「どうすればいい?」


「知らん」


「護衛だろ」


「礼儀作法の師ではない」


使えない。


華はとりあえず。


「……ただいま?」


と言った。


使用人たちの顔が僅かに上がる。


何人か。


笑っている。


間違えた?


そこへ。


年配の男が前へ出た。


「華様」


「はい」


「この屋敷を預かります家令にございます」


「よろしくお願いします」


男が僅かに驚いた。


「何か?」


「いえ」


まただ。


華は思う。


俺。


何か変なのか?


「太政大臣様がお待ちです」


ついに。


父。


     ◇


廊下を歩く。


長い。


妙に長く感じた。


華の心臓が少し速い。


刺客十二人を前にしたときとは違う。


怖い。


というより。


分からない。


父。


何を話せばいい。


十四年。


ほぼ会ったことがない。


いきなり、


「父上、お久しぶりです」


もおかしい。


そもそも久しぶりですらない。


記憶にないのだから。


「緊張しているな」


五条が言った。


「してない」


「してる」


「してない」


「歩幅が普段より小さい」


華が自分の足を見る。


本当だ。


腹が立つ。


「五条」


「何だ」


「ついてきて」


「断る」


「何で!」


「親子の再会だ」


「親子って感じしない」


「俺には関係ない」


「冷たい」


「仕事の範囲外だ」


五条は本当に途中で止まった。


「ここから一人で行け」


「裏切り者」


「生きて帰ってこい」


「父上を何だと思ってるんだ」


五条は答えなかった。


その沈黙やめろ。


     ◇


部屋の前。


家令が膝をつく。


「華様がお着きにございます」


中から声。


「入れ」


低い。


落ち着いた声。


華は一度息を吸った。


戸が開く。


中。


男が一人。


机。


書類。


筆。


四十代前半。


背は高い。


痩せている。


端正。


だが。


笑っていない。


橘秀逸。


四十三歳。


九龍国太政大臣。


華の父。


まだ見ぬ父。


十四年間。


名前だけ知っていた男。


秀逸が華を見る。


華も秀逸を見る。


沈黙。


長い。


華は思った。


似てる?


自分と?


目。


鼻。


顔の輪郭。


どこか似ている気もする。


だが。


先入観かもしれない。


秀逸が口を開いた。


「大きくなったな」


華は一瞬迷った。


「……はい」


変な返事だ。


「十四年ぶりだ」


「俺は覚えてません」


また沈黙。


言い方間違えた?


秀逸の口元が。


ほんの僅かに動いた。


笑った?


気のせいか。


「そうだろうな」


秀逸が筆を置く。


「座れ」


華は向かいへ座った。


「高野山はどうだった」


「楽しかったです」


「説庵様は」


「元気です」


「相変わらずか」


「多分」


「そうか」


会話。


終了。


華は困った。


父親との会話って。


こんなに難しいのか。


「父上」


「何だ」


「質問していい?」


秀逸の眉が僅かに上がる。


「すでにしている」


「あ」


華は咳払い。


「いっぱいあります」


「そうだろう」


「全部答えてくれる?」


「内容による」


やはり。


この人も。


「みんなそれ言う」


「誰が」


「オジィ。五条。英先生」


秀逸の手が止まった。


「英?」


華は見逃さない。


「知ってる?」


「誰だ」


「町医者」


「知らん」


早い。


答えが。


「今の怪しい」


秀逸が華を見る。


「何が」


「名前聞いただけで反応した」


「…………」


「知ってる?」


「華」


「はい」


「お前は」


秀逸が少しだけ目を細める。


「昔からそうなのか」


「何が?」


「面倒なのは」


華は少し考えた。


「オジィにはよく言われます」


秀逸が。


今度は明らかに笑った。


ほんの一瞬。


「そうか」


華は少しだけ安心した。


怖い人では。


ないのかもしれない。


     ◇


「道中で襲われたそうだな」


秀逸が言った。


華の表情が変わる。


「知ってるんだ」


「当然だ」


「誰から?」


「報告はいくらでも来る」


「父上の人?」


「一部はな」


華は前へ身を乗り出した。


「十二人」


「ああ」


「次は十一人」


秀逸の目が僅かに鋭くなる。


「二度目も把握している」


「じゃあ」


華が聞いた。


「誰が俺を殺そうとしてる?」


「分からん」


即答。


華は少し驚いた。


「太政大臣でも?」


「太政大臣だから何でも分かると思うな」


「オジィも似たこと言ってた」


「説庵様が正しい」


華は考える。


「大公主?」


秀逸の表情は動かない。


「分からん」


「参議・平司?」


動かない。


「関白?」


「華」


声が低くなった。


「はい」


「名前を軽々しく出すな」


「どうして?」


「都では」


秀逸が言う。


「口から出した名前が、そのまま相手に届くと思え」


華は黙る。


「この屋敷でも?」


「当然だ」


「父上の屋敷なのに?」


「だからだ」


華は周囲を見る。


壁。


戸。


庭。


誰もいない。


だが。


聞かれているかもしれない。


これが。


都。


「高野山とは違う?」


「全く違う」


五条と同じことを言う。


「信用できる人は?」


華が聞く。


秀逸は少し考えた。


「いないと思え」


華は顔をしかめた。


「父上も?」


「私もだ」


また。


説庵と同じ。


華は少し笑った。


「大人ってみんな同じこと言うんだね」


「正しいからだ」


「じゃあ俺、一人?」


「違う」


秀逸が言った。


「最後に決めるのが自分というだけだ」


華の表情が変わる。


少し。


この人。


オジィに似ている。


     ◇


「母上について聞きたい」


部屋の空気が。


変わった。


秀逸の顔。


ほんの僅か。


硬くなる。


「優希か」


「うん」


華は気づいていない。


敬語が消えている。


秀逸も指摘しない。


「どんな人だった?」


「説庵様から聞いていないのか」


「少し」


「何と」


「頭が良すぎる人」


秀逸が僅かに笑う。


「間違ってはいない」


「国の仕組みを変えたって」


「それも本当だ」


「裁判」


「ああ」


「役所」


「ああ」


「警察みたいなの」


秀逸の目が動く。


「警察?」


しまった。


「……治安を守る組織」


「妙な言葉を使うな」


「高野山の方言」


秀逸が華を見る。


絶対。


信じてない。


「母上は」


華が続ける。


「皇帝の近くにいたんだよね」


「ああ」


「秘書みたいな」


「ひしょ?」


また。


「……近くで文書とか政策とか手伝う人」


「そうだ」


華は慎重に聞く。


「父上とは?」


秀逸が少しだけ視線を落とした。


「宮中で知り合った」


「父上も皇帝の近くにいた?」


「あの頃は蔵人所にいた」


華が思い出す。


父は当時。


皇帝近侍。


蔵人所の役人。


そこで。


優希と出会った。


「母上のこと好きだった?」


完全な沈黙。


華は待つ。


長い。


「華」


「はい」


「父親にそういうことを聞くものではない」


「何で」


「何でもだ」


華は思った。


照れてる?


この人。


「好きだったんだ」


「…………」


確定。


華は少し笑った。


秀逸が睨む。


「何だ」


「別に」


初めて。


父親らしく見えた。


     ◇


だが。


次の質問。


「母上は」


華は秀逸を見る。


「どうして死んだの?」


笑みが消えた。


秀逸の顔から。


完全に。


「病気ではないんだよね」


沈黙。


「事故でも」


沈黙。


「殺された?」


秀逸が華を見る。


その目。


さっきまでとは違う。


太政大臣の目。


「誰に聞いた」


「誰にも」


「ならなぜ」


「オジィに聞いた」


華は答える。


「殺された?って」


「説庵様は」


「答えなかった」


「それだけか」


「手が止まった」


秀逸が黙る。


華は続けた。


「父上も今止まった」


秀逸の目が少し細くなる。


「だから」


華は言った。


「殺されたんだ」


「華」


「誰に?」


返事はない。


「皇帝?」


秀逸の目。


一瞬。


本当に一瞬。


華は見た。


「……皇帝なの?」


「それ以上」


秀逸の声が変わった。


「今は聞くな」


「どうして」


「生きたいならだ」


華は黙った。


同じ。


説庵も。


似たことを言った。


――生き延びたら話す。


母の死。


皇帝。


「父上は知ってる?」


「華」


「知ってるんだ」


「止めろ」


初めて。


強い声。


華は口を閉じた。


秀逸はしばらく何も言わない。


やがて。


小さく息を吐いた。


「すまない」


華が少し驚く。


「何が?」


「怒鳴る必要はなかった」


「別に」


「だが」


秀逸が華を見る。


「今は知るべきではない」


「いつ?」


「お前が」


一拍。


「知っても死なない力を持ったときだ」


「俺、五人くらいなら――」


「そういう力ではない」


華が止まる。


「剣が強ければ生きられると思うな」


秀逸は言った。


「この都では」


その言葉。


五条。


説庵。


みんな。


同じことを言う。


「母上は」


華が小さく言った。


「強かった?」


秀逸は。


しばらく考えてから答えた。


「誰よりも」


「なのに死んだ?」


「ああ」


それだけで。


十分だった。


     ◇


その夜。


華のために用意された部屋。


広い。


広すぎる。


「落ち着かない」


華は布団に寝転がる。


五条は庭側。


「贅沢な悩みだ」


「高野山の部屋、この四分の一くらい」


「慣れろ」


「五条はここに住む?」


「当面」


「よかった」


五条が華を見る。


「何だ」


「知ってる人いないから」


「父親がいる」


「まだ父親って感じしない」


正直な気持ち。


嫌いではない。


怖くもない。


でも。


父。


その言葉がまだ馴染まない。


五条は何も言わなかった。


「明日は?」


華が聞く。


「父上から聞いてない」


「朝、使者が来る」


「どこから」


「皇宮」


華が起き上がる。


「皇帝?」


「おそらく」


早い。


都に入って。


翌日。


「何で俺に会うの?」


「知らん」


「五条」


「何だ」


「本当に知らない?」


「知らん」


華は五条を見る。


仮面。


見えない。


「みんな秘密ばっかり」


「都だからな」


「都嫌い」


「まだ一日目だ」


「もう十分」


五条が少し笑った。


     ◇


深夜。


太政大臣邸。


華は眠っている。


だが。


橘秀逸はまだ起きていた。


机。


灯。


一枚の古い紙。


そこに。


女の筆跡。


秀逸へ。


それだけ。


秀逸は紙を見ていた。


戸の外。


気配。


「入れ」


男が入る。


源義弘。


蔵人頭。


華の前では。


まだ会っていない男。


「久しいな」


秀逸が言う。


「この屋敷では、でございますが」


義弘が座る。


「華様を拝見しました」


「どこで」


「門前から」


「声をかけなかったのか」


「まだ早いかと」


秀逸は紙を畳む。


「似ていたか」


義弘は少し考える。


「優希様に?」


「ああ」


「目は」


義弘が答える。


「よく似ておられます」


秀逸は目を閉じた。


「そうか」


「ただ」


「何だ」


「考え方は」


義弘が少し笑った。


「さらに厄介かもしれません」


秀逸も僅かに笑う。


「説庵様が育てたからな」


「それだけでしょうか」


秀逸の笑みが消える。


「何が言いたい」


義弘が懐から紙を出す。


「第一の襲撃」


机へ。


「第二の襲撃」


もう一枚。


「監視役」


三枚目。


「すべて別系統です」


秀逸の目が鋭くなる。


「三勢力?」


「最低でも」


「雅山」


「可能性あり」


「司」


「可能性あり」


「もう一つ」


義弘は答えない。


秀逸を見る。


「まさか」


秀逸の声が低くなる。


義弘は静かに言った。


「皇宮内部からも」


部屋が静まる。


「華様の移動経路を調べた者がおります」


秀逸の顔から感情が消えた。


「誰だ」


「まだ」


「義弘」


「調べています」


「急げ」


「もちろん」


義弘は頭を下げる。


そして。


「明日」


「何だ」


「陛下が華様を召されます」


秀逸の目が変わる。


「聞いている」


「行かせますか」


「断れると思うか」


「いいえ」


「なら聞くな」


義弘が黙る。


「秀逸殿」


「何だ」


「もし」


義弘は言葉を選ぶ。


「陛下が華様に、優希様のことを話されたら」


秀逸はすぐに答えなかった。


長い。


長い沈黙。


「話さない」


「なぜそう言い切れます」


秀逸が義弘を見る。


「話せないからだ」


「…………」


「あの男は」


秀逸の声に。


初めて。


明確な怒りが混ざった。


「優希を殺したことだけは」


一拍。


「華には言えない」


義弘は何も答えなかった。


二人とも。


同じ男を思い浮かべている。


九龍国皇帝。


大和武尊。


     ◇


翌朝。


華は。


何も知らず。


朝食を食べていた。


「これ美味しい」


「華様」


家令が入る。


「何?」


「皇宮よりお使者にございます」


華の箸が止まる。


「もう?」


「はい」


「何て?」


家令が頭を下げる。


「皇帝陛下より」


華は飲み込む。


「橘華様、ただちに参内せよとの勅命にございます」


五条が壁際で目を細める。


華はしばらく黙った。


そして。


「朝飯食べ終わってからでもいい?」


家令が固まる。


五条が額を押さえた。


「華」


「何?」


「皇帝を待たせるな」


「でも飯が」


「食え」


「急いで?」


「今すぐだ」


華は仕方なく。


残りを口へ詰め込んだ。


まだ知らない。


これから会う男が。


母の死の真相を握り。


自分自身の出生にも。


深く関わる人物であることを。


そして。


その皇帝が後に。


華の命が消えかけたその直後。


誰も予想しなかった言葉を口にすることを。


――華は、私の息子だ。


だが。


それはまだ。


ずっと先の話である。


第八話 まだ見ぬ父 了

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