第七話 川を下る
第七話 川を下る
翌朝。
華たちは街道を捨てた。
選んだのは川だった。
「本当に船で行くのか」
五条が岸辺を見ながら言う。
「昨日言っただろ」
華は答えた。
「街道は読まれてる」
「川も読まれる可能性はある」
「でも相手は準備し直す必要がある」
五条が華を見る。
「時間を稼ぐためか」
「それもある」
華は川面を見る。
流れは緩い。
ここから都までは、途中で二度ほど船を乗り換えればかなり距離を稼げる。
「それに」
華は続けた。
「陸路より、追跡しにくい」
「船宿を押さえられたら終わりだ」
「だから先生に頼った」
二人の視線が同時に英へ向く。
英は岸辺で船頭と話していた。
地味な衣。
そばかす。
どう見ても地方を回る町医者。
だが。
昨日。
関白・平岳の娘である可能性が、ほぼ確定した。
華はまだ納得していない。
いや。
理解はしている。
だが頭の中で、
町医者の英先生。
関白令嬢・平英姫。
この二つが結びつかない。
「先生」
英が振り返る。
「何でしょう」
「船、本当に手配できる?」
「できます」
「どうやって?」
「知り合いがおりますので」
「また知り合い?」
「医者は顔が広いのです」
「関白の娘だからじゃなくて?」
英の笑みが消えた。
「華様」
「はい」
「昨日のお約束をお忘れですか」
「都まで聞かない」
「はい」
「でも先生、否定してない」
英は黙る。
その横で、すみれが顔を背けている。
明らかに笑っている。
「すみれさん」
「何でしょう」
「笑ってる?」
「いいえ」
「みんな同じ答えするな」
五条が言った。
「お前が毎回同じことを聞くからだ」
「五条までそっち側?」
「俺は誰の側でもない」
「一番信用できない言い方だな」
英が小さく息を吐いた。
「船が来ます」
川上から小舟が近づいてくる。
船頭は五十代ほどの男。
船は華が想像していたより大きかった。
荷物も積める。
屋根付きの小さな客室まである。
「これ、普通の渡し船じゃないよね」
華が言う。
英が答える。
「知人の船です」
「誰の?」
「知人です」
「答える気ないな」
「ありません」
即答。
華は諦めた。
◇
船は川を下り始めた。
岸がゆっくり後ろへ流れる。
華は船縁に座って川面を見ていた。
久しぶりに静かだった。
高野山を下りてから。
刺客。
監視。
刺客。
まともに休んでいない。
「華」
五条の声。
「何?」
「寝るなら中で寝ろ」
「寝てない」
「目が閉じている」
「考え事」
「寝言か」
華は目を開ける。
英が向かい側に座って薬草を整理している。
すみれが手伝っている。
華は何となく見ていた。
葉。
根。
乾燥させた樹皮。
粉末。
かなり種類が多い。
「先生」
「はい」
「それ全部薬?」
「そうです」
「何種類くらい?」
「今持っているのは四十ほど」
華の眉が上がる。
「四十?」
「少ない方です」
「全部効能覚えてる?」
英が華を見る。
「医者ですから」
「副作用も?」
英の手が止まる。
また。
華が前世の言葉を使った。
「副作用?」
「薬を飲んだ時に、目的と違う悪い反応が出ること」
英は少し考えた。
「当然あります」
「把握してる?」
「可能な限り」
「例えば?」
英が一つの薬草を持つ。
「これは熱を下げるのに使います」
「うん」
「しかし量が多いと胃を痛めます」
別のもの。
「これは痛みに使います。ただし妊婦には使いません」
華は黙る。
体系的だ。
この時代の医術として。
いや。
「先生」
「何でしょう」
「薬の記録ってしてる?」
英の目が僅かに変わる。
「記録?」
「誰に何を使って、どう効いたか」
「しております」
「患者ごと?」
「はい」
華は笑った。
「やっぱり変だ」
「何がですか」
「この時代の医者にしては合理的すぎる」
英の表情が止まる。
五条も華を見る。
すみれだけは黙っている。
「この時代?」
英が聞く。
しまった。
華は少し考える。
「高野山以外の医者に比べてって意味」
「そうですか」
英はそれ以上追及しなかった。
だが。
華には分かった。
今の言葉。
覚えられた。
この人も。
人をよく見ている。
◇
昼前。
船が一度岸へ寄った。
荷の積み替え。
水。
食料。
華たちも短時間だけ降りる。
小さな河港。
人は多い。
商人。
船頭。
旅人。
兵。
「五条」
華が小声で言う。
「ああ」
誰かに見られている。
一人。
華にも分かる。
市場の端。
笠を深く被った男。
視線はこちら。
「追う?」
華が聞く。
「放っておけ」
「珍しい」
「一人とは限らん」
確かに。
華は周囲を見る。
もう一人。
いや。
三人。
見つけた。
「増えた」
「だからだ」
五条は普通に歩く。
「こちらが気づいたと悟らせるな」
華も自然に歩く。
英とすみれは少し前。
「先生たちには?」
「すみれが気づいている」
華がすみれを見る。
視線は前。
でも。
右手が袖の中。
鉄扇。
準備している。
「本当に侍女?」
「その質問はもう飽きた」
「五条に聞いてない」
市場を抜ける。
何も起こらない。
船へ戻る。
監視役は追ってこない。
華は船に乗りながら言った。
「情報だけ取った?」
「おそらく」
「じゃあ次が来る」
五条が頷いた。
「いつだ」
華は川を見る。
「今日の夜か」
一拍。
「明日の朝」
五条が華を見る。
「理由は」
「今から知らせる」
華は指を折る。
「伝令が走る」
一。
「刺客を集める」
二。
「船の行き先を予測する」
三。
「待ち伏せ」
四。
「最短でも数刻はかかる」
五条は少し考える。
「相手がすでに準備していれば」
「もっと早い」
「なら」
「次の船着場が危ない」
五条の目が細くなる。
「降りないか」
華は首を振る。
「降りる」
「なぜ」
「降りなかったら」
華が笑う。
「どこに敵がいるか分からない」
五条はため息をついた。
「お前は本当に」
「何?」
「囮になるのが好きだな」
「好きじゃない」
「やっていることは同じだ」
英が後ろから言った。
「五条様のおっしゃる通りです」
華が振り返る。
「先生まで?」
「自分を使って敵の動きを確認するのは、賢いやり方とは申し上げられません」
「でも情報は必要」
「死んだら使えません」
正論。
華は少し黙る。
「じゃあ先生ならどうする?」
英はすぐには答えなかった。
「相手に」
「うん」
「こちらの目的地を誤認させます」
華の目が変わる。
「どうやって?」
「今の船を予定通り次の船着場へ」
「俺たちは?」
「途中で降ります」
五条が英を見る。
「途中に船着場はない」
「あります」
英が答える。
「医者が使う場所が」
「医者?」
「川沿いの集落へ向かう小さな桟橋がございます」
華が地図を見る。
載っていない。
「秘密の道?」
「秘密ではありません」
英が淡々と言う。
「地図に載せるほど大きくないだけです」
華は英を見る。
「先生」
「何でしょう」
「頭いいね」
英が僅かに眉を上げる。
「今頃ですか」
華が固まる。
すみれがまた笑う。
「先生、意外と性格悪い?」
「よく言われます」
「誰に?」
「すみれに」
今度はすみれが固まった。
華は笑った。
少し。
距離が縮まった気がした。
◇
その日の午後。
計画通り。
船は川の途中で速度を落とした。
岸辺。
木々の陰。
小さな桟橋。
華たち四人だけが降りる。
船頭には、
「そのまま予定通り進んでください」
と英が頼んだ。
「誰かに聞かれたら?」
船頭が聞く。
英は答えた。
「四人とも乗っていると」
華が感心する。
「普通に嘘つくんだ」
「患者を守るためなら」
「俺、患者?」
「怪我人です」
「まだそれ言う?」
船が離れる。
華たちは森の中へ。
細い道。
「これ、どこへ出る?」
華が聞く。
「古い寺」
英が答える。
「そこから都へ抜けられます」
「関白家の道?」
英が止まる。
華も止まる。
「今のは当たり?」
「華様」
「はい」
「聞かないお約束です」
「都まであと一日だから、そろそろいいかなって」
「駄目です」
「厳しいな」
五条が前を歩きながら言う。
「諦めろ」
「五条は気にならないの?」
「気になる」
「じゃあ聞いてよ」
「俺は命が惜しい」
華は英を見る。
「先生、そんな怖い?」
英が微笑む。
「さあ」
怖い。
多分。
◇
夕方。
古寺へ到着した。
小さな寺。
僧侶は三人だけ。
英を見るなり、
「先生」
と頭を下げた。
華はまた気づく。
この人。
あちこちに顔が利きすぎる。
「今夜一晩、お借りできますか」
英が言う。
「もちろんでございます」
僧侶は華たちを案内する。
華は小声で五条に言った。
「普通の町医者」
「言うな」
「でも」
「言うな」
怒られた。
夜。
簡単な食事。
華はかなり疲れていた。
二度の戦闘。
移動。
傷。
さすがに身体が重い。
「華様」
英。
「何?」
「傷を見せてください」
「また?」
「またです」
華は諦めて左腕を出す。
英が布を取る。
「腫れは減りました」
「先生のおかげ」
「水を煮て使ったおかげです」
「それ俺が言った」
「私も以前からしております」
二人の目が合う。
また。
この話。
華は思う。
なぜ。
英は煮沸を知っている?
単なる経験則か。
それとも。
「先生」
「はい」
「変なこと聞いていい?」
「内容によります」
「夢見る?」
英の手が止まった。
「夢?」
「知らない場所」
英は華を見る。
「どういう意味ですか」
「例えば」
華は言葉を選ぶ。
「見たことない建物」
一つ。
「妙に明るい部屋」
二つ。
「白い服の人」
三つ。
英の顔から。
わずかに血の気が引いた。
華は見た。
「あるんだ」
英は答えない。
「先生」
「…………」
「俺もある」
英の目が華を見る。
鋭い。
「どのような夢です」
今度は英から聞いた。
華は少し考える。
全部は言わない。
「手術室」
英の指が止まった。
完全に。
華は確信した。
何かある。
「知ってる?」
「……その言葉を」
英がゆっくり言った。
「どこで?」
華は答えない。
今度は。
華の番だ。
「秘密」
英の眉が動く。
「華様」
「先生も秘密あるだろ」
「…………」
「交換」
華は笑う。
「都に着いたら」
英はしばらく華を見ていた。
やがて。
「考えておきます」
「約束?」
「しておりません」
「ずるい」
「大人ですから」
「三歳しか違わないだろ」
英の目が冷たくなる。
華は気づく。
「また年齢?」
「華様」
「すみません」
学習した。
少しだけ。
◇
深夜。
全員が眠った頃。
五条だけが起きていた。
いや。
すみれも。
二人は廊下。
「華様が先生に何か聞いていました」
すみれが言う。
「ああ」
「聞こえていたのですか」
「護衛だ」
「便利ですね」
「お前も聞いていただろ」
すみれは否定しない。
「手術室」
五条が言う。
「何だ」
すみれは黙る。
「知っているのか」
「私は知りません」
「英先生は?」
沈黙。
五条の目が細くなる。
「やはり」
「何も申し上げられません」
「お前たちは何者だ」
「それは」
すみれが五条を見る。
「あなたも同じでは?」
五条は答えない。
仮面。
名前。
過去。
彼も。
何も明かしていない。
「華様のことを」
すみれが言った。
「どう思います」
「面倒」
「それだけ?」
「危なっかしい」
「それだけ?」
五条は少し考える。
「頭が良すぎる」
すみれが頷く。
「私もそう思います」
「だが」
「はい」
「知らなすぎる」
五条が言った。
「自分のことを」
すみれの顔から笑みが消える。
「そうですね」
「お前は知っている?」
「いいえ」
「英先生は」
すみれは答えない。
だが。
五条は思った。
この二人。
少なくとも。
華の母。
橘優希。
その名前を知っている。
普通の知り方ではない。
◇
同じ夜。
都。
平司は報告を受けていた。
「船は次の船着場に到着」
「華は」
「乗っておりませんでした」
司が立ち上がる。
「何?」
「途中で降りたものと」
「どこだ」
「不明」
司の顔が歪む。
「なぜ追えない」
「船頭も知らないと」
「嘘だ」
「拷問しますか」
司は考える。
「いや」
今それをすれば目立つ。
「街道」
「はい」
「川沿い」
「はい」
「都へ入る道を全部見張れ」
「承知」
家臣が退出する。
司は一人になる。
机。
そこには一枚の文書。
雅山大公主から渡された手形。
皇帝と華が亡くなり。
平岳が退けば。
平司を関白に。
何度も読んだ。
夢。
いや。
予定。
司はそれを握る。
「もう少しだ」
藤宮は終わった。
歩けない。
父は古い。
皇帝もいずれ消える。
華さえ。
華さえ都へ入らなければ。
そう考えた時。
廊下。
音。
司が顔を上げる。
「誰だ」
返事なし。
刀を取る。
戸を開ける。
誰もいない。
ただ。
廊下の床に。
紙が一枚。
司は拾う。
文字。
一行だけ。
――兄を二度殺すつもりか。
司の顔から血の気が引いた。
誰だ。
知っている。
藤宮の事故。
自分が関与したことを。
知っている者。
「誰だ!」
叫ぶ。
返事はない。
屋根の上。
一人の男が静かに立っていた。
月明かり。
顔は布で隠されている。
男は屋敷を離れる。
数刻後。
関白邸。
一室。
男が膝をつく。
その前には。
輿椅子。
そして。
その横に立っている青年。
平藤宮。
「渡したか」
「はい」
「反応は」
「かなり動揺を」
藤宮が僅かに笑う。
「そうか」
「なぜ警告を?」
男が聞く。
「参議様が警戒なされます」
「それでいい」
藤宮は窓を見る。
「人間は」
一歩。
「自分だけが秘密を知っていると思っている間は慎重だ」
二歩。
「だが」
振り返る。
「秘密を誰かに知られたと分かった瞬間」
その目が冷たくなる。
「必ず動く」
「罠でございますか」
「そうだ」
藤宮は静かに言った。
「司」
弟の名。
「お前が何をしようとしているのか」
そして。
「誰と組んでいるのか」
藤宮の声が低くなる。
「全部、見せてもらう」
◇
翌朝。
華が目を覚ました。
外。
雨。
「最悪」
呟く。
五条が言う。
「好都合だ」
「何が」
「足跡が消える」
なるほど。
英とすみれも準備を終えている。
「今日」
華が聞く。
「都?」
五条が頷く。
「順調なら夕方」
華は少し黙った。
十三年以上。
高野山。
一度も見たことのない都。
父。
橘秀逸。
皇帝。
大和武尊。
関白。
平岳。
そして。
母。
橘優希。
その痕跡が残る場所。
「華様」
英が声をかける。
「何?」
「緊張されていますか」
「少し」
英が意外そうな顔。
「華様でも緊張するのですね」
「先生、俺を何だと思ってる?」
「変わった子供」
「子供じゃない」
「十四歳です」
「先生十九だろ」
英の目が冷たくなる。
「すみません」
即座に謝った。
すみれが笑う。
五条も少し笑っている。
華はため息をつく。
都へ入る前から。
敵だけでなく。
味方にも。
勝てる気がしなかった。
◇
四人は雨の中を歩き始めた。
そして。
昼過ぎ。
山道を抜けた先。
華は初めて見る。
広大な平野。
その中央。
巨大な城壁。
その奥に連なる宮殿と屋敷。
遠くからでも分かる。
人。
煙。
寺。
塔。
市場。
道路。
九龍国の中心。
京。
華は立ち止まった。
「……でかい」
五条が隣に立つ。
「初めてか」
「うん」
英も。
すみれも。
少し離れて見ている。
「華」
五条が言った。
「ここから先」
声が変わる。
「山とは違う」
「分かってる」
「分かっていない」
華が五条を見る。
「十二人の刺客より」
五条は京を見た。
「都の方が危険だ」
華も。
その巨大な都を見る。
刀を持った敵なら。
まだ分かる。
だが。
笑顔で近づく敵。
味方を装う敵。
正義を語る敵。
説庵が言っていた。
人は熊より恐ろしい。
華は小さく息を吐いた。
「行こう」
京へ。
父へ。
母の秘密へ。
そして。
自分自身の正体へ。
橘華は。
ついに。
九龍国の都へ足を踏み入れる。
第七話 川を下る 了




