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九龍の華 ―死んだはずの大学生、平安の世で天下を読む―』  作者: あめのひくもり


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第五話 英先生

英先生は、走るのが速かった。


見た目からは想像できないほど。


地味な衣。


そばかすのある顔。


医者というより、田畑で働いていても違和感がない。


それなのに。


「先生、速くない?」


華が言う。


「患者が待っています」


英は振り返らない。


横を走るすみれも同じだ。


息一つ乱していない。


五条が小声で言った。


「二人とも普通ではない」


「やっぱり?」


「あの侍女は特に」


「すみれさん?」


「ああ」


華は前を走るすみれを見る。


荷物を持っている。


薬箱。


布。


水筒。


かなり重いはず。


それでも足運びが軽い。


「武術?」


「やっている」


「どれくらい?」


「分からん」


「五条なら勝てる?」


「勝つ」


即答だった。


「自信あるな」


「事実だ」


そこへ。


前を走っていた英が振り返った。


「お二人とも」


「はい?」


「患者の前で殺す殺さないの話をするのはお控えください」


華と五条が黙る。


すみれが少しだけ笑った。


「先生は耳が良いのでございます」


「最初に言ってください」


華が答える。


英は前を向いた。


「聞かれて困ることを口にする方が悪いのです」


華は五条を見る。


「苦手かも」


「同感だ」


今度は英が振り返らずに言った。


「聞こえております」


華は完全に黙った。


     ◇


村へ戻った頃には、子供の状態はさらに悪化していた。


母親が家の前で待っている。


「先生!」


英が駆け込む。


華たちも続いた。


少年は布団の上で苦しそうに呼吸している。


顔が赤い。


唇がやや青い。


英はまず額へ触れた。


「熱い」


次に胸へ耳を当てる。


右。


左。


背中。


華はその動作を見る。


聴診器がない。


だから直接音を聞いている。


英が少年へ尋ねた。


「咳をすると胸が痛い?」


少年が小さく頷く。


「痰は出ますか」


母親が答える。


「黄色いものが……」


「血は?」


「少しだけ」


英の顔が変わった。


「いつから」


「今朝です」


英はすみれを見る。


「湯を」


「はい」


「清潔な布。それから例の薬」


「分かりました」


すみれがすぐ動く。


華は黙って見ていた。


肺炎。


その可能性が高い。


だが。


抗生物質はない。


酸素吸入もない。


胸部X線もない。


できることが少なすぎる。


英は少年の呼吸を確認しながら言った。


「窓を少し開けてください」


村人が戸惑う。


「風が入ります」


「煙がこもっています」


華が気づいた。


囲炉裏。


煙。


換気が悪い。


呼吸器疾患の患者には最悪だ。


英が敷物を見る。


「上半身を起こします」


「寝かせなくていいの?」


母親が聞く。


「この方が息がしやすくなります」


華の目が細くなる。


合理的だ。


英は少年の背中へ布を入れ、半座位に近い姿勢を作る。


「華様」


突然呼ばれた。


「え?」


「その器を取ってください」


「これ?」


「はい」


華が渡す。


英は中身を見る。


薬草を煮出したもの。


匂いを嗅ぐ。


「すみれ」


「はい」


「少し薄い」


すみれが頷く。


「追加いたします」


二人のやり取りに無駄がない。


何度も同じことをしている。


そういう動きだ。


華は英を見る。


「これ、何の薬?」


「咳と熱を抑えるものです」


「それだけ?」


「それだけではありません」


「何が入ってる?」


英が華を見る。


「診療中です」


「あ、ごめん」


華は下がった。


五条が腕を組んでいる。


「珍しいな」


「何が」


「お前が言われて引くとは」


「患者いるから」


「なるほど」


華は再び英を見る。


何者だ。


この人。


     ◇


一刻ほど経った。


少年の熱はまだ高い。


だが呼吸は少し落ち着いた。


母親が泣きながら頭を下げる。


「ありがとうございます」


英は首を振る。


「まだ安心はできません」


「はい」


「今夜が一番大切です」


すみれへ目を向ける。


「私は残ります」


「私も」


「当然です」


華が口を挟む。


「俺たちも残る」


五条がすぐに言った。


「残らない」


「何で?」


「都へ向かう途中だ」


「夜になった」


「だから宿へ移る」


「この村に宿ある?」


五条が黙る。


ない。


華が勝った。


「ここに泊まればいい」


「お前は何でも首を突っ込むな」


「人が死にそうなのに寝られる?」


五条が華を見る。


それから英を見る。


「先生」


「何でしょう」


「こいつを働かせてください」


「え?」


「暇だと余計なことをする」


英は少し考えた。


「では水を汲んでください」


華が五条を見る。


「俺だけ?」


「患者を助けたいのだろう」


「五条も」


「俺は護衛だ」


英が言った。


「では五条様は薪を」


五条が固まった。


華は笑った。


「護衛、頑張れ」


「後で覚えていろ」


結局。


二人とも働いた。


     ◇


夜。


村は静かだった。


少年の熱は少し下がった。


すみれが交代で看病している。


華は家の外に座っていた。


月。


山。


虫の声。


都へ向かっていることを忘れそうになる。


「眠れないのですか」


声。


英だった。


華は横を見る。


昼と同じ地味な姿。


そばかす。


髪も簡単に結んでいる。


「先生こそ」


「慣れています」


「患者のそばにずっといるの?」


「必要なら」


英が少し離れたところに座った。


「左腕を見せてください」


華は腕を見る。


「大丈夫」


「医者に対して患者が決めることではありません」


「患者じゃない」


「傷があります」


「…………」


華は腕を差し出した。


英が布を解く。


傷を見る。


眉が僅かに動く。


「刀傷ですね」


華は答えない。


「盗賊?」


「そんなところ」


「十二人ほど?」


華の顔が上がった。


英は傷を見ている。


「なぜ十二人?」


「すみれから聞きました」


「いつ?」


「先ほど」


なるほど。


しかし。


「何で俺がその人だって分かった?」


英の手が止まった。


「橘華と名乗りました」


「それだけで?」


「高野山から都へ向かう太政大臣の御子息が、道中で襲われたという話は早いです」


「こんな村まで?」


「街道では噂になります」


もっともらしい。


だが。


華は英の横顔を見る。


「先生」


「何でしょう」


「俺のこと知ってた?」


「先ほど初めてお会いしました」


「名前は?」


「存じておりました」


「太政大臣の息子だから?」


「それもあります」


それも。


華は聞き逃さない。


「他には?」


英が華を見る。


「質問が多いですね」


「よく言われる」


「誰に?」


「オジィ」


英が少し笑った。


その笑い方。


華はまた違和感を覚えた。


田舎の町医者ではない。


言葉遣い。


姿勢。


目線。


どれも少しずつ違う。


「先生」


「はい」


「本当に町医者?」


英の指が一瞬止まる。


すぐに動く。


「町で医者をしております」


「それ答えになってない」


「何を聞きたいのです」


「出身」


「京です」


「家は?」


「普通の家です」


嘘。


華はそう思った。


「姓は?」


英が華を見る。


「必要ですか」


「名前聞いたら普通聞く」


「英で十分です」


「何か隠してる?」


「人には皆、隠したいことがあります」


「先生にも?」


「当然です」


華は少し考えた。


「じゃあいいや」


英が意外そうに見る。


「聞かないのですか」


「先生が俺を殺そうとしてないなら」


「随分低い基準ですね」


「昨日十二人に殺されかけたから」


英が黙った。


そして傷へ薬を塗る。


「痛っ」


「我慢してください」


「何これ」


「薬草を酒で漬けたものです」


華が匂いを嗅ぐ。


酒精。


消毒効果は多少ある。


「煮沸した水と酒……」


華が呟く。


英の目が動く。


「何ですか」


「いや」


華は英を見る。


「先生、誰に医術習ったの?」


「師がおります」


「京の医者?」


「はい」


「有名?」


「人によります」


また曖昧。


「すみれさんのお父さん?」


今度は英が完全に止まった。


華は確信する。


「当たり?」


「すみれから聞きましたか」


「聞いてない」


「ではなぜ」


「すみれさんの薬の扱いが慣れてるから」


華は説明する。


「ただの助手じゃない。薬草の場所を全部知ってるし、先生が何も言わなくても次に必要な物を出す」


英は黙る。


「それに先生より年上」


「それは関係ありません」


「ある。先生が一人で医術を学んだなら、あれだけ息が合うのは変だろ」


「長く一緒におりますので」


「なら家族ぐるみかなって」


英は華をじっと見る。


「怖い方ですね」


「何が?」


「人を見すぎます」


華は少し笑う。


「オジィにも言われた」


英は傷を包み直す。


「終わりました」


「ありがとう」


「明日もう一度見ます」


「明日?」


「私はこの子の熱が下がるまでここにおります」


「じゃあ俺たちも明日までいる」


「華」


後ろから五条。


いつからいた。


「盗み聞き?」


「護衛だ」


「便利な言葉だな」


五条は英を見る。


「明朝出る」


「俺は?」


「連れていく」


「嫌だって言ったら?」


「担ぐ」


本気だ。


華はため息をついた。


英が少し笑った。


「仲が良いのですね」


「どこが?」


「どこが?」


華と五条が同時に言った。


また重なった。


英の笑みが少し大きくなった。


     ◇


深夜。


華は眠っていた。


五条は起きていた。


家の外。


月明かり。


小さな音。


五条の目が開く。


誰かが動いた。


村の北。


一人。


いや。


二人。


五条は静かに立ち上がる。


華を起こさない。


刀へ手をかけた。


「お待ちください」


背後から声。


すみれだった。


五条は振り返らない。


「気づいていたか」


「はい」


「何人」


「二人」


同じ。


五条がすみれを見る。


昼間とは違う。


姿勢。


目。


完全に護衛の顔だ。


「何者だ」


五条が聞く。


「ただの侍女です」


「嘘をつけ」


「五条様ほどではございません」


「俺を知っている?」


すみれが黙った。


その沈黙で十分だった。


五条の右手が僅かに刀へ近づく。


「誰だ、お前たちは」


「今はお答えできません」


「なら敵と判断する」


すみれの顔から笑みが消える。


「それは困ります」


「なぜ」


「華様を守りたいのは、こちらも同じです」


五条の目が細くなる。


「何?」


その瞬間。


遠くで枝が折れた。


二人とも振り向く。


「話は後です」


すみれが袖から短い棒状のものを出す。


五条が見る。


鉄扇。


「侍女が持つ物ではないな」


「最近の侍女は物騒なのでございます」


「華と同じことを言う」


すみれが僅かに笑う。


「それは困りますね」


二人は闇へ消えた。


     ◇


村外れ。


二人の男が木陰にいた。


「動かないな」


「明朝まで待つ」


「命令では、今夜中に確認しろと」


「確認だけだ」


「殺さなくていいのか」


「二度目は別の者がやる」


その瞬間。


声。


「誰が?」


男たちが振り返る。


五条。


同時に。


後ろにはすみれ。


男たちが刀を抜く。


「一人ずつ」


五条が言う。


「承知しました」


すみれが答える。


「殺すな」


「分かっております」


男が五条へ斬りかかる。


遅い。


五条は腕を取る。


捻る。


骨が鳴る。


男が叫ぶ前に腹へ膝。


倒れる。


もう一人。


すみれへ。


刀。


すみれは避ける。


鉄扇が開く。


刃を受け流す。


手首。


喉。


膝。


三ヶ所を連続で打つ。


男が崩れた。


五条が見る。


「侍女?」


「はい」


「どこの家に、そんな侍女がいる」


すみれが微笑む。


「さあ」


五条は倒れた男の胸元を探る。


紙。


印はない。


「こいつらは昨日とは別口だ」


すみれが言う。


「そうでしょうね」


「分かるのか」


「装備が違います」


五条も確認する。


確かに。


刀。


衣。


履物。


昨日とは違う。


つまり。


華の読みが当たった。


予定の街道を外れたのに。


翌日には追跡者が現れた。


こちらの位置を把握している。


五条の顔が険しくなる。


「情報が早すぎる」


「はい」


「誰かが見ている」


「最初から」


すみれが答えた。


五条が彼女を見る。


「何を知っている」


すみれは少しだけ黙った。


「華様が都へ戻れば」


「戻れば?」


「多くの方が困るということだけです」


「誰が」


「それを知るために、あなたもいるのでしょう」


五条は答えなかった。


すみれもそれ以上言わない。


地面には二人の男。


生きている。


今回は。


捕虜だ。


     ◇


翌朝。


華が起きると。


五条とすみれが並んで座っていた。


その前には縛られた男が二人。


「…………」


華はしばらく見た。


「何これ」


五条が答える。


「拾った」


「人間を?」


「夜に落ちていた」


「嘘つけ」


すみれが顔を背ける。


笑っている。


英は呆れた顔。


「夜中に華様を探っていた方々です」


「先生、普通に説明するんだ」


「五条様の説明では進みませんので」


華は男たちを見る。


「昨日の刺客?」


「違う」


五条が答える。


「装備が別系統だ」


華の眠気が一気に消えた。


「いつ来た?」


「夜半」


「俺たちが街道外れたのに?」


「ああ」


華は黙る。


昨日、自分が考えたこと。


もし街道を外れてもすぐ襲われるなら。


相手はこちらの動きを追跡している。


「これ」


華が男たちを見る。


「かなりまずいね」


五条が頷いた。


「そうだ」


「誰かが俺たちを見てる」


「あるいは」


英が口を開いた。


「行く先々に、すでに目がある」


華は英を見る。


「どういう意味?」


「一人の尾行者を探す必要はありません」


英は静かに言う。


「各村、各宿、関所、寺」


「そこに情報を集める人がいる?」


「可能性です」


華は考える。


ネットワーク。


一人が追うのではない。


各所から情報が上がる仕組み。


それなら速い。


前世なら珍しくない。


だが。


この世界で。


そこまで組織化された情報網を持てるのは――。


「皇帝?」


華が呟いた。


部屋の空気が止まった。


五条の目が変わる。


英も。


すみれも。


華は三人を見る。


「何、その顔」


誰も答えない。


「皇帝なら国内に情報網くらい持ってるだろ」


五条が言う。


「口に気をつけろ」


「可能性の話」


「それでもだ」


華は男たちを見る。


そして。


妙なことに気づいた。


一人の手。


指。


墨。


「この人」


華が近づく。


「字を書く仕事してる?」


男が顔を逸らす。


華は手を取る。


右手。


中指に硬い跡。


筆を長時間持つ人間にできる。


「役人?」


反応。


ほんの一瞬。


五条が気づく。


すみれも。


華は笑わなかった。


「面白くなってきた」


五条が言う。


「お前はこういう時に笑うな」


「笑ってない」


「目が笑ってる」


「だって」


華は捕虜を見る。


「昨日は刺客」


一人。


「今日は役人っぽい監視役」


二人。


「まだ都にも着いてない」


華は立ち上がる。


「俺、父上に会うだけじゃ済まない気がする」


五条は答えない。


英も。


すみれも。


全員。


同じことを思っていた。


     ◇


都。


皇宮。


吉田司は皇帝の横で上奏文を整理していた。


「次」


「東昇国より使節派遣について」


「後だ」


「御意」


吉田が別の文書を取る。


そこへ小姓が入る。


吉田へ耳打ち。


吉田の顔は変わらない。


「陛下」


「何だ」


「橘華様が予定の街道を外れられました」


大和武尊の筆が止まる。


「理由は」


「第一の襲撃を警戒したものと思われます」


「そうか」


皇帝は再び書く。


吉田は続ける。


「昨夜、別の二名が華様の滞在先を探ったとの報告もございます」


今度は。


皇帝の筆が完全に止まった。


「誰の者だ」


「確認中にございます」


「蔵人所は」


「源義弘殿がすでに動いております」


皇帝はしばらく黙る。


「吉田」


「はい」


「お前なら」


皇帝が顔を上げた。


「十四歳で十二人に襲われ、その翌日に監視まで付いたらどうする」


吉田は少し考える。


「逃げます」


皇帝の眉が動く。


「お前が?」


「命は一つですので」


「三人くらいなら素手で殺せるだろう」


「三人でございます」


吉田は真顔で答える。


「十二人は多すぎます」


皇帝が僅かに笑った。


「では華はどうする」


「私には分かりません」


「そうか」


「ただ」


吉田が言った。


「普通に都へ来るとは思えません」


皇帝は笑みを消した。


「私もだ」


そして命じる。


「手を出すな」


「どなたに対してでしょう」


「全員だ」


吉田の目が僅かに動く。


「華を殺そうとする者にも?」


「そうだ」


「よろしいので」


「見たい」


皇帝は窓の外を見る。


「誰があれを殺そうとしているのか」


一拍。


「そして」


皇帝の目が細くなる。


「あれが、どう生き残るのかを」


     ◇


一方。


雅山大公主邸。


平司は信じられない顔で報告を聞いていた。


「捕まった?」


「はい」


「誰が」


「監視に出した二名が」


司が立ち上がる。


「馬鹿な」


「五条だけではございません」


「何?」


報告役が躊躇する。


「女が一人」


「女?」


「町医者に同行していた女でございます」


司の目が細くなる。


「名前は」


「すみれ、と」


その瞬間。


司の顔色が僅かに変わった。


「……すみれ?」


知っている。


平家。


英姫の侍女。


なぜ。


華と一緒にいる。


「町医者は」


「英と名乗っております」


司の表情が止まった。


英。


その名も知っている。


もちろん。


本当の意味までは知らない。


だが。


妹が時折屋敷を離れる。


そのとき、すみれも消える。


「まさか……」


司が呟く。


そこへ雅山が入ってきた。


「どうしたの?」


司は振り返る。


「予定を変更します」


「何を」


「華を」


司の目に殺意が浮かぶ。


「都へ入る前に殺します」


雅山は司を見つめる。


「急にどうしたの」


司は答えなかった。


もし。


妹が華と接触したのなら。


父も関与している可能性がある。


藤宮も。


そして。


華が平家に入れば。


自分の計画が狂う。


司はまだ知らない。


自分が今。


最も恐れるべき相手は華ではないことを。


下半身不随のはずの兄が。


すでに自分の動きを追っていることを。


第五話 英先生 了

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