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九龍の華 ―死んだはずの大学生、平安の世で天下を読む―』  作者: あめのひくもり


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第三話 最初の刺客

血の臭いを、華は初めて知った。


鉄に似ている。


そう表現した本を読んだことがある。


確かに似ていた。


だが実際に嗅いでみれば、そんな簡単なものではない。


生温かい。


濃い。


そして何より――。


これは人間の中から出てきたものだ。


「くそっ!」


男が叫ぶ。


華が斬った手首を押さえながら後退する。


血が指の間から流れている。


華は刀を握った。


手が震えていた。


怖い。


それでも、頭だけは妙に冷静だった。


十二人。


五条が三人を倒した。


自分が二人。


残り七人。


いや。


違う。


弓が二人いる。


前衛五人。


後衛二人。


距離。


地形。


木。


岩。


逃げ道。


華の頭の中で、周囲の情報が勝手に整理されていく。


「華!」


五条の声。


左。


華は考えるより先に動いた。


刀が振り下ろされる。


半歩下がる。


刃先が鼻先を掠めた。


華は相手の手を見る。


両手。


力が入りすぎている。


次は横。


予測した瞬間、男の腰が動いた。


やはり。


華は踏み込んだ。


刀を振らせる前に柄頭を男の顎へ叩き込む。


鈍い音。


男の身体が仰け反る。


そこへ膝。


腹。


男が崩れた。


華は刀を首へ――。


止めた。


殺す必要はない。


そう判断した瞬間だった。


倒れた男の右手が懐へ入った。


何か光る。


短刀。


「――っ!」


華は反射的に刀を振った。


肉を斬る感触。


男の首から血が噴き出した。


目が合った。


男の口が動く。


声は出ない。


そのまま倒れた。


華は動けなかった。


「…………」


人を。


殺した。


自分が。


ほんの数秒前まで生きていた人間を。


「華!」


五条の怒声。


矢。


華は我に返った。


身体を横へ投げる。


矢が木に突き刺さる。


考えるのは後だ。


今は生きる。


華は立ち上がった。


     ◇


五条は強かった。


強いとは分かっていた。


だが。


想像以上だった。


二人が同時に斬りかかる。


五条は一人目の刀を受けない。


身体を僅かにずらす。


刃を避けながら相手の懐へ入る。


肘。


喉。


男が崩れる。


その身体を掴んで二人目へぶつける。


体勢が崩れたところへ刀の峰を叩き込む。


一瞬。


二人。


華は思った。


――十人程度。


五条はそう言った。


あれは謙遜だったのではないか。


「見るな!」


五条が言う。


「自分の相手を見ろ!」


分かってる。


華の正面。


槍を持った男。


間合いでは不利。


華は後退した。


男が追う。


一歩。


二歩。


三歩。


華はわざと木の近くへ移動する。


槍が突き出された。


避ける。


もう一度。


避ける。


男が苛立った。


「逃げるだけか!」


華は答えない。


さらに下がる。


背後は木。


逃げ場がなくなった。


男が笑った。


槍。


真っ直ぐ。


華はぎりぎりまで動かなかった。


そして。


横へ。


槍の穂先が木へ突き刺さる。


男が引こうとする。


抜けない。


一瞬。


それで十分だった。


華が踏み込む。


柄を斬る。


槍が折れる。


そのまま男の肩へ刀を振り下ろした。


「ぐあっ!」


倒れる。


華は喉元に刀を突きつけた。


「動くな」


男が睨む。


「殺せ」


「嫌だ」


「何?」


「聞きたいことがある」


「何も話さん」


「じゃあ後で考える」


華は男のこめかみを柄で打った。


気絶。


これで一人。


生け捕り。


     ◇


「五条!」


「何だ!」


「殺しすぎ!」


五条の動きが一瞬止まった。


「は?」


「一人残して!」


「戦っている最中に注文を増やすな!」


「黒幕聞けなくなるだろ!」


「先に言え!」


確かに。


華は反省した。


次からは最初に言おう。


――次?


また襲われる前提になっている自分に少し嫌になる。


残り。


五人。


弓二人。


刀三人。


そのうち一人が叫んだ。


「退け!」


逃げる。


五条が追おうとする。


「待って!」


華が止めた。


「なぜだ」


「追わなくていい」


「逃げるぞ」


「逃がす」


五条が華を見る。


「何を考えている」


華は逃げる男たちの背中を見る。


「帰る場所があるなら、帰ってもらった方がいい」


五条の目が細くなった。


「尾行するつもりか」


「今からじゃ無理」


「なら何の意味がある」


華は地面を見る。


「次に分かる」


「何が」


「この人たちが本当に刺客なのか」


五条は少し考えた。


「どういう意味だ」


「俺たちを殺すことだけが目的なら、失敗した時点で逃げればいい」


「そうだな」


「でも、別の目的があるなら?」


「例えば」


華は倒れている男を見る。


「俺たちがどの道を通るか確認すること」


五条の表情が変わった。


「次の襲撃のためか」


「分からない」


華は正直に答えた。


「だから確かめる」


五条はしばらく華を見ていた。


「お前」


「何?」


「本当に十四か」


「失礼だな」


「褒めていない」


「なら聞くな」


そのとき。


五条が突然振り返った。


逃げていた男の一人が弓を拾った。


こちらではない。


狙っているのは――。


地面。


気絶している仲間。


「まずい!」


五条が動く。


矢が放たれた。


華も走る。


間に合わない。


矢が刺さった。


生け捕りにした男の胸へ。


「――!」


男の身体が跳ねる。


五条が弓兵へ迫る。


一閃。


弓が飛ぶ。


だが弓兵は笑った。


次の瞬間。


口から血を流した。


「五条!」


五条が男の顎を掴む。


遅い。


男の身体から力が抜けた。


毒。


華にも分かった。


「自害か」


五条が男を地面へ置く。


残った刺客たちは逃げていた。


追わない。


二人は倒れた男を見る。


生け捕りにしたはずの男。


胸に矢。


まだ息はある。


だが浅い。


華は膝をついた。


「助けられる?」


五条が傷を見る。


「無理だ」


「まだ生きてる」


「肺まで入っている」


華は男の胸を見る。


矢を抜けば出血が増える。


抜かなくても呼吸ができない。


現代なら。


胸腔ドレナージ。


輸血。


手術。


抗生物質。


頭に方法はいくらでも浮かぶ。


だが。


ここには何もない。


「くそ……」


華は男の手首を取った。


脈。


弱い。


「誰に頼まれた?」


男の瞼が動いた。


「聞こえる?」


口が僅かに開く。


華は顔を近づけた。


「……都……」


「都?」


「……戻る、な……」


「誰だ?」


男が何か言おうとする。


声にならない。


「誰が俺を殺せと言った?」


男の目が華を見る。


恐怖。


刺客が。


華ではない何かを恐れている。


「……姫……」


華の眉が動いた。


「姫?」


その瞬間。


男の身体が痙攣した。


そして。


動かなくなった。


「…………」


華は手を離した。


姫。


それだけ。


     ◇


戦いが終わった。


十二人のうち。


死亡六人。


重傷三人。


逃亡三人。


五条は軽傷。


華も左腕を浅く斬られた程度。


華は木の根元に座っていた。


刀が横に置いてある。


血がついている。


自分が殺した男の血。


見たくない。


だが目を逸らすのも違う気がした。


五条が隣へ来た。


「吐くなら吐け」


「吐かない」


「我慢する必要はない」


「我慢してない」


言った直後。


華は横を向いて吐いた。


五条は何も言わなかった。


しばらくして。


華は口を拭いた。


「最悪」


「そうだな」


「笑わないんだ」


「何が面白い」


華は五条を見る。


「初めて人を殺して吐いた」


「普通だ」


「五条も?」


「ああ」


「いつ?」


「昔だ」


「何歳?」


「忘れた」


嘘だと思った。


だが聞かなかった。


華は血のついた刀を見る。


「俺」


「何だ」


「殺さなくてもよかったのかな」


五条はすぐには答えなかった。


「分からん」


華が顔を上げる。


意外な答えだった。


「そこは『殺さなければお前が死んでいた』とか言うところじゃない?」


「そうかもしれない」


「かもしれない?」


「殺さずに済んだ可能性もある」


五条は淡々と言う。


「だが、その答えは誰にも分からん」


「…………」


「だから覚えておけ」


五条が華を見る。


「自分が殺したことを正当化しすぎるな」


華は黙った。


「だが、必要以上に自分を責めるな」


「難しいな」


「人を殺すとは、そういうことだ」


この男。


思っていたよりまともかもしれない。


「五条」


「何だ」


「ありがとう」


「気持ち悪い」


前言撤回。


やっぱり嫌いだ。


     ◇


華は立ち上がった。


「調べよう」


「何を」


「死体」


五条が華を見る。


「平気なのか」


「平気じゃない」


「なら休め」


「平気になるまで待ってたら証拠が消える」


雨でも降れば終わりだ。


華は一人ずつ調べた。


衣服。


武器。


履物。


身体。


持ち物。


貨幣。


食料。


何もない。


身元を示すものは徹底して排除されている。


「慣れてる」


華が言う。


「何が」


「普通の盗賊じゃない」


「当然だ」


「武器も揃ってる」


刀の形。


矢。


槍。


規格が近い。


「軍?」


「断定するな」


五条が言った。


「盗品かもしれない」


「確かに」


華は頷いた。


思い込みは危険だ。


説庵にも散々言われた。


華は最初に斬った男の懐を調べた。


何もない。


次。


何もない。


三人目。


「ん?」


指に何か触れた。


衣の裏。


縫い目。


不自然に厚い。


華は小刀で糸を切った。


中から小さな紙が出てきた。


「五条」


広げる。


文字はない。


代わりに。


小さな紋。


花。


五枚の花弁。


「何これ」


五条の顔つきが変わった。


「見せろ」


紙を取る。


「知ってる?」


五条は答えない。


「五条」


「都で使われる印だ」


「誰の?」


沈黙。


「言って」


五条が華を見る。


「大公主家」


「大公主?」


「皇帝陛下の妹君だ」


華の表情が変わった。


皇帝の妹。


なぜそんな人物が自分を殺す。


「雅山大公主?」


「知っているのか」


「名前だけ」


高野山でも皇族の系譜くらいは学んでいる。


雅山大公主。


皇帝・大和武尊の妹。


宮廷内に大きな影響力を持つ皇族。


「これで決まり?」


華が聞く。


「何が」


「大公主が黒幕」


五条は即答した。


「違う」


「どうして?」


「証拠が分かりやすすぎる」


華は紙を見る。


確かに。


刺客が身元を隠しているのに、黒幕を示す印だけ持っている。


不自然だ。


「誰かが大公主に罪を着せたい?」


「それも分からん」


「本当に大公主がやって、わざと偽物に見せてる可能性もある」


五条が華を見る。


「面倒な考え方をするな」


「オジィ仕込み」


「納得した」


つまり。


何も分からない。


分かったのは一つだけ。


都へ行けば。


面倒なことになる。


     ◇


同じ頃。


九龍国の都。


蔵人所。


「失敗しました」


報告を受けた男は、書類から顔を上げなかった。


五十代。


細身。


鋭い目。


派手さはない。


だが部屋にいる役人たちは誰一人として私語をしない。


源義弘。


蔵人頭。


宮中の文書・機密に深く関わり、九龍国の治安・情報組織にも大きな影響力を持つ男。


かつて橘優希の護衛兼助手として動いていた人物でもある。


「死者は」


「六名」


「華様は」


「軽傷とのこと」


そこで初めて義弘の手が止まった。


「そうか」


安堵したようには見えない。


「五条が同行しております」


「五条がいて軽傷を負わせたのなら、相手も素人ではない」


「はい」


「生存者は」


「三名逃走」


義弘が顔を上げる。


「追え」


「すでに」


「殺すな」


「承知しております」


役人が退出しようとする。


「待て」


「はっ」


「大公主家の印は」


役人の顔が変わった。


「……発見されたようです」


義弘は目を閉じた。


「やはりか」


「ご存じだったのですか」


「いや」


義弘は立ち上がった。


窓の外。


皇宮の屋根が見える。


「分かりやすすぎる」


華と同じ結論だった。


「大公主様ではないと?」


「そうは言っていない」


義弘が振り返る。


「雅山様なら、自分の印を持たせるほど愚かではない」


「では偽物……」


「それも早い」


義弘の声が低くなる。


「都ではな、真実を隠すために嘘を置く者がいる」


一歩。


「その嘘を見破らせるために、さらに嘘を置く者もいる」


もう一歩。


「そして最も厄介なのは――」


義弘が机上の報告書を取った。


「真実そのものを、嘘に見せる者だ」


役人は黙った。


「華様の経路を変更する」


「どちらへ」


「こちらでは決めない」


「では」


義弘の口元が僅かに動いた。


「本人に決めさせろ」


「十四歳の少年にですか?」


「だからだ」


義弘は華の報告書を見る。


「優希様の子なら、どう動くか見てみたい」


     ◇


同じ都。


関白・平岳邸。


庭に面した部屋に、一人の青年が座っていた。


年齢は二十一。


整った顔。


静かな目。


そして。


腰から下には厚い掛物。


隣には、移動用の輿椅子が置かれている。


青年の名は、


平藤宮。


関白・平岳の長男。


かつて史上最年少級の若さで近衛大将に任じられた、文武両道の天才。


一年前。


事故によって下半身の自由を失った。


今では表舞台から退いている。


「若様」


障子の向こうから声。


「入れ」


男が入ってくる。


平伏。


「高野山からの一行が襲撃を受けました」


藤宮は本を読み続けている。


「結果は」


「橘華、生存」


頁をめくる指が止まった。


「負傷は」


「軽傷」


「五条は」


「同じく」


「そうか」


それだけ。


男が続ける。


「刺客十二。六名死亡、三名重傷、三名逃走とのこと」


「重傷者は」


「その後、二名死亡。一名は――」


「口封じされたか」


男が顔を上げた。


「なぜ」


「十二人も送り込んでおきながら、捕虜対策をしない者はいない」


藤宮は本を閉じた。


「華は何か見つけたか」


「大公主家の印を」


藤宮が笑った。


「随分親切な刺客だ」


「やはり偽物でしょうか」


「さあな」


藤宮は庭を見る。


「雅山様は、偽物だと思わせるためなら本物を置く女だ」


「では……」


「決めつけるな」


藤宮の声が鋭くなる。


「決めつけた瞬間から、相手の思う壺だ」


「申し訳ございません」


「それより」


藤宮が男を見る。


「参議は今日どこにいる」


男が僅かに躊躇した。


参議。


平家でそう呼ばれる人物は一人。


藤宮の弟。


平司。


「朝より登朝されております」


「帰邸は」


「まだ」


「そうか」


藤宮は再び本を開いた。


「引き続き見ておけ」


「参議様を、でございますか」


藤宮は答えない。


男は頭を下げ、退出した。


静かになった。


藤宮はしばらく本を読んでいた。


やがて。


本を置く。


左右を見る。


誰もいない。


藤宮の手が床についた。


そして――。


ゆっくりと立ち上がった。


下半身不随。


そう言われている男が。


自分の足で。


何事もなかったように庭へ歩いていく。


「橘華……」


藤宮が呟いた。


「お前は何者だ」


返事はない。


春の風だけが庭を通り抜けた。


     ◇


さらにその頃。


皇宮。


皇帝・大和武尊の御前には、山のような上奏文が積まれていた。


「次」


皇帝が言った。


小太りの男が一通を取る。


「海陸国より、今年度の貢納についての上奏にございます」


吉田司。


皇帝付きの侍従。


小太り。


丸い顔。


どこにでもいそうな冴えない中年男。


武人には到底見えない。


吉田は上奏文を開いた。


「昨冬の不作により、予定されていた米穀の納入について二割の減免を願いたいとのことでございます」


「却下」


「承知いたしました」


「ただし一年延納を認める」


吉田の目が僅かに動く。


「御意」


次の上奏文。


そのとき。


外から別の侍従が入った。


吉田に小さな紙を渡す。


吉田が読む。


表情は変わらない。


「何だ」


皇帝が聞いた。


「高野山より都へ向かわれている橘華様が、道中で賊徒の襲撃を受けられたとのことにございます」


皇帝の筆が止まった。


ほんの一瞬。


「死んだか」


「いいえ」


吉田が答える。


「ご無事にございます」


皇帝は再び筆を動かした。


「そうか」


それだけ。


吉田は頭を下げる。


だが。


長年この男に仕えている吉田だけは知っていた。


皇帝が今。


ほんの僅かに――。


安堵したことを。


第三話 最初の刺客 了

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