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九龍の華 ―死んだはずの大学生、平安の世で天下を読む―』  作者: あめのひくもり


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2/21

第二話 高野山を下りる

十四歳の春。


橘華は、十三年以上を過ごした高野山を下りることになった。


理由は簡単だった。


父が呼んだからだ。


――橘秀逸。


九龍国の太政大臣。


華にとっては、血のつながった父として教えられてきた男である。


だが、華には父と暮らした記憶がない。


顔すら知らない。


物心がついたときには、すでに高野山にいた。


だから華にとって橘秀逸とは、父というより、


「まだ見ぬ父」


だった。


     ◇


「オジィ」


「なんじゃ」


「俺、何を持っていけばいい?」


「命」


「荷物の話」


「ならば頭」


「それも持ってる」


「本当に入っておるのか?」


「十三年間育てた人がそれ言う?」


説庵大僧正は鼻を鳴らした。


高野山の奥。


華が暮らしてきた小さな庵。


部屋の中には衣類、書物、薬草、刀、旅道具が並んでいる。


華は腕を組んだ。


「全部持っていく?」


「馬鹿者」


説庵が書物の山を指した。


「都まで担いでいくつもりか」


「読みたい」


「全部読んだじゃろう」


「忘れたとき困る」


説庵の眉間に皺が寄った。


「お前がそれを言うか」


確かに。


華は一度読んだ文章を、ほとんど忘れない。


前世からそうだった。


だが、この身体になってから、その能力はさらに異常になっている。


文章だけではない。


人の顔。


声。


地図。


数字。


一度意識して覚えたものなら、かなり正確に再現できる。


だから説庵からは何度も言われていた。


――人前で見せるな。


少し優秀な人間は重宝される。


非常に優秀な人間は警戒される。


理解できないほど優秀な人間は恐れられる。


母・優希について話したときにも、説庵は似たことを言った。


その言葉が妙に心に残っている。


「じゃあ三冊」


「一冊」


「二冊」


「一冊」


「間を取って二冊」


「どこが間じゃ」


結局、二冊になった。


説庵は甘い。


     ◇


荷造りが終わった頃。


庵の外から足音がした。


一人。


かなり軽い。


華は無意識に入口を見る。


説庵は茶を飲んでいる。


「客?」


「お前のじゃ」


「俺?」


「入れ」


説庵が言う。


戸が開いた。


男が入ってきた。


若い。


二十代に見える。


黒を基調とした動きやすそうな衣。


腰に刀。


そして最も目立つのは顔だった。


いや。


正確には、顔が見えない。


鼻から下を黒い布で覆っている。


華はしばらく男を見た。


男も華を見る。


沈黙。


華が説庵を見る。


「オジィ」


「なんじゃ」


「怪しい人が来た」


「本人の前で言うな」


男の眉が僅かに動いた。


「だって怪しいだろ」


華は男を指した。


「顔を隠して、刀持って、無言で入ってきた」


「確かに怪しいの」


「大僧正様」


男が初めて口を開いた。


低い声。


説庵が笑った。


「五条。こやつが華じゃ」


五条。


それが男の名らしい。


「橘華です」


「知っている」


「じゃあ、あなたは?」


「五条」


「姓は?」


「五条」


「名前は?」


「五条」


華は説庵を見る。


「会話にならない」


「慣れろ」


「嫌だよ」


五条が無言で華を見る。


華も見る。


何となく気に入らない。


それ以上に――。


強い。


華には分かった。


立っているだけなのに重心がほとんど揺れていない。


両腕は自然に下がっている。


だが、どの方向から攻撃しても対応できる位置だ。


説庵ほどではない。


それでも、今まで華が相手をしてきた僧兵とは明らかに違う。


華は尋ねた。


「この人、何者?」


「お前の護衛じゃ」


「俺の?」


「都までついていく」


「必要ない」


五条が言った。


「同感だ」


華は五条を見た。


「じゃあ帰れば?」


「命令だから無理だ」


「誰の?」


五条は答えない。


華が説庵を見る。


「オジィ?」


「わしじゃ」


「なら取り消して」


「断る」


即答だった。


「俺、一人でも行けるよ」


「そうじゃな」


意外な返事だった。


「なら――」


「五人程度ならな」


華は黙った。


五条がこちらを見る。


「聞いている」


「何を?」


「お前は五人程度なら同時に相手ができると」


「オジィ!」


説庵は茶を飲んでいる。


「個人情報だろ!」


「こじんじょうほう?」


しまった。


また前世の言葉が出た。


説庵の目が細くなる。


華は咳払いした。


「……秘密ってこと」


「お前は時々、妙な言葉を使うの」


「高野山の方言」


「わしは何十年ここにおると思っておる」


失敗した。


五条が華を見る。


「本当に五人殺せるのか」


空気が変わった。


華は答えなかった。


五人に勝てる。


それと、


五人を殺せる。


同じではない。


説庵との修行では何百回も死ぬ想定で戦った。


僧兵を相手に複数戦も経験した。


だが――。


華はまだ、人を殺したことがない。


「分からない」


正直に答えた。


五条の目が僅かに変わった。


「意外だな」


「何が?」


「できると言うと思った」


「やったことないから」


五条は何も言わなかった。


説庵だけが僅かに笑った。


     ◇


翌朝。


華は五条と手合わせすることになった。


理由は五条が、


「護衛する人間の力量を知っておきたい」


と言ったからだ。


華としても異論はない。


むしろ好都合だった。


五条がどの程度なのか知りたかった。


寺の裏手にある修練場。


二人とも木刀。


説庵は縁側で茶を飲んでいる。


「始めていい?」


「いつでも」


五条は構えない。


木刀を右手に持っているだけ。


腹が立つ。


華は息を整えた。


正面から行く。


一歩。


二歩。


三歩目で加速。


五条の右肩へ打ち込む。


避ける。


予想通り。


華は手首を返した。


胴。


五条の木刀が下から上がる。


弾かれる。


華は逆らわない。


弾かれた勢いを利用して回転。


首。


ぱしっ。


止められた。


近い。


華は左手を木刀から離す。


五条の胸を押す。


同時に足払い。


五条の重心が僅かに崩れた。


――取った。


そう思った。


次の瞬間。


空が見えた。


「え?」


背中から落ちる。


肺から空気が抜けた。


木刀が喉元にある。


五条が見下ろしていた。


「死んだ」


聞き覚えのある言葉。


華は説庵を見る。


老人が楽しそうに茶を飲んでいる。


「似た者同士だな」


「誰と誰が?」


「お前とオジィ」


「一緒にするな」


説庵が笑った。


華は立ち上がる。


「もう一回」


「いいだろう」


二回目。


負けた。


三回目。


負けた。


四回目。


五条の袖を木刀が掠めた。


五回目。


華は五条の左腕を取った。


その代わり首筋に木刀を当てられた。


相討ち。


「今のは?」


華が聞く。


「俺は死ぬ」


五条が答える。


「俺も?」


「死ぬ」


「じゃあ引き分け」


「護衛対象が死んだら俺の負けだ」


なるほど。


華は少しだけ、この男が気に入った。


「五条」


「何だ」


「何人までいける?」


「相手による」


「普通の兵なら?」


五条は少し考える。


「十人程度」


「武器あり?」


「当然」


「素手なら?」


「減る」


「何人?」


「試したことがない」


華は笑った。


「俺と同じじゃん」


五条は答えなかった。


ただ。


面布の上の目が、少しだけ笑ったように見えた。


     ◇


出発前夜。


華は説庵の部屋を訪れた。


「入れ」


「まだ何も言ってない」


「お前の足音くらい分かる」


「消してるんだけど」


「十年早い」


いつものやり取り。


華は説庵の向かいに座った。


「オジィ」


「なんじゃ」


「父上って、どんな人?」


説庵の手が止まった。


「橘秀逸か」


華にとって、父の名を口にする機会はほとんどない。


九龍国太政大臣。


橘秀逸。


四十三歳。


母・橘優希の夫。


そして華の父。


そう教えられている。


「怖い?」


「怖いぞ」


「本当に?」


「太政大臣じゃからな」


「役職じゃなくて性格」


「それなら、お前よりはまともじゃ」


「比較対象がおかしい」


説庵が笑う。


「頭は切れる。感情より理を優先する。自分にも他人にも厳しい」


「母上とは仲良かった?」


説庵の笑みが少し消えた。


「……ああ」


「どうやって知り合ったの?」


「宮中じゃ」


華は知っている。


母・優希は宮中に官吏として仕えていた。


皇帝の近くで上奏や政策に関わり、現代風に言えば秘書官や政策補佐官に近い役目を担っていたという。


父・秀逸もまた宮中で働いていた。


二人はそこで知り合い、結婚した。


それが華の知る両親の物語だ。


「母上は、どんな人だった?」


「前にも話したじゃろ」


「もっと知りたい」


説庵はしばらく黙っていた。


やがて口を開く。


「恐ろしいほど頭の切れる女子じゃった」


「怖かった?」


「別の意味でな」


「別の意味?」


「誰も疑わぬことを疑った」


説庵は続ける。


「なぜ役所はこの形なのか。なぜ罪人を捕らえた者が、そのまま裁いてよいのか。なぜ地方によって記録方法が違うのか。なぜ皇帝が知るべき情報が途中で消えるのか」


華は黙って聞いた。


「それを一つずつ変えた」


「母上が?」


「優希一人ではない。じゃが、始まりを作ったのはあやつじゃ」


華には以前から疑問があった。


九龍国の行政制度は、この時代としては妙に整理されている。


行政。


司法。


治安。


監察。


それぞれが完全ではないにせよ、ある程度分離されている。


戸籍や税の記録方法も統一されつつある。


誰かが意図的に設計したように見える。


それが母だった。


「どうして母上は、そんなことを知ってたんだろう」


説庵は答えない。


華はさらに聞いた。


「母上は、どうして死んだの?」


沈黙。


「病気?」


説庵は茶を飲む。


「事故?」


答えない。


「……殺された?」


老人の手が止まった。


ほんの一瞬。


だが華は見逃さなかった。


「オジィ」


「華」


声が変わった。


「都へ行けば、お前は様々な話を聞く」


「うん」


「優希を偉人と呼ぶ者もおる」


「うん」


「化け物と呼ぶ者もおる」


華の眉が動く。


「母上を?」


「人間は理解できぬものを恐れる」


以前聞いた言葉だ。


「誰を信じればいい?」


「誰も信じるな」


華は説庵を見る。


「俺にも?」


「自分で調べろ」


説庵が華を見る。


「見て、聞いて、考えろ。その上で自分で決めよ」


「何を?」


「お前の母が何者だったのかを」


華は黙った。


しばらくして、別の質問をする。


「父上なら知ってる?」


「知っておることもあるじゃろう」


「全部じゃない?」


「この世に全部を知っている人間などおらん」


「オジィも?」


「当然じゃ」


嘘だ。


少なくとも、この老人は今話している以上のことを知っている。


だが今日は、それ以上聞かなかった。


     ◇


翌朝。


山門。


荷物は小さな背負い袋一つ。


腰には説庵から与えられた刀。


五条はすでに待っていた。


相変わらず顔を隠している。


「遅い」


「時間通り」


「俺は半刻前からいる」


「それは五条が早いだけ」


「旅では早い方がいい」


「分かったよ」


華は振り返った。


高野山。


十三年以上暮らした場所。


前世の記憶を持つ華にとって、ここは生まれ故郷とは少し違う。


だが。


間違いなく家だった。


説庵が山門の前に立っている。


「オジィ」


「なんじゃ」


「行ってきます」


「うむ」


「それだけ?」


「何を言ってほしい」


「こう……立派になって帰ってこい、とか」


「今以上に生意気になられても困る」


「元気で、とか」


「お前より長生きする」


「百歳超えるよ?」


「望むところじゃ」


華は笑った。


そして頭を下げた。


「ありがとう」


説庵は答えない。


華は頭を上げた。


老人はいつもの顔をしていた。


だが目だけが違う。


「華」


「なに?」


「死ぬな」


短い。


それだけだった。


華は少し笑う。


「一度死んでるから、もういいよ」


説庵の顔から笑みが消えた。


「……そうとは限らん」


「え?」


「何でもない」


老人は手を振った。


「行け」


華は首を傾げる。


だが五条が歩き始めた。


「置いていくぞ」


「護衛が護衛対象を置いていくな!」


華も歩き出した。


一度だけ振り返る。


説庵はまだ立っていた。


その姿が見えなくなるまで。


華は何度も振り返った。


     ◇


高野山を下りて一刻ほど。


五条が突然止まった。


華も足を止める。


「どうした?」


「静かだ」


その一言で華も気づいた。


鳥。


先ほどまで鳴いていた。


今は聞こえない。


風が木々を揺らす音だけ。


華は周囲を見る。


人の気配。


一人。


二人。


右に二人。


左。


後方。


さらに前。


「七人?」


華が小声で言う。


五条が答える。


「十二」


華は眉を寄せた。


自分には七人までしか分からなかった。


「十二か」


「怖いか」


華は少し考えた。


「怖い」


五条がこちらを見る。


「意外だな」


「怖くない奴は馬鹿だろ」


「それもそうだ」


前方の木陰。


男が一人出てきた。


顔を布で隠している。


続いて二人。


左右からも現れる。


後ろ。


完全に囲まれている。


弓が二。


槍が三。


残りは刀。


五条の言った通り十二人。


「橘華殿とお見受けする」


先頭の男が言った。


華は答える。


「違います」


沈黙。


刺客が華を見る。


五条も華を見る。


「何?」


華が聞く。


「いや」


男がもう一度言った。


「高野山より本日下山した橘華殿だな」


「橘華なら別の道へ行きました」


「腰の刀に橘家の紋がある」


華は自分の刀を見る。


本当だ。


「……オジィ」


余計なことを。


五条が小さく息を吐いた。


「諦めろ」


「仕方ないな」


華は刀へ手をかけた。


だが。


抜けない。


手が止まった。


木刀とは違う。


これは人間を斬るための道具だ。


相手も本気で自分を殺そうとしている。


前世を含めて初めてだった。


心臓が速い。


口が乾く。


指先が僅かに震える。


五条が華の前へ出た。


「無理に戦うな」


華は五条を見る。


昨日までなら、


「下がっていろ」


と言われれば腹を立てただろう。


今は違う。


五条は華の震えに気づいている。


「五条」


「何だ」


「人を殺したことある?」


「ある」


即答だった。


「最初は怖かった?」


五条は少しだけ黙った。


「ああ」


意外だった。


「今は?」


「怖い」


華は五条を見る。


「慣れないの?」


「慣れてはいけない」


その言葉で。


少しだけ手の震えが止まった。


華は刀を抜いた。


金属音。


刀身が朝の光を反射する。


五条も刀を抜く。


「俺が前をやる」


「十二人いる」


「知っている」


「一人で?」


「十人までは仕事の範囲だ」


華は思わず笑った。


「残り二人は?」


五条が前を見る。


「自分の命くらい、自分で守れ」


「護衛って何だよ」


「死なせなければ護衛だ」


弓を持った男が弦を引いた。


五条の身体が沈む。


華も構えた。


そのときだった。


華は気づいた。


刺客たちの足元。


履物。


泥。


一人だけ違う。


いや。


二人。


山道を登ってきた者と、


途中から合流した者がいる。


つまり――。


「五条」


「何だ」


「こいつら、最初から十二人じゃない」


五条の目が動く。


「なぜ分かる」


「足」


華は答えた。


「八人は麓から来てる。でも四人は履物の泥が違う」


五条が一瞬だけ確認する。


「……本当だな」


「四人は高野山側から来た」


その意味を理解した瞬間。


二人とも黙った。


高野山側。


つまり。


華がいつ山を出るのかを知っていた人間がいる。


しかもかなり正確に。


「内通者か」


五条が呟く。


華は答えない。


先頭の刺客が叫んだ。


「殺せ!」


矢が放たれた。


五条が動く。


速い。


刀が閃く。


一本目の矢が弾かれる。


同時に五条が前へ出た。


華も地面を蹴る。


右から男。


刀。


華は受けない。


半歩入る。


相手の腕が伸び切る前に懐へ。


説庵の声が頭の中で響く。


――剣だけを見るな。


肩。


腰。


足。


相手全部を見ろ。


華は男の手首を斬った。


血が飛ぶ。


男が叫ぶ。


赤い。


本物の血。


華の身体が一瞬固まる。


そこへ二人目。


「華!」


五条の声。


華は反射的に身体を沈めた。


刀が頭上を通過する。


華は相手の膝裏を斬った。


男が倒れる。


殺してはいない。


まだ。


だが戦える。


「二人!」


華が叫ぶ。


「何が!」


五条はすでに三人を倒している。


「俺の担当!」


「増やすな!」


「じゃあ三人!」


「馬鹿!」


四人目が華へ向かう。


怖い。


それでも。


頭は動いている。


相手の足。


刀。


呼吸。


距離。


全部見える。


奇妙だった。


恐怖と同時に、思考だけが異常なほど冷静になる。


華はまだ知らない。


それが単に、


「記憶力の良い大学生だったから」


では説明できない能力であることを。


そして。


この十二人の刺客を送り込んだ命令が、


やがて九龍国の中枢へつながっていくことを。


この時の華は、ただ一つだけ理解していた。


都はまだ遥か先だ。


それなのに――。


自分を殺したい人間は、


すでに動いている。


第二話 高野山を下りる日 了

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