『九龍の華 ―死んだはずの大学生、平安の世で天下を読む―』 第一話 赤子になった大学生
もし、死んだはずの自分が、まったく異なる時代に生まれ直していたとしたら――。
脳腫瘍の治療を受けていた大学生は、意識を失い、次に目を覚ましたとき、一人の赤子になっていた。
その名は、橘華。
華が生まれたのは、かつて日本と呼ばれていた列島が六つの国に分かれて争う時代。
その一国――九龍国。
華やかな宮廷文化を持ちながら、皇帝が絶大な権力を握り、朝廷では貴族たちが権謀術数を巡らせ、国境では六国が互いの思惑をぶつけ合っていた。
華は都から遠く離れた高野山で、説庵大僧正と呼ばれる一人の老僧に育てられる。
前の人生から引き継いだ異常な記憶力。
現代人としての知識。
説庵から叩き込まれた学問と武術。
それらを武器に成長していく華だったが、自分自身については何も知らなかった。
なぜ、自分は高野山で育てられたのか。
まだ見ぬ父は何者なのか。
亡き母・橘優希は、なぜ宮廷から姿を消したのか。
そして、この世界に存在するはずのない知識や技術の痕跡は、なぜ残されているのか。
やがて華に、都へ戻る日が訪れる。
それを境に、止まっていた運命が動き始める。
皇帝・大和武尊。
関白・平岳。
その娘・英姫。
蔵人頭・源義弘。
仮面の護衛・五条。
そして、皇帝の妹・雅山大公主。
味方に見える者が敵とは限らない。
敵に見える者も、また敵とは限らない。
誰が華を守ろうとしているのか。
誰が華を殺そうとしているのか。
そして――。
橘華とは、いったい何者なのか。
これは、死んで生まれ変わったと思っていた一人の少年が、自らの出生と母が遺した巨大な秘密に辿り着き、やがて六つに分かれた国々の運命を変えていく物語。
ただし。
どれほど多くの書物を記憶できても。
どれほど人の策を見抜けても。
どれほど強敵と渡り合えても。
華には一つだけ、どうしても理解できないものがある。
――女心である。
そして本人だけが、そのことの重大さにまだ気づいていない。
死ぬときというものは、もっと劇的なものだと思っていた。
走馬灯を見るとか。
亡くなった家族が迎えに来るとか。
あるいは神様のような存在が現れて、
「あなたの人生はここで終わりです」
などと宣告するとか。
少なくとも――。
白い病院の天井を眺めながら、
「ああ、眠いな」
と思ったのが最後になるとは想像していなかった。
◇
「麻酔、入ります」
女医の声が聞こえた。
眩しい照明。
消毒液の臭い。
規則正しく鳴り続ける電子音。
俺は手術台の上に寝かされていた。
二十一歳。
大学三年。
そして、自分で言うのも何だが、記憶力にはかなり自信があった。
一度読んだ本なら内容の大半を覚えていた。
講義についても同じだ。
教授からは、
「君の頭の中には図書館でも入っているのか」
と言われたことすらある。
ところが、その自慢の頭に腫瘍ができた。
最初は頭痛だった。
そのうち目眩が始まり、最後には大学で突然意識を失った。
検査の結果は脳腫瘍。
しかも非常に厄介な場所にあるという。
手術が必要だと説明された。
ただ――。
妙だった。
今でも思い出そうとすると、その前後の記憶だけが不自然に欠けている。
俺なら覚えているはずなのに。
「準備完了しました」
誰かが言った。
医師ではない。
もっと無機質な声だった気がする。
――記憶領域、保存率九十八・七パーセント。
何だ?
――人格特性モデル、収束確認。
意味が分からない。
――思考パターンの補完を開始します。
誰の話だ。
俺は質問しようとした。
しかし身体が動かない。
「先生」
少し離れたところで声がする。
「本当に、このまま保存するんですか」
保存?
何を?
「今の医学では治せません」
別の声。
「ですが、未来なら可能性があります」
未来?
手術じゃなかったのか?
俺は必死に目を開けようとした。
だが視界が暗くなる。
「脳活動記録を継続」
「低温処置開始」
待て。
何をしている。
説明しろ。
俺は――。
そこで意識が途切れた。
◇
次に目を覚ましたとき。
俺は、
「おぎゃあ!」
と叫んだ。
…………。
違う。
叫びたかったわけではない。
勝手に声が出た。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
何だ?
何が起きている?
俺は、
――ここはどこだ。
そう言おうとした。
実際に出たのは、
「ふぎゃあ!」
だった。
おかしい。
非常におかしい。
視界がぼやけている。
身体を動かそうとしても、ほとんど動かない。
いや。
違う。
身体そのものが――小さい。
誰かに軽々と持ち上げられた。
「まあ、元気な御子でございますこと」
女の声。
俺は自分の手を見た。
小さい。
小さいどころではない。
赤ん坊の手だ。
五本の指。
短い腕。
丸い手のひら。
背筋が寒くなった。
いや、赤ん坊なので背筋という感覚さえ怪しい。
「ふぎゃっ!」
説明しろ!
俺は脳腫瘍の手術を受けていたはずだ!
ところが周囲にいる人間は、俺の混乱など知る由もない。
「お腹が空いたのでしょう」
違う。
誰か鏡を持ってこい。
そのときだった。
一人の女性が近づいてきた。
長い黒髪。
白い肌。
ひどく疲れた顔をしている。
それでも、目を奪われるほど美しい人だった。
女性は俺を抱いた。
そして、俺の顔をじっと見つめる。
その瞳から涙が落ちた。
「華……」
声が震えていた。
「あなたの名前は、華」
華?
女性が、ほんの少し笑った。
「橘華」
たちばな。
ひかる。
それが。
この世界における俺の名前だった。
「どうか……」
女性が俺の頬に触れた。
その手は驚くほど冷たかった。
「あなたは、あなたとして生きて」
意味が分からなかった。
当然だ。
生まれたばかりなのだから。
だが後になって。
俺は何度も、この言葉を思い出すことになる。
――あなたは、あなたとして生きて。
それが母、
橘優希
から俺に残された、ほとんど唯一の言葉だった。
◇
俺が自分の置かれた状況を理解するには、かなりの時間が必要だった。
赤ん坊だから当然である。
歩けない。
喋れない。
文字も読めない。
何より、周囲の言葉を覚えなければならない。
ただ一つ幸運だったのは、記憶力が以前と変わらなかったことだ。
むしろ。
以前より良くなっている。
そんな気すらした。
一度聞いた言葉をほぼ忘れない。
会話の前後関係から意味を推測すると、それが異常な速度で頭に定着していく。
生後半年も経つ頃には、周囲の簡単な会話ならかなり理解できるようになっていた。
そして分かった。
まず。
ここは病院ではない。
二十一世紀でもない。
電気がない。
自動車がない。
スマートフォンがない。
当然インターネットもない。
建物は木造。
夜の明かりは油と蝋燭。
人々が着ている衣服も、俺が知っている平安時代のものによく似ている。
だが。
日本ではなかった。
この国の名は――。
九龍国。
◇
三歳になる頃には、俺はかなり自由に話せるようになっていた。
本当はもっと早く話せた。
だが自重した。
生後十ヶ月の子供が突然、
「現在の税制について説明してください」
などと言い出せば、天才どころではない。
怪異扱いされる。
だから俺は、普通の子供を演じた。
一歳。
「まんま」
二歳。
「これはなに?」
三歳。
「どうして?」
我ながら完璧な偽装だったと思う。
多少、
「華様は子供らしくない目をなさる」
などと言われたが、その程度なら許容範囲である。
そして俺は、周囲の大人たちから情報を集め続けた。
この世界では、俺が知る日本列島が六つの国家に分裂していた。
北海道に相当する北の大地。
極星国。
東北から関東。
東昇国。
中部地方。
鳳国。
近畿地方。
俺が生まれた、
九龍国。
中国・四国地方。
海陸国。
そして九州・沖縄。
大亀国。
六国はそれぞれ独立している。
その中でも九龍国は特殊だった。
面積そのものは決して大きくない。
だが国力が異常に高い。
農業。
兵站。
行政。
徴税。
道路整備。
軍制。
他国より体系化されている。
さらには西の海陸国を戦争で破り、現在は事実上の属国としていた。
そのため、鳳国と大亀国は九龍国を警戒し、同盟を結んでいる。
一方。
東昇国は軍事より学問を重んじる。
文学。
医学。
絵画。
天文学。
工芸。
その文化水準は六国でも突出しているらしく、
「六国の学び舎」
とさえ呼ばれていた。
面白い。
かなり面白い世界だ。
だが――。
「……何か変なんだよな」
幼い俺は、それをうまく説明できなかった。
◇
制度が妙なのだ。
九龍国には皇帝がいる。
名を、
大和武尊。
天皇ではない。
皇帝である。
しかも単なる象徴ではない。
軍権。
官吏の任免。
行政。
外交。
司法。
国家の主要な権限が皇帝に集中している。
ただし、皇帝が一人ですべてを処理しているわけではない。
関白。
太政大臣。
左右大臣。
蔵人所。
刑部。
各地の行政官。
様々な組織が存在する。
それ自体は分かる。
問題は、その中に妙に近代的な発想が混じっていることだった。
裁きを行う者と、罪人を捕らえる者を分ける。
官吏を監察する仕組みを置く。
地方行政の報告様式を統一する。
戸籍や税の記録を整理する。
皇帝直属の情報機関まで存在する。
完全な近代国家ではない。
当然、穴も多い。
だが。
「誰かが意図的に制度設計してる……?」
そう考える方が自然だった。
そして。
後になって知った。
その制度改革に深く関与した人間がいたことを。
俺の母。
橘優希。
優希は、かつて宮中に官吏として仕えていた。
表向きは皇帝の側近として文書整理、政策立案、各部署との調整を行う人物。
今で言えば、皇帝の秘書官に近い。
ところが彼女が関わった改革は、秘書官という言葉では到底説明できないほど広範囲だった。
行政組織の再編。
記録制度。
司法制度。
監察制度。
治安機構。
情報収集体制。
それまで個々の権力者が曖昧に行っていた仕事を、組織として整理した。
九龍国が急速に強国化した原因の一つ。
その基礎を作った人物が、母だった。
しかし幼い俺は、そのことを知らない。
◇
俺が知っていたのは、もっと単純な話だった。
母は宮中に仕えていた。
そこで一人の男と出会った。
男もまた宮中の役人だったという。
当時は蔵人所に属し、皇帝の近くで働く近侍だったらしい。
二人は結婚した。
そして。
俺が生まれた。
その男が、
俺の父。
少なくとも俺は、そう教えられていた。
だが。
顔を知らない。
名前も、周囲はほとんど口にしない。
「父上は?」
そう尋ねても、
「いずれ分かります」
「まだお小さいですから」
「説庵様がお話しになるでしょう」
皆、話を逸らす。
死んだのか。
生きているのか。
都にいるのか。
それすら分からない。
だから俺にとって父親とは、
まだ見ぬ父
だった。
◇
俺を育てていたのは、高野山の老僧である。
名は、
説庵大僧正。
高野山でも最高位に近い僧侶。
そして、かなり変な老人だった。
「オジィ」
「誰がオジィじゃ」
「オジィ以外に誰がいるの」
ごつん。
軽く頭を叩かれた。
「口の減らぬ童じゃ」
「三歳児に暴力」
「その言葉を三歳児が使う方がおかしいわ」
しまった。
俺は口を閉じた。
説庵がじろりと見る。
「華」
「なに?」
「お前、時々妙な言葉を使うな」
「気のせい」
「そうかのう」
危ない。
この老人。
思っている以上に鋭い。
見た目は白髪、白眉の老僧だ。
だが歩くとほとんど音がしない。
以前など、飛んできた鳥を箸で捕まえた。
俺は見なかったことにした。
物理法則について考え始めると頭がおかしくなりそうだったからだ。
◇
五歳。
俺は説庵から本格的に文字を習い始めた。
「これは」
「天」
「これは」
「地」
「これは」
「玄」
説庵の眉が動く。
「昨日、一度教えただけじゃな」
「うん」
「全部覚えておるのか」
「たぶん」
老人は棚から巻物を取り出した。
初めて見る文章だった。
「読んでみよ」
俺は読んだ。
分からない文字もある。
しかし文脈から推測できる。
一度最後まで読んだ。
説庵が巻物を取り上げた。
「最初から言ってみよ」
俺は暗唱した。
途中で老人の顔色が変わった。
最後まで言い終わる。
「間違えた?」
「いや」
「じゃあ合ってる?」
「一字も違わん」
しばらく沈黙。
そして説庵が言った。
「華」
「なに」
「人前では、それをするな」
「どうして?」
「人は、自分より少し優れた者には感心する」
「うん」
「自分より大きく優れた者には嫉妬する」
「うん」
「そして、自分では理解できぬほど優れた者を――」
説庵が俺の額を指で弾いた。
「恐れる」
俺はその言葉を覚えた。
ずっと後になって。
その言葉が、母の運命そのものだったことを知ることになる。
◇
七歳。
剣術が始まった。
教師はもちろん説庵。
「構えろ」
木刀を握る。
次の瞬間。
説庵が消えた。
いや。
消えたように見えた。
後ろ。
振り向く。
遅い。
こつん。
「痛っ!」
「死んだ」
「木刀じゃん」
「真剣なら首が飛んでおる」
「七歳児だよ?」
「刺客がお前の年齢を考慮してくれるのか?」
言い返せない。
「もう一回」
「よかろう」
今度は足を見る。
いや。
足だけでは駄目だ。
肩。
腰。
重心。
呼吸。
前世で読んだ武術書の知識を総動員する。
説庵の身体がわずかに沈んだ。
来る。
横へ跳ぶ。
木刀が頬を掠める。
同時に反撃。
胴。
ぱしっ。
片手で止められた。
「ほう」
老人が初めて感心した。
「今のは良い」
「勝った?」
「馬鹿者」
次の瞬間。
俺は地面に転がっていた。
青空が見える。
「オジィ」
「なんじゃ」
「大人げない」
「褒め言葉として受け取っておこう」
絶対に坊主ではない。
少なくとも普通の坊主ではない。
◇
十歳。
高野山の主要な書物をほぼ読み終えた。
十二歳。
一般の僧兵なら、俺一人で二、三人を相手にできるようになった。
十三歳。
五人。
工夫すれば、何とかなる。
ただし説庵には一度も勝てない。
「オジィって、昔何してたの?」
「坊主じゃ」
「その前」
「若者」
「その前」
「赤子」
「そういう話じゃない」
老人は笑って誤魔化した。
俺の周りは、秘密ばかりだ。
母。
父。
説庵。
俺自身。
そして。
十三歳のある雨の日。
さらに一つ秘密が増えた。
◇
高野山の古書庫。
最奥の木箱の下に、それはあった。
黒い板。
木ではない。
鉄でもない。
妙に軽い。
表面が異常なほど平滑。
埃を払う。
文字が現れた。
俺は息を止めた。
九龍国の文字ではない。
古代文字でもない。
俺が知っている。
かつて使っていた。
日本語。
《生体人格情報――》
指が震えた。
裏側。
《AI統合処理――》
「……AI?」
人工知能。
あり得ない。
この世界に存在するはずがない。
心臓が速くなる。
俺は今まで、自分は死んだと思っていた。
脳腫瘍の手術に失敗して。
死んで。
別の世界へ転生した。
そう考えていた。
それなら、まだ理解できる。
だが。
ここにAIという文字がある。
もし。
ここが異世界ではないとしたら。
もし――。
「それをどこで見つけた」
背後から声。
振り返る。
説庵だった。
顔つきが違う。
笑っていない。
俺が十三年間見てきた中で、一度も見たことのない目だった。
「オジィ」
黒い板を見せる。
「これ知ってる?」
沈黙。
「母上と関係ある?」
説庵の眉がほんの少し動いた。
それだけで十分だった。
「やっぱり」
「華」
「俺の母上って、本当は何者なの?」
説庵は答えない。
「じゃあ父上は?」
さらに沈黙。
「生きてるの?」
老人が僅かに目を伏せた。
俺は続ける。
「俺は、誰の子なの?」
そのとき。
寺の外から鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
急報。
間もなく若い僧侶が書庫へ駆け込んできた。
「大僧正様!」
「何事じゃ」
「都より使者にございます!」
説庵の表情が変わる。
「誰からじゃ」
「太政大臣、橘秀逸様にございます」
俺は初めて聞く名前ではなかった。
九龍国の政務を担う最高位の官人の一人。
だが。
俺とは何の関係もないはずの人物だ。
僧侶は続けた。
「橘華様を、都へお戻しになるようにと」
「俺を?」
説庵は目を閉じた。
ほんの短い時間。
それから俺を見る。
「華」
「なに?」
「どうやら、ここまでのようじゃ」
「何が?」
「お前を、この山だけで守っておける時間がじゃ」
意味が分からなかった。
「守る?」
誰から。
何から。
説庵は答えない。
ただ、俺が持つ黒い板を見た。
そして低く言った。
「都へ行けば、お前は多くのことを知る」
「母上のことも?」
「おそらく」
「父上のことも?」
老人は、一瞬だけ答えるのを躊躇した。
「……それもじゃ」
俺はまだ知らなかった。
母・橘優希が、この国の仕組みを変えた人物だったことを。
かつて皇帝の最も近くで働き。
行政を整え。
裁きの制度を作り。
治安機構を変え。
国家の裏側にまで手を入れたことを。
そして――。
その才能を最も高く評価し、
最後には最も恐れた人物がいたことを。
九龍国皇帝。
大和武尊。
もちろん。
この時の俺には知る由もない。
母を死へ追いやった人物が、
九龍国の頂点に座るその男であることを。
そして遥か後。
俺自身が生死の境を彷徨ったその直後。
その皇帝が突然、
「華は私の子だ」
と言い出すことになるなど。
想像すらしていなかった。
第一話 了




