第十九話 皇宮の夜
第十九話 皇宮の夜
海陸国王との会談を終えた翌朝、九龍軍の本陣は、数日前までの切迫した空気とは明らかに違っていた。鳳国軍は国境線の外側へ後退し、大亀国艦隊も沖合へ退き、海陸国軍も武装停止を受け入れている。東昇国の仲介による自治協議も始まりつつあり、戦場だけを見れば、ようやく大きな流血は止まり始めていた。
それでも華には、戦争が終わったという実感がなかった。
地図の上から兵を示す駒が減り、狼煙も消え、負傷兵を運び込む声も少なくなった。しかし、その静けさは平和というより、戦場が目に見えない場所へ移っただけのように思えた。海陸国王から預かった自治案を何度読み返しても、その感覚は消えない。税の徴収権、地方官の任命権、裁判権、軍備の一部回復、九龍国との通商条件。どれも海陸国側から見れば当然の要求に思えるが、すべてを一度に認めれば、海陸国は属国というより半ば独立国家になる。一方で大幅に拒否すれば、今回と同じ反乱が数年後に繰り返される可能性が高い。
華は朝食を取りながら文書へ目を落とし続けていた。
「華様、さすがに食事中まで読み続ける必要はないのではありませんか」
向かい側に座っていた英が、少し呆れたように言った。今の英は関白家の姫君ではなく、地味な衣を着て髪も簡素にまとめ、顔にはそばかすを残した町医者の姿である。華にとっては、むしろこちらの姿の方がすでに見慣れていた。
「京へ戻ったら、父上か皇帝に渡さないといけないから。内容をちゃんと理解しておかないと、何を聞かれても答えられない」
「それは分かりますが、先ほどから同じ頁を何度も読んでおられます」
「五回目」
「なお悪いです」
「先生ならどうする?」
華はそう言って自治案を英へ差し出した。英は一瞬だけためらったが、それを受け取り、しばらく黙って読み始める。隣で薬草を整理していたすみれも、自然に視線を向けた。
「かなり踏み込んだ内容ですね。特に地方官の任命権と軍備については、九龍国側がそのまま受け入れるとは思えません。ただ、海陸国側から見れば、これでも足りないと考える者はいるでしょう」
「やっぱりそう思う?」
「はい。海陸国の人々にとって、今回の反乱は単なる軍事行動ではありません。自分たちで決められることが少なすぎるという不満が積み重なった結果ですから、税だけ少し減らして終わりでは、また同じことが起きます」
華は少し感心したように英を見る。
「先生、本当に政治分かるよね」
「関白家に生まれれば、嫌でも耳に入ります」
「町医者なのに?」
英の視線がすっと冷たくなった。
「その話をいつまで続けるおつもりですか」
華はすぐに口を閉じた。
横で五条が小さく鼻で笑う。
「ようやく学習したな」
「最近、先生が怒るところが分かってきた」
「それを本人の前で言うところは、まだ学習していませんね」
英に即座に返され、すみれまで小さく笑った。
華は不満そうな顔をしながらも、再び文書を開いた。
「でも、九龍国がこれを認めたら、鳳国と大亀国は面白くないよね。海陸国を九龍国から切り離すために動いたのに、自治権だけ拡大して九龍国との関係が残ったら、戦争を仕掛けた意味がなくなる」
英は少し考えてから頷いた。
「そうでしょうね。逆に東昇国は、その方が六国全体の均衡を保ちやすいと判断すると思います」
「俺もそう思う。九龍国が強くなりすぎても駄目、鳳国と大亀国が勝ちすぎても駄目。海陸国が完全に独立してどちらかの陣営に入るのも困る。だから少し自由にして、でも九龍国との関係は残す」
英は華を見つめた。
「華様」
「何?」
「それを十四歳の方が朝食を食べながら考えていることに、私は時々強い違和感を覚えます」
華は一瞬黙って、それから苦笑した。
「俺も最近、自分でそう思う」
「そこは自覚がおありなのですね」
五条が言った、その直後だった。
本陣の外で、激しい馬蹄の音が響いた。
一頭だけではない。二頭、いや三頭。しかも通常の伝令より明らかに速い。五条はすぐに立ち上がり、すみれも同時に入口へ目を向ける。数秒後、幕が大きく開き、九龍軍の伝令が転がり込むように入ってきた。
「大将軍!」
奥から坂上景親が現れる。
「何があった」
伝令は膝をつき、息も整わないまま声を絞り出した。
「京より最優先の急報にございます。昨夜、皇宮において陛下への襲撃が発生いたしました」
その瞬間、天幕の中の空気が完全に変わった。
華の手から自治案が落ちそうになる。
「皇帝は?」
景親の声が低くなる。
「ご無事にございます。ただし近衛に死者多数。内廷の一部は現在封鎖されております」
華は立ち上がった。
「誰がやったの?」
「詳細は不明にございます。ただ、襲撃者の一部が皇宮内部の通行印を所持していたとの報告です」
五条と華が一瞬、目を合わせた。
皇宮内部。
その言葉は、これまで何度も現れている。
母・優希の地下研究施設を襲った者。橘家へ侵入した者。そして今度は、皇帝本人への襲撃。
「平司は?」
華が聞くと、伝令が少し驚いたように華を見る。
「現場近くで、参議・平司様に似た人物を見たという証言がございます」
英の顔から表情が消えた。
「司兄様が……」
華はすぐに英を見る。
「まだ決まってない」
「ですが」
「似た人を見たってだけ。司さん本人かどうかも、皇帝を襲ったかどうかも分からない。先に決めたら駄目」
英はしばらく華を見た後、小さく頷いた。
「……はい」
そう答えたものの、その指は僅かに震えていた。
◇
その日の午後、九龍軍は急速に帰京準備へ入った。海陸国との停戦交渉は景親の副将と東昇国使節へ引き継がれ、景親自身も本隊の一部を率いて京へ戻ることになった。皇帝襲撃となれば、外征を続けている場合ではない。鳳国と大亀国が再び動く可能性はあるが、皇帝が倒れれば、それ以上に危険な内乱が九龍国内で始まる。
華たちは先行して京へ向かった。
馬を走らせながら、華はほとんど口を開かなかった。英も同じだった。華は何度も考えた。なぜ今なのか。雅山大公主はすでに死んでいる。平司が本当に皇帝を殺そうとしたのなら、大公主の手形だけが理由ではない。誰かが雅山の計画を引き継いだ可能性が高い。
五条が馬を寄せた。
「考えすぎるな」
「無理だよ」
「まだ何も確定していない」
「分かってる。でも、もし司さんが本当に皇帝を襲ったなら、何で今なんだろう」
「雅山大公主との密約があった」
「皇帝と俺が死んで、平岳さんが失脚すれば関白にするって手形。でも大公主はもう死んだ」
「別の誰かが、その約束を引き継いだのかもしれん」
華は少しだけ五条を見る。
「五条もそう思う?」
「可能性の一つだ」
「皇宮の中の人?」
「内部通行印を本当に使っているなら、かなり深い位置に協力者がいる」
華は少し黙った後、低い声で言った。
「吉田侍従?」
五条の視線が鋭くなる。
「名前を軽く出すな」
「でも皇帝のすぐ近くにいる。上奏文を扱って、皇帝への取次をして、内廷にも自由に入れる。皇帝の予定だって知ってる」
「だからといって犯人ではない」
「分かってる」
華は前を向く。
吉田司。
小太りで冴えない外見。しかし、素手で三人ほどなら殺傷できる体術の達人であり、常に皇帝の近くにいる侍従。
疑う条件なら揃っている。
だが。
条件が揃うことと、犯人であることは同じではない。
「証拠を見るまで決めない」
華が言うと、五条は短く頷いた。
「それでいい」
◇
その頃、皇宮では昨夜の襲撃の痕跡がまだ生々しく残っていた。
内廷へ通じる廊下には血が残り、破損した格子や扉には刀傷が刻まれている。近衛兵は通常の倍以上に増員され、皇帝へ近づける人間は極端に制限されていた。
その中心で、大和武尊はいつもと変わらず上奏文を読んでいた。
「陛下」
隣に控えていた吉田司が、少し困ったように言う。
「本日くらいは政務をお休みになられてはいかがでしょう」
「なぜ」
「昨夜、殺されかけたからでございます」
「死んでいない」
「そういう問題ではございません」
大和武尊が顔を上げる。
「吉田」
「はい」
「お前は怪我をしたか」
「少々」
吉田の左腕には布が巻かれていた。
昨夜、皇帝の寝所へ侵入した三人のうち二人を、吉田が素手で倒した。残る一人は大和武尊自身が取り押さえた。
しかし襲撃はそれだけではなかった。
秘密通路からさらに複数の刺客が侵入し、近衛と衝突。近衛五名が死亡し、襲撃側も数名が死亡。二人は自害。一人が逃走し、一人だけが生きたまま捕らえられた。
さらに。
その混乱の中で、平司らしき人物を見たという証言まで出ている。
「捕虜は」
「蔵人頭が尋問しております」
「口を割ったか」
「まだにございます」
「司は」
「行方が分かっておりません」
皇帝は筆を置いた。
「死んでいないな」
「おそらく」
吉田が答える。
大和武尊はしばらく黙った後、窓の外を見る。
「平司一人で、ここまで内廷へ入り込めると思うか」
「いいえ」
「雅山でも難しい」
「はい」
「なら」
皇帝はゆっくり吉田を見る。
「中にいる」
吉田は何も答えない。
「しかも、かなり深いところにな」
「私かもしれません」
吉田が静かに言う。
皇帝の眉が僅かに上がる。
「自分で言うか」
「条件だけなら十分かと。私は常に陛下の近くにおりますし、内廷へも自由に出入りできます」
「昨夜、私を守ったばかりだ」
「それが一番良い隠れ蓑になるかもしれません」
大和武尊は少しだけ笑った。
「怒らんのか」
「疑うのが陛下のお仕事でございますので」
「だからお前は使いやすい」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「好きにしろ」
その時、外から取次の侍従が入った。
「陛下。関白・平岳様、太政大臣・橘秀逸様、蔵人頭・源義弘様がお揃いにございます」
皇帝は少し目を細めた。
「通せ」
◇
三人が入ってくる。
平岳。
橘秀逸。
源義弘。
現在の九龍国で、皇帝に次いで政治・行政・治安の中枢を担う三人。
そして。
三人とも。
怒っていた。
ただし。
怒り方が違う。
平岳はほとんど表情を変えない。
秀逸は目だけが冷たい。
義弘は声が静かすぎる。
最初に口を開いたのは岳だった。
「陛下」
「何だ」
「昨夜、警備を意図的に通常のままにされたと聞きました」
「そうだ」
岳は、何のためらいもなく言った。
「馬鹿ですか」
吉田が一瞬、目を閉じた。
秀逸が岳を見る。
義弘は何も言わない。
皇帝は逆に少し笑った。
「本人の前でも言うとは聞いていたが、本当に言ったな」
「当然です」
「私は無事だ」
「結果論です」
岳の声が低くなる。
「陛下が罠を張られること自体には反対いたしません。しかし、餌として御自身を使われる必要はなかった」
皇帝は少し岳を見る。
「では誰を使う」
岳は答えなかった。
皇帝自身が。
最も狙われる。
だから。
最も確実な囮になる。
理屈としては正しい。
だからこそ、岳は余計に腹が立っている。
「義弘」
皇帝が言った。
「捕虜は」
「まだ口を割りません」
「拷問は」
「最低限に留めております」
「なぜ」
「死なれては困りますので」
「毒は」
「所持しておりませんでした」
大和武尊の目が少し変わる。
「これまでの刺客とは違うな」
「はい」
義弘は答える。
「戦い方も、装備も、自害方法も異なります。別組織の可能性が高い」
秀逸が聞く。
「しかし皇宮の通行印を持っていた」
「本物です」
部屋が静まる。
「誰の印だ」
皇帝が聞く。
義弘は少しだけ間を置いた。
「内廷文書局」
吉田の目が僅かに動いた。
岳も。
秀逸も。
「内廷文書局?」
皇帝の声が低くなる。
内廷文書局。
皇帝へ上がる上奏。
勅命。
人事。
機密文書。
国家の記録。
それらを扱う。
皇帝の意思が文書として国家へ流れる、その途中にある組織。
「局長は」
皇帝が聞いた。
「九条雅継」
義弘が答える。
九条雅継。
六十歳。
長年、特定派閥へ強く属さず、関白にも太政大臣にも皇帝の近臣にも見えない文官。
政争から距離を置き、ただ文書を扱うだけの人物。
そう見られてきた。
「雅継が」
秀逸が呟く。
「あり得るか」
岳が言った。
「あり得ないと思わせる人間ほど最初に調べろ」
義弘は頷く。
「すでに人を付けております」
大和武尊は少し考えた後、突然尋ねた。
「優希とは」
三人の表情が僅かに変わる。
「何だ」
秀逸が聞く。
「雅継と優希に接点はあったか」
部屋の空気が変わった。
秀逸が答える。
「ありました。優希が行政改革を始めた初期、文書保存制度と上奏経路の再編に関わった者の一人です」
皇帝の顔が。
本当に僅かだが。
変わった。
岳は見逃さなかった。
「陛下」
「何だ」
「何かご存じですね」
「何を」
「九条雅継について」
皇帝は答えない。
「あるいは」
岳は少し目を細める。
「優希の研究について」
今度は秀逸も皇帝を見る。
義弘も。
吉田も。
しばらく。
誰も口を開かなかった。
やがて。
大和武尊が静かに言った。
「雅継は」
一拍置く。
「優希の研究を知っていた」
秀逸の顔が明らかに変わる。
「どこまで」
皇帝は少しだけ目を伏せる。
「私より深く」
義弘が。
初めて。
息を呑んだ。
◇
その日の夕方、華たちは京へ向かう途中の宿場へ入った。馬を休ませるための短い休憩だったが、英は宿の裏で怪我人を見つけ、当然のように診療を始めてしまった。
華と五条は外で待っている。
「京まであとどれくらい?」
「順調なら明日」
「皇帝」
「何だ」
「もし死んでたら」
五条が華を見る。
「縁起でもないことを言うな」
「もしだよ」
「何だ」
「次の皇帝って誰?」
五条は少し黙った。
「簡単ではない」
「皇子は?」
「三人いる」
華が驚く。
「初めて聞いた」
「皇宮からほとんど出ないからな」
「一番上は」
「二十二」
「じゃあその人じゃないの」
「皇太子に定められていない」
華の眉が寄る。
「何で」
「皇帝が決めていない」
「仲悪い?」
「知らん」
華は少し考える。
皇帝。
皇子三人。
関白。
太政大臣。
公卿。
軍。
皇帝が急死すれば。
「内乱になる?」
「可能性はある」
華は嫌そうな顔をした。
「皇帝、死なれたら困るね」
「今頃気づいたか」
「好きじゃなくても」
華は少しだけ考えてから言った。
「今はいないと国が困る」
五条は。
華を見る。
「少しは政治を覚えたな」
「戦争して、王様と話したから」
「十四で十分すぎる」
華は。
あまり嬉しくなかった。
◇
その時、宿場の入口で騒ぎが起きた。
一頭の馬が激しく止まり、男が落ちるように飛び降りる。九龍軍の伝令ではない。
「華様!」
五条がすぐ華の前へ出た。
男は息を切らしながら膝をつく。
「関白家より急報にございます」
英が奥から出てくる。
「父上の?」
「はい」
「何がありました」
使者は英を見る。
「藤宮様が」
英の表情が止まる。
「兄上が?」
「昨夜より、行方が分かりません」
一瞬。
誰も声を出さなかった。
「藤宮さん?」
華が聞く。
「はい」
使者はさらに続ける。
「そして」
「何です」
「参議・平司様より、英姫様宛てに文が届いております」
英の顔が変わる。
「司兄様から?」
「はい」
文を受け取る。
英が読む。
華は覗かない。
すみれが横から見る。
その顔も変わった。
「何て」
五条が聞く。
英は。
華を見た。
そして。
黙って文を差し出す。
華は受け取る。
短い。
――藤宮兄上を預かった。返してほしければ、橘華一人で都へ来い。
華の目が止まる。
「俺?」
英の声が僅かに震える。
「兄上を……」
華は文をもう一度見る。
「先生」
「何です」
「まだ司さんが書いたと決めない」
「ですが印が」
「印が本物でも、本人が書いたとは限らない」
五条が文を見る。
「平家の印に見える」
「見える?」
「ああ」
華は少し考える。
「藤宮さんが本当に捕まったかも分からない」
英が。
僅かに。
黙る。
華は気づいた。
「先生?」
「何でしょう」
「何か知ってる?」
英はすみれを見る。
すみれも。
少し。
困った顔。
華の眉が寄る。
「何?」
英は。
しばらく悩んだ後。
静かに言った。
「華様」
「うん」
「兄上は」
一拍。
「歩けます」
華は固まった。
「……え?」
「下半身の麻痺は」
英は続ける。
「かなり前に回復しております」
華は。
数秒。
何も言えない。
「じゃあ」
「はい」
「ずっと歩けないふりしてた?」
「父上の命令で」
「何で!」
「朝廷内部を探るためです」
五条は小さく頷く。
「なるほど」
華が振り返る。
「五条は何で普通に受け入れるの」
「怪しいとは思っていた」
「何で俺だけ知らないこと多いの!」
こんな状況なのに。
英の口元が。
ほんの少し。
緩みそうになる。
しかし。
すぐ元へ戻る。
「兄上は文武ともに極めて優れております。事故以前であれば、五条様と比べても」
五条が聞く。
「俺より上か」
英は少しだけ考える。
「全盛期なら」
五条が黙る。
華の顔。
変わる。
「そんな人が簡単に捕まる?」
「難しいでしょう」
「じゃあ」
華は文を見る。
「自分から捕まった?」
英。
五条。
すみれ。
三人。
同じように。
考え始める。
「藤宮様なら」
すみれが言う。
「敵の内側へ入るため、わざと捕らわれた可能性はございます」
華の目が。
少し。
変わる。
「じゃあこの文」
「何だ」
五条が聞く。
華は文を裏返した。
「司さんが書いたんじゃなくて」
一拍。
「藤宮さんが俺を呼んでる可能性もある」
英の目が動く。
「兄上が?」
「分からない」
華は文を見つめる。
「でも」
橘華一人で都へ来い。
普通なら。
明らかな罠。
なのに。
妙に。
直接的すぎる。
「五条」
「何だ」
「この文、調べたい」
「何を」
「何か隠してる気がする」
◇
その夜。
華は宿の小さな部屋で、何度も文を調べていた。
紙。
墨。
印。
折り目。
匂い。
何も。
おかしくない。
五条は部屋の外。
だが。
実質。
ずっといる。
華は灯火へ紙を透かす。
「何もない」
炙る。
何も。
水。
使わない。
破損する。
「華」
外から声。
「何」
「寝ろ」
「あと少し」
「何回言った」
「三回」
「五回だ」
「数えないで」
華は紙を畳み直そうとする。
その時。
指に。
僅かな引っかかり。
「ん?」
紙の端。
小さな穴。
一つ。
二つ。
三つ。
針。
華は目を細めた。
「五条」
「何だ」
「入って」
即座に。
入ってくる。
「これ」
華は紙の端を見せる。
「穴?」
「うん」
「虫では」
「規則的」
華は別の紙を出し。
穴の位置を。
写す。
一列。
ではない。
まとまり。
六つ。
また六つ。
五条が見る。
「何だ」
「暗号かも」
「分かる?」
華は考える。
前世。
似た方式。
見た。
点。
位置。
文字。
完全に同じではない。
でも。
発想。
近い。
「多分」
華は穴を数える。
上下。
左右。
数字。
置換。
いくつか。
試す。
一度目。
意味なし。
二度目。
意味なし。
三度目。
少し。
文字。
出る。
「……待って」
さらに。
並び。
変える。
そして。
最初の一文。
現れる。
司を追うな。
五条の目が変わった。
華も。
息。
止める。
次。
皇宮内。
そして。
最後。
母の敵。
華は完全に動かなくなった。
「母上の」
五条が言う。
「敵が皇宮にいる」
華は頷く。
「藤宮さん」
「うん」
「わざと捕まってる」
「おそらく」
「で」
華は文を見つめる。
「俺に」
一拍。
「皇宮を見ろって」
五条はしばらく華を見た。
「華」
「何」
「今回だけは」
華が顔を上げる。
「行くな?」
五条は首を振る。
「違う」
華が少し驚く。
「行くなら」
五条は静かに言う。
「俺も行く」
華は少しだけ笑った。
「一人で来いって書いてる」
「知らん」
「条件無視」
「お前一人にすると必ず余計なことをする」
「否定しにくいな」
本当に。
否定できなかった。
◇
同じ頃。
京。
皇宮地下。
一人の青年が。
自分の足で立っていた。
輿椅子はない。
掛物もない。
背筋は伸び。
両脚は。
何の問題もなく。
床を踏んでいる。
平藤宮。
その正面。
平司。
司の顔は。
完全に。
驚愕。
「兄上」
「久しぶりだな」
「立って」
藤宮は。
僅かに。
笑った。
「誰が歩けないと言った」
司の顔から。
血の気が引く。
「いつから」
「お前が安心した頃には」
司が後退する。
「では」
「ずっと」
藤宮は一歩進む。
「見ていた」
司の呼吸。
乱れる。
「違う」
「何が」
「私は」
司が言う。
「雅山大公主に命じられただけだ」
藤宮の目が。
冷たくなる。
「だから兄を殺していい?」
司が黙る。
「英姫を巻き込み」
一歩。
「華を殺そうとし」
さらに。
「皇帝まで殺そうとした」
司。
顔。
歪む。
「兄上には分からない!」
声。
響く。
「何が」
「何でも」
司は。
押し込めていたものを。
吐き出すように。
言う。
「最初から持っていた!」
藤宮。
黙る。
「父上の期待」
「皇帝の信頼」
「近衛大将」
「平家の後継」
「私は何をしても」
一拍。
「藤宮様なら」
「兄上なら」
「そればかり!」
藤宮は。
長く。
弟を見る。
「そうか」
「何です」
「なら」
静かに。
「私だけを恨めばよかった」
司の顔が止まる。
「だが」
藤宮は続ける。
「華も」
「英姫も」
「皇帝も」
「関係ない」
一拍。
「それを巻き込んだのは」
目。
鋭い。
「お前自身だ」
司は。
何も返せない。
その時。
奥から。
声。
「兄弟の話はその辺りにしてもらおう」
藤宮が振り返る。
暗闇。
一人の老人。
六十歳ほど。
細身。
穏やかな顔。
文官。
一見。
武人には見えない。
九条雅継。
内廷文書局長。
藤宮の目が。
僅かに。
変わる。
「やはり」
雅継が笑う。
「気づいていたか」
「半分だけ」
「残りは」
「今」
雅継はゆっくり。
藤宮を見る。
「では」
一拍。
「知りすぎた」
藤宮は。
刀を抜く。
「そう言われると思った」
暗闇から。
人影。
一人。
二人。
五人。
十人。
十五人。
藤宮は。
周囲を見る。
司の顔にも。
驚き。
「こんな人数を」
雅継が。
平然と答える。
「皇宮は」
一拍。
「文書で動く」
藤宮。
見る。
「門を開ける文書」
雅継。
続ける。
「人を入れる文書」
「人を消す文書」
「死んだ者を」
少し。
笑う。
「記録上生かすこともできる」
「生きた者を」
その目。
冷たい。
「記録から殺すこともできる」
藤宮の顔から。
表情が消える。
「優希様が作った制度を」
「使っている」
雅継は答えた。
「そうだ」
一拍。
「彼女は素晴らしいものを残した」
藤宮の目。
冷たい。
「母の敵」
雅継が。
僅かに。
眉を動かす。
「誰の」
「英姫の」
藤宮は一歩進む。
「そして」
さらに。
「橘華の」
その瞬間。
雅継の顔。
ほんの僅か。
変わる。
藤宮は。
見逃さない。
「知っているな」
雅継。
黙る。
「平英姫」
「橘華」
藤宮は。
刀を構える。
「優希様の研究を」
一拍。
「お前は知っている」
雅継は。
しばらく。
藤宮を見る。
そして。
笑みを消した。
「知っているとも」
藤宮の目が細くなる。
雅継は静かに続ける。
「だからこそ」
一拍。
「橘華は」
さらに。
「この世に残してはならない」
◇
同じ時刻。
京へ向かう街道。
華は馬上で。
突然。
胸の奥に。
妙な感覚を覚えた。
「華?」
五条が。
隣。
「どうした」
華は前を見る。
遠く。
京。
まだ。
見えない。
「分からない」
「何が」
「嫌な感じ」
「傷か」
「違う」
華は。
手綱を握る。
藤宮。
暗号。
母の敵。
皇宮。
全部。
頭の中。
つながり始める。
「急ごう」
五条が。
華を見る。
「何か分かったか」
「まだ」
「なら」
「でも」
華は前を見る。
「藤宮さん」
一拍。
「多分」
「危ない?」
「うん」
根拠はない。
それでも。
華には。
そう思えた。
母を殺した皇帝。
その皇帝を恐れ。
母の研究を追い。
今。
華自身まで消そうとしている者。
それが皇帝とは別にいる。
しかも。
皇宮の最深部。
国家の記録。
命令。
人事。
すべてが通る場所に。
華は。
まだ。
九条雅継という名前を知らない。
だが。
その存在へ。
確実に。
近づいていた。
そして。
皇宮の地下では。
藤宮が。
十五人を超える刺客に囲まれ。
その中心に立つ九条雅継が。
静かに。
刀を抜いた。
第十九話 皇宮の夜 了




