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あの日わたしは猫になった  作者: 青崎衣里


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症例3.牟田嘉彦 (後編)

裏社会に生きる牟田嘉彦は猫化を秘密にしていたが、ある日舎弟の賢介に猫の姿を見られてしまった。そこへやってきた組織の人間に賢介共々拉致されて絶体絶命のピンチが訪れる。




「俺たち、どうなるんだろうなぁ……」

 ゴロリと床に寝転がってつぶやく賢介を尻目に、毛布のお包みから抜け出した牟田は室内を探り始めた。

 車で数十分余りかけて移動し、放り込まれた先はどこかのビルの一室だった。車で移動中は賢介にがっちり抱きかかえられていて、あまり外の景色を覗くことができなかったのではっきりと確信は持てないが、場所はおそらく先程の若手幹部が所属している正龍(せいりゅう)連合会(とどろき)組の事務所だろう。

 倉庫として使われている部屋らしく、小さな非常灯だけに照らされた室内は雑然としていて結構埃臭い。窓がないからきっと地下なのだろう。スチール棚に収まっている何かの備品らしき物以外にも、壁際の床に段ボールがいくつも積み上げられている。隅には脚立やカート、土嚢(どのう)、ショベルなども置いてある。


 スーツの連中が出ていく際、施錠音がしたから扉には鍵がかかっているはずだ。今のところ賢介は縛られていないので、すぐにどうこうする気はなさそうだが、再びここから連れ出されたら車ごと海へダイブさせられるか、山奥で下ろされ穴を掘らされるかのどちらかしかないように思える。

(風向きが悪ぃのは確かなんだが)

 轟組の連中が彼らを連れ去った目的は、いまだ不明なままだ。

 同じグループに属しているとはいえ特別親密な間柄ではないが、かといって反目し合っているわけでもない。現在は上部組織も安定していて跡目争いで揉めているという話も聞かないし、組同士でトラブルが起こったという報告も受けていない。

(上の連中に目ぇ付けられることなんてした覚えもねぇし)

 なぜ彼らは自分を探し回っているのか。

(……分からん)

 単なる誤解か、何者かの策謀で罠にでも嵌められたか。

 いずれにせよ現在の姿では確かめる術がない。


 それは賢介とて同様らしく、痛みを堪えつつ身を起こした彼は壁にもたれて深々とため息を漏らした。

「ヨシさん、無事かな」

「ニャア」(ここにいるだろ)

「にゃんこ、おまえ大丈夫か? ケガしてねぇ?」

「ニャ……ニャアァ」(バカが……てめぇの心配しろよ)

 口には出さない賢介の不安が伝わってくるので、仕方なくそばに寄っていくと、温かい手のひらで頭を撫でられた。

「殴るなら理由ぐらい教えて欲しいよなァ」

「ナン」(まったくだ)

「でも大抵の場合、理由なんてないんだよな。なんか気に食わないとか、たまたま目が合ったとか、そんなどうでもいい理由ばっかでさ。要するに何をやってもいい相手だと思われてんだよな」

「ナ?」(なんの話だ?)

「俺そんな扱いばっかされてたからさ。違ったのは爺ちゃんだけなんだ」

「ナーン」(ああ、おまえが介護してた爺さんか)

「あとヨシさんと財前の親父さん。俺を殴んなかったのは三人だけだなぁ」

「ナアァ」(おまえ頭も要領も悪いからな。つい手が出るんだろ)

 本当にこいつはバカだと牟田は思った。


 彼が手を出さないのは必要がないからだ。仕事を教えるのも、何かへまをやらかしたときにケジメを付けさせるのも下の者がやることで、牟田や財前が直接手を出す必要はない。先程の若手幹部のように、気に入らないことがある度にいちいち部下を蹴り飛ばすような趣味も無駄な体力もないから、やらないだけ。ただ、それだけだ。

 そんなことをしなくてもひと睨みしただけで相手は充分に萎縮するし、一言注意すれば大抵はコメツキバッタのように頭を下げる。賢介のようにヘラヘラしている奴には牟田よりも年下の近藤や筒井、篠原が代わりに小突く。

(本当にやさしい奴ならこんな泥水みてぇな世界に足突っ込んでねぇし、おまえを引き入れたりもしねぇよ)


 世間は何かと弱い者につらく、厳しい。自分で抗える力や智慧がない者には容赦がなく、きれいごとをたくさん並べ立てているわりに不親切だ。


 家柄、所得、家族構成、成績、人柄、さまざまなもので振り分けられて「普通」の枠に入れてもらえず、社会に居場所を持てなかった弱者たち。受け入れられないなら誰彼構わず噛みついてやる、ズルく賢く生き抜いてやると法やルールの枠に背を向け、自らはみ出したロクデナシども。反社会的と呼ばれる彼らの世界は、そんな連中の吹き溜まりだ。本当にやさしい人間などいるはずがないだろうに。

 弱く臆病な自分を虚勢で隠しているだけなのだから。

(獣に化けるにしたって、虎やライオンじゃなく猫ってのがピッタリすぎて笑えるぜ)


 そんな世界だと分かっていてどっぷり浸かった自分と違って、賢介はとにかく素直だ。たまたま出会った相手がもっとまともで善良な人間だったら、こんな世界に縁などなかったはずなのにと思う。

(すまなかったなぁ、賢介)

 幾多の恨みを買っている自分ならともかく、ここで賢介まで始末されてしまったら巻き添えもいいところだ。申し訳ないと心から思った。

(今さら神様なんて信じてねぇが…………こいつだけは許してやってくれねぇかな)

 虫がいいと思いながらも、願わずにはいられなかった。




        ※        ※        ※




 それから何時間経った頃だろう。

「おい、出ろ」

 唐突に扉が開き、賢介は数人の男たちに引っ立てられて部屋を出た。むろん毛布に包まれた猫の牟田も一緒だ。

 果たして解放してくれるのか、あるいは。

 異様な緊張感が漂う。

 四方を囲む男たちは何も話さず、無言の圧力をかけながら地下駐車場へとやってきた。緊張に身を縮ませていた賢介と牟田がそこで目にしたもの。それは停車中のワゴンの横に立つ金本と、短銃を構えて運転席側のドア付近に立つ配下の男。そして、両手足を縛られた状態で後部座席に座らされている財前組の仲間の姿だった。

「先輩!」

(近藤、篠原も……)

 これはいよいよ危険な展開だ。全員、命はないものと思わなければ。


 牟田の焦りをよそに、轟組の若手幹部はあっさりと最終宣告を下した。

「牟田だけじゃなく筒井って野郎もまだ見つかってねーが、まぁ後からゆっくり送ってやるとするわ。おまえら先に逝っとけ」

「んんっ!」

「ん~~~っ」

 猿轡でしゃべれない近藤と篠原が涙目で必死にかぶりを振っている。

 今のところ銃を構えているのは一人だけだ。しかし他の者たちが懐に何も忍ばせていないという保証はない。


「なんで……俺たちがいったい何したって言うんですか!」

「うるっせぇ! この裏切り者がッ!」

 賢介の叫びに、金本が激高した。

「裏切り……?」

「とっくにネタは割れてんだよ! 昨夜、財前が幹部会に顔を出さなかったのも昇龍(しょうりゅう)側に寝返る算段がついたからなんだろ!」

「いったい何の話……」

 本当に何の話か訳が分からないが、反論をしている余裕はなさそうだ。

「いいから、もう行け! こいつらとっとと沈めてこい!」

 号令をかけられた組員たちが賢介がワゴン車に無理やり押し込めようと動き出した。抗ってはいるが、所詮四対一だ。敵うはずもない。


 そのとき、一台の黒塗りのベンツがスーッと駐車場に入ってきた。組の関係者が外出先から戻ってきたのだろう。ベンツだからおそらく幹部クラスだ。

 ほんの一瞬、全員の意識がそちらに流れた。

(今だ!)

 賢介の腕の中から躍り出た猫が、ものすごいスピードで銃を構えている男の顔に飛びかかった。

「シャッー!」(食らえッ!)

「わぁっ!」

 思いきり顔を引っ掻き、銃を持っていた右の手首に噛みつく。

「いててててっ」

「グルルルルッ」(そいつを離しやがれぇぇぇ)

 牙が喰い込む痛みに悲鳴を上げて、男が短銃を取り落とした。できればそれを賢介にパスしてやりたかったが、一手早くストライプスーツに拾われてしまい鈍く光る銃口が猫の牟田を狙った。


「待って!」

 賢介が青ざめ、叫んでいる。

(まずい)

 牟田は照準から逃れようと、踊るように細かな動きで、素早く右へ左へと駆け回った。

 破裂音が一発、二発。地下の駐車場に響く。

「うあっ」

 的を外した跳弾が後方に控えていた轟組の手下の脚を掠めた。

 その場にしゃがみ込んだ男の陰へとすぐさま回り込み、射線を切る。

「ニャッ、ニャアァァ!!!」(今だ、逃げろ賢介!!!)

 頼むから、おまえだけでも逃げてくれ。

 祈りを込めて、叫ぶ。言葉は通じなくても。


 その声を掻き消したのは銃声ではなく、けたたましく鳴り響くクラクションの音だった。先程駐車場に入ってきたベンツが鳴らしているのだ。

 全員の動きがピタリと止まった。

 すぐにベンツのドアが開き、恰幅のいい和装の老人男性が一人、車から降り立った。


永人(えいと)、こんなとこで何やってる」

「………………」

 ストライプスーツの幹部を名前で呼び捨てにしたその人物こそ、轟庄之助(とどろきしょうのすけ)、轟組の現組長だった。長年正龍連合会の中核を担ってきた人物で、財前の兄貴分に当たる男だ。

(轟の伯父貴……)

 老いてからは仕事のほとんどを側近と後継者に任せていると噂で聞いたが、組織内での影響力はまだまだ強い。眼光の鋭さといい、老人とは思えぬ体躯から滲む威圧感といい、老いぼれと侮ることを許さぬものがある。やたらと威勢のよかった若手幹部が黙り込んで固まってしまうほどに。


「ん? こいつら財前んところの若い衆じゃねえか」

 縛られている近藤たちを一瞥した轟の言葉に、金本がようやく反応した。

「オヤジの顔を潰したオトシマエをつけさせてやるところです。俺たちがきれいに片づけますんで、お気になさらず。じきに残りの二人もとっ捕まえて――――」

「ああ?」

 ジロリと横目でねめつけ、這うように低く放った一言にびくりと空気が震える。

「誰が、そんなことをしろと言った?」

「いやっ、でも……」

「だ、れ、が、命じた?」

「…………誰も……俺の、独断です。オヤジの手を煩わせないようにと」

 老人のステッキが空を切り、金本の右肩をビシリと打ち据えた。

「……っ!」

「財前は俺が昔、直接拾って盃を交わした弟分。こいつらはその身内だ。てめぇ、それを分かってやってんだろうな」

「ですが、あいつらは裏切って昇龍会に」

「永人よ、てめぇ誰に何を吹き込まれた?」

 反論のセリフに被せてきた轟の声には、幾ばくかの落胆と憐憫が滲んでいた。

「えっ……」

 金本もそれを感じ取ったのだろう。

 たちまち視線を泳がせ、狼狽(うろた)えだした。


「だって……郷田のオヤジが間違いないって……」

「郷田か。あいつぁ昔っから財前とソリが合わなかったからな。ここぞとばかりにおまえを焚きつけたんだろうなぁ」

「なっ……」

 自分が担がれたのだと悟った金本は顔を真っ赤にして怒りを滾らせたあと、すぐに己の失態に気づいて青ざめ、コンクリートの床に這いつくばった。

「申し訳ありませんでしたッ!」

 しかし土下座をする金本に轟はいいからと鷹揚に手を振り、ワゴン車を指さした。

「それよりな、その車で今すぐこの連中を城西病院まで送ってやれ」

 轟の登場で風向きが変わり、どうやら助かりそうだと安堵していた賢介が近藤たちと不思議そうに視線を合わせる。

「病院?」

「財前が入院してる」

「――――!!!」

 たちまち賢介と牟田はワゴン車に飛び乗った。





「いいですね? 院内では絶対に騒がないように、お静かに願います。あと十分しかありませんので、面会時間終了の放送が流れたら速やかに退室してください。その間にもし何かありましたら、そこのナースコールを押してお知らせください」

 年配の看護師はきびきびとした口調で告げて去っていった。

 時刻は夜七時十分前。面会時間ギリギリにナースステーションに飛び込んできた騒がしい三人組に看護師が厳しい対応を取るのは当然だろう。


 ちなみに車で向かう途中、猫は病院には入れないから置いていけと言われたが、その言葉を耳にした途端、牟田は賢介のジャンパーの中に潜り込んで一緒に行く意思を表した。

 轟の車に放置されるのはまずいし、何より財前のことが気にかかる。

「……なんか、こいつも行きたいみたいッス」

「俺たちを助けようとしてくれたしな」

 そんなわけで三人の子分に紛れて、牟田もこっそり病室に入ることに成功したが、もし看護師に見つかっていたら拒まれて、その場で押し問答している間に面会時間終了となっていただろう。


 財前がいたのは入院病棟の南端にある小さな個室だった。

 ベッドの他には小ぶりの丸テーブルと固そうな椅子が一脚、小物を入れる戸棚に収まっている小型テレビと冷蔵庫。安いビジネスホテルのような造りだ。

 財前はベッドに横たわっていたが、彼らの顔を見ると付き添っていた筒井に介助されてのろのろと上体を起こした。

「おやっさん!」

「筒井……おまえ、なんでここに」

 いろいろ言いたいこと尋ねたいことが山盛りで、三人の子分たちは半ばパニックだ。財前は、まぁ落ち着けと彼らを宥めた。

「心配かけて悪かったな」


 実は、と筒井が言葉を継いで説明したところによると、財前は今朝から体調が優れず、総会に出席する準備をしている途中で倒れてしまったそうだ。この日は牟田ではなく筒井が付き従う予定で待機していたので、彼が慌てて救急車を呼んだのだという。

「実はこの病院で二ヶ月ほど前に癌の宣告を受けてな。すぐに治療を始めろと言われたんだが、なかなかそうもいかなくてなぁ。救急車で運び込まれたあと、先生に叱られたよ。まぁ要するに、あと半年ぐらいだそうだ」

「そんな……」

 全員がショックで黙り込む。


 だが、牟田だけは知っていた。既に聞かされていたのだ、二ヶ月前のあの夜に。

『俺もそろそろ年貢の納め時ってことだなぁ。まぁ、こんな世界でよくも長生きできたもんよ』

 さばさばとした表情で笑っている財前に無性に腹が立って、悲しくて、悔しくて、その後一人でヤケ酒を呷った。そして、猫になった。


「宣告を受けたあと、いろいろ考えてな。俺ももう歳だし跡目を継ぐ息子もいねぇ。おまえらに託す選択もあったが……組を畳むことにした」

 兄貴分の轟にだけは内々に相談していたらしい。

「それじゃ何で俺たち裏切ったって疑われたんだ?」

「は? 裏切った? って誰が」

 近藤のセリフに筒井が素っ頓狂な声を上げた。

「俺たち、轟の若い奴に捕まって車ごと沈められそうになりました」

「昇龍側に寝返ったって郷田さんに吹き込まれた、とか何とか」

「総会をばっくれたのが証拠だって」

「いや俺、病院に着いたあと、今日の総会は欠席するって轟の伯父貴にすぐ電話で知らせてあったし。それが何で裏切り行為って話になったんだ?」

 何も知らずに病院で付き添っていた筒井は不思議そうに首を傾げる。

 だが、その傍らで、財前がなるほどなぁと頷いた。

「実はちょいと前に……そうだ、ちょうど俺が癌宣告を受けた何日かあとだったな。牟田の名前がメールだか電話だかで、昇龍会側の取り引きの際に使われたことがあったみたいでな。要するにあいつ携帯を落っことしちまったみたいで、誰かさんにそいつを拾われたんだろうな」

(……面目ない)

 賢介の懐の中で聞き耳を立てていた牟田は、心の中で詫びた。


 帰宅してすぐに発熱して寝込んだせいで、番号の切り替えなどの手続きは数日経ってからしかできなかった。その間に、運悪く牟田の名を知っている人間の手に渡ってしまい、利用されたのだろう。

 正龍会連合と昇龍会連合は元々同じ組織だった。跡目争いから本格的な抗争に発展し、分裂したのは財前たちがまだ若かった頃の話だ。その後、暴力団規制法の締めつけなどにより表面的には落ち着きを取り戻し、互いに不可侵を保ってはいるものの、反目し合っている状況は変わらない。

 より狡猾に、密やかに目立たず、悪意を浸透させていく方法に切り替わっていっただけのことだ。


「誤解はすぐに解けたが、まぁそんなこともあって余計に組を畳むためには根回しが必要だった。その準備をしていたわけだ。おまえたちの今後のことも含めてな」

 この特殊な世界から離れたいと思う者は自由にしていい。残りたい者は居場所を確保してやる。そのために各所に頭を下げて回っていたのだ、と財前は明かした。

「ところでヨシは一緒じゃねぇのか」

「俺も探してたんスけど、昼間から姿が見えなくて」

 賢介の答えに財前と筒井が顔を見合わせる。

「実は俺も今朝からずっと電話してるけど、ちっとも繋がらねぇんだよ」

 筒井が不安そうにつぶやいた。

「まさかヨシさん……本当に、あっちに」

「バカおまえ、何考えてんだ」

「だってオヤジが倒れたのに、いまだに姿見せないなんて絶対おかしいじゃねーか!」

「だからって滅多なこと口にすんじゃねえッ! シバくぞ!」

 大声で喚く篠原を近藤が小突き回す。

「ニャアッ!」(俺がそんなことするかよ!)

 思わず、牟田は叫んでいた。

「……猫?」

 ジャンパーの襟元からちょこんと顔を出したキジトラを懐から出した賢介が、ヨシさんの猫ッスと告げる。

「アパートにいたんで連れてきちゃって」

「こいつ勇敢なんスよ。俺たちが銃で脅されてたら、そいつに飛びかかって」

「あんときはもうダメだと思ったけどなぁ」


 険悪になりかけた場の空気が和むのと、面会時間終了のアナウンスが流れだしたのはほぼ同時だった。

『午後七時をもって本日の面会時間は終了となりましたので、面会者の皆様は退室をお願いいたします』

 それを待っていたかのように、病室の引き戸がガラリと開いて看護師が顔を覗かせた。

「大きな声を出さないようにお願いしたはずですが。もう面会時間終了ですから……」

 その目が牟田を捉えて、ピクリと眦を吊り上げる。

「猫? 院内への動物の持ち込みは禁止ですよ!」

「あっ、すみませんすみません」

 これには訳がと焦る賢介の隣で、牟田自身も焦っていた。

(まずい…………この感じ、もしかすると……)

 じわじわと身体の芯から熱が湧いてきて、全身の毛穴が開いていくような感覚。

 もう三度目だ。分かる。来る。

(やべぇ、このままだと……)

「早く出てってください! 皆さんは今後、面会をお断りさせていただく――――」

 看護師の言葉が途中で途切れた。


(あああ…………)

 身体の変化を感じる。

 こちらを見つめている看護師も仲間たちも全員、まん丸に目を見開いて固まっている。

 わずか十数秒の出来事が、永遠に思えた。


「……すげぇ。猫がヨシさんになった」

 賢介がぽつりと漏らした一言が静寂を破り、次いで看護師の悲鳴が院内に響き渡った。

 いったい何事かと慌てて押し寄せた病院関係者たちが、病室内に全裸でうずくまっている男を発見してから、しばしの間、大騒動であった。




        ※        ※        ※




 それから三ヶ月後。

 治療を続けていた財前は、緩和ケアの病棟へと移っていた。


 今回の騒動で先走った金本と、裏で策謀した郷田には何らかのペナルティが課せられたはずだが、牟田たちはあまり詳しく聞いていない。

 彼らはもうすでに部外者だからだ。


 近藤は故郷に戻るつもりだと言っていた。ずっと親不孝をしてきたから合わせる顔はないと笑っていたが、それでも年老いた両親の近くにいたいのだろう。

 篠原は新宿で小さな飲み屋を始めたらしい。そのうち顔を出すと約束した。

 筒井だけは轟の口利きで他の組の世話になることを決めたようだ。今さらカタギの暮らしなどできないと思ったのかもしれない。二度と会うことはないだろうと挨拶したが、篠原の店に開店の花だけは贈って寄越したそうだ。昔のあだ名で。


 牟田も例の奇病にかかっていなかったら、筒井と同じ選択をしたと思う。

 今さらきれいな水で生きることなど許されない存在だと思うから。

 けれど、

「俺たちがやってきたことは、どう悔いても帳消しにはならん。そしりを受けるのは百も承知だろうが」

 財前にそう諭された。

「それでも命があるうちは、ちゃんと生きろ」


 やり直せなくても、取り戻せなくても、与えられた生命の火が尽きるまでは生きろと。

 育ての親からの最後の言葉だ。聞かないわけにはいかない。

「だからってなぁ、なにもおまえまで一緒に……」

 牟田は隣の席でテキストを睨んでうんうん唸っている賢介を眺めて嘆息した。

「いずれ俺がヨシさんの面倒見るって言ったじゃないッスか。だから俺も資格取ろうと思って」


 牟田と賢介は今、介護職員初任者研修を受けている。

 財前がいる緩和ケア病棟で働くのは無理でも、付き添う際に少しでも知識があった方がいいだろうし、いずれどこかの施設で同じような立場の人を世話できたらきっとオヤジも喜んでくれるだろう。もっとも自分のような人間を雇ってくれる場所があるとしたら、の話だが。

 そう思って受講を始めたら、賢介も一緒にやると言い出したのだ。


「だから俺の介護はいいっての」

「安心して任せてください。俺しっかり勉強して経験積んで、そのうち介護福祉士の資格も取りますから」

「おまえ勉強苦手だろうが。あれ国家資格だぞ」

「大丈夫ですって。任せてください」

「お調子者が」

「あ、でもひょっとして動物看護士の資格の方がいいのかなぁ」

「勝手に言ってろ」




 今後もまた猫になる日がくるかもしれない。

 でもそのとき、こいつがそばにいたら安心かな、なんてことを密かに思っている。





お読みいただきありがとうございました。

症例3は姉妹のお話です。

婚活女子の苦難の日々をぜひお楽しみください。


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