表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日わたしは猫になった  作者: 青崎衣里


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/4

症例3.柊美咲


人間が突然猫に変化する奇病、トランスキャット。

今回その病と向き合う主人公はアラサーの婚活女子です。



 オフィスのトイレは廊下の突き当り、事務所を出て給湯室の横を通り抜けた先にある。

 退社前の化粧直しを念入りに済ませた美咲がトイレから出ると、いつの間に人が来ていたのか、給湯室の照明が点いていて、賑やかな話し声が廊下にまで漏れ聞こえてきた。


「ほんっと有り得ないわ! もう腹立つ!」

 特に声が大きいのは総務課のお局、暮林だ。顔が見えなくても分かる。ということは、残りのメンツは普段から彼女とよく一緒にいる宮田と後輩の真下に違いない。


「月初でみんなが残業するって分かってるのに、よく堂々と早退の申請なんか出せるよね」

「しかもあの人、最近しょっちゅう早退とか半休取るじゃないですか。いったい何やってるんですかね」

「さぁねぇ。せめて理由が体調不良とかだったら、こっちも仕方ないって思えるんだけど」

「いや、絶対違うでしょ。メイクと髪型いつも以上に気合入ってるし」

「今日またルブタンでしたよ。靴とバッグ」

「うわ、マジで?」

「いつもブランドで固めてるわけじゃないのに、たまにそういう日がありますよね。服もワンピだし、デートかなぁ」

「どっちかっていうと男漁りじゃない? 港区女子気取ってんのよ」

「さすがに港区女子はキツイというか、無理じゃないかな。もう三十でしょ、あの人」

「え? でもまだギリ手前じゃありませんでした?」

「どのみちアラサーなんか相手にされないって」

「どっちかっていうと、パパ活とかやってそうだよね」

「あー、やってそう」

「それだ! 絶対それですよ」

「んで、そのうち高級寿司店でキレるんでしょ」

 ギャハハハと品のない爆笑の渦。

「最終的に相手の奥さんに訴えられてジ・エンドですかね」

「哀れな末路だねぇ」


(好き放題言ってくれちゃって)

 ディスりまくっている当の本人が真横の壁際にいるとも知らず、狭い区画の内側は罵詈雑言の嵐だ。扉も付いていないのに、なんと不用心なことか。給湯室の井戸端会議なんてこんなものだと悟っていても、聞いていると臓腑がマグマに焼かれてどす黒く染まっていく。

(誰がパパ活やってそうだっつーの! なめんな、クソババアども)

 口から怒りの炎が迸りそうになったが、廊下の向こうから歩いてくる人の気配に気づいて踏み留まった。角を曲がってきたのは営業の若手社員、磯村だ。美咲はとびきり明るい笑顔を振りまきながら「お疲れ様でーす」と挨拶し、靴音高く給湯室の脇を通り抜けた。


 エレベーターのボタンを押す指に無駄に力が入ってしまったが、腹を立てている素振りなど見せてやるものか。

(勝手に言ってろ。あんたたちのくだらない愚痴ややっかみに付き合ってる暇はないのよ。こっちは忙しいんだから)

 ちらりとスマホの画面を確認する。時刻は十六時半を少し回ったところだ。

 美咲は足早にオフィスビルを出て駅へと向かって歩き始めた。




        ※        ※        ※




 柊美咲(ひいらぎみさき)は商社勤務の二十九歳。

 ごく平凡な中流家庭で育った一般市民で、現在絶賛婚活中だ。

 父親は長年勤めた大手製造メーカーで昨年から再雇用中。できる限り契約を更新して働くつもりらしい。景気悪化、物価上昇が続く昨今の情勢では、とてもじゃないが呑気に余生を楽しむスタンスにはならないらしい。まだまだ楽できそうにないなぁとこぼしている。母親も老後の資金の足しにと始めたスーパーでのパートを続けていて、毎日それなりに忙しそうだ。二つ下の妹は習い事で知り合ったイギリス人男性と結婚。現在もリモートワークを続けながら、すでに二児の母親となっている。


 家族仲はまぁ悪くない方だ。独り立ちしてからも定期的に実家には顔を出しているし、特別裕福ではないけれど、ほどほどに恵まれた家庭環境だと思う。美咲自身も際立つ才能はなくとも落ちこぼれることなく、何事もそこそこの出来でこなしてきた。地元の二流私大を出て、就活も一応希望の会社に滑り込んで現在に至っている。結婚までには至らなかったが、ちゃんと彼氏がいたこともあるし、気の許せる友人だって何人かはいる。決して悪くない半生だ。

 ただ、どこか物足りないと思っているのも事実だった。贅沢だと言われてしまえばそれまでなのだが、強烈に打ち込める何かかあるわけでもなく、周囲に自慢できるようなこともない。ときどきそんな自分がひどくつまらない人間に思えてしまう。


 小学生のとき、毎回クラスに必ず四、五人は「みさき」がいた。同じ漢字の子も何人かいた。さすが平成で一番長く子供の名付けランキング一位を取っていただけのことはある。人気が高いということは、それだけ平凡で、よくある名前ということだ。だからといって自分の名前が嫌なわけではないけれど。


 わたしが、わたしである意味って何だろう。


 ふと、分からなくなることがあった。

 そんなモヤモヤを内心に抱えたまま、それでも同期や友人たちに置いていかれることだけは避けたくて、婚活を始めて二年余り。

 残念ながら、まだ成果は出ていない。




「あの……失礼ですが、柊さん、でしょうか」

 ぼんやりしていた美咲の思考を破って、突然男性の声が鼓膜を震わせた。

「あ、はい」

「よかった。本日お約束していた榎本です。初めまして」

 見上げた先に立っていたスーツ姿の男性は、名乗りながら丁寧に名刺を差し出した。

 確かにこうして直接顔を合わせるのは初めてだが、一度は画面越しに会話をしたことがあるので、もちろん顔も名前も覚えている。

「柊美咲です。本日はお時間取っていただき、ありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ。遅くなってすみません、だいぶお待たせしてしまったでしょうか」

「いえ全然! わたしの方が少し早く着いてしまって」


 そもそも時間と、このカフェを待ち合わせ場所に指定したのは美咲の方だ。

 職場を早退した彼女は電車を乗り継いで主治医のいるクリニックを訪れ、予約していた診察を受けてからこの待ち合わせ場所へとやって来たのだが、今日は午後診療の開始を待つ患者の人数がいつもより少なかったのか、約束の時間よりもだいぶ早く到着してしまった。

(まぁ今回はこの前やった定期検査の結果を聞くだけだったし)

 それでも念のために余裕を持たせて時間を設定していたので、しばらく待つのは想定内だ。


「この店、駅前で分かりやすいからいいかと思ったけど、結構混んでますね」

 JRと私鉄の乗り継ぎができる大きな駅の構内にあるカフェなので、店内はかなり賑わっていた。見渡してみても空席はほとんどなく、あちこちのテーブルから若い子たちの笑い声や年配者の声高な話し声などが響いてくる。

「でも、静かな店よりこっちの方が話しやすいです」

「確かに」

 榎本は一旦席を離れ、レジ前の列に並ぶと、数分後にホットコーヒーを手にして戻ってきた。昨今の大手コーヒーチェーン店の多くがそうであるように、ここもセルフサービス形式なので店員はテーブルまで来ないのだ。

「それで、あの、さっそくですがいろいろとお伺いしても……?」

「もちろんです」

 榎本紘一(えのもとこういち)は眼鏡の奥の目尻を下げて、何でも訊いてくださいと頷いた。

「柊さんは発症されてまだ間もないんですよね」

「……ええ、今年に入ってからです」

 彼、榎本は人間の身体が猫に変化するトランスキャットという奇病を患っている。そして、認めたくはないが、柊美咲もまた半年ほど前から同じ病に罹患していた。しかも最悪のタイミングで。


 頑張って婚活パーティーに参加してもなかなか上手くいかず、物は試しと思って始めたマッチングアプリで知り合った相手と思いのほか意気投合した。この人ならいいかもしれない。何回かデートを重ねるうちにそう思うようになり、そろそろ互いの両親と顔合わせをしましょうかと席を設けた矢先、よりにもよって先方の目の前で症状が出てしまったのだ。おかげで予約していた老舗の料亭の個室内は阿鼻叫喚。大騒動となった。


 ここ数年この奇病について取り上げるテレビ番組も多く、だいぶ周知されつつあったおかげで、美咲自身もその病名を耳にしたことはあったし、両親たちも驚きはしたもののお祓いだの占いだのに縋る前に病院を探してくれたのは僥倖(ぎょうこう)と言っていいだろう。だが、言うまでもなく婚約は白紙となった。それ以来、相手とは連絡も取れていない。


 終わった。

 わたしの結婚はもうない。絶対無理だ。


 美咲は絶望し、アプリも婚活パーティーへの参加も止めてしまった。代わりにひたすら病気のことを調べまくった。まだ治療法がないことは知られている。症状の出方には個人差があり、周期にもバラつきがあるようだ。だいたい月一程度の人もいれば、隔週ぐらいで症状が出る人、だんだん間隔が開いていって月に一度から半年に一度になった人、逆に間隔が縮まってきている人。ネットで調べただけでも様々だ。

 そのせいか「症状が出にくくなる食品」だとか「これさえやっていれば症状を抑えられる〇〇健康法」だとか、露骨に怪しい民間療法もずいぶん目にした。頭の片隅ではバカじゃないかと思うのに、信じそうになってしまう自分がいて余計に精神が抉られた。

 嘘だと分かっていても信じたいのだ。他に希望がないから。


 しかしネットを漁っていて良いこともあった。TC(トランスキャット)という特殊な病気が世間の注目を集めている今、患者やその家族が互いに支え合う自助グループがすでに全国に数ヶ所あり、医療機関によるサポートも始まっていることを知ったのだ。

 榎本は関東にある自助グループの一つに参加しているメンバーで、TC患者の結婚を考える会というのを立ち上げていた。ちなみに年齢は美咲より五つほど上で、まだ独身らしい。


「僕の場合は発症したのが高校生のときなんですが、変化している時間が短かったので周りにバレなくて、しばらくしたら症状が治まって出なくなったんです」

「それはずいぶんめずらしいケースじゃないですか?」

 自然に治まるというのはあまり聞いたことがない。

 もし本当なら非常にうらやましい話だが。

「かもしれませんね。どっちにしろその頃はまだ学会の発表もされていなかったし、僕としては単なる悪夢というか、漫画の世界みたいだなぁなんて思ってたんですけど……大人になってから再発してしまって。最初のうちは両親も信じなかったですね」

「ですよねぇ」

 再発の可能性がある以上、どのみち安心はできない。

「変化する直前って、こう……自分でなんとなく分かるじゃないですか」

「ああ、身体の奥がムズムズする感じ」

「そうそう」

「あれ嫌ですよねぇ」

 ほんとに、と苦笑交じりに頷き合う。当事者同士でしか共感できない部分を分かち合えて、心の奥底に澱んでいたものが少しだけほぐれていくような気がした。


「だから僕はタイミングを見計らって、わざと目の前で変化して見せて、ようやく信じてもらいました」

「大変でしたね」

「まぁこの病気はなかなか信じてもらえないのがネックですから。症状が出始めたばっかりの頃は特にね。柊さんもでしょ?」

「わたしは婚活相手の両親との顔合わせの席で」

「あー………………それはまた」

 榎本が思わず視線を逸らし、わずかに面を伏せた。

「はい、ご想像の通りで」

「……そうでしたか」

 そこで一旦言葉を切り、下手な慰めなどを口にしなかったことは好感が持てた。きっと彼にも何かしら覚えがあるのだろう。口先だけの同情や励ましなど残酷なだけだと知っているのだ。

「それでまぁ治療に通っているうちに何人か同じ病気の患者さんと知り合って、自助グループに参加して。去年そのうちのメンバー数人と一緒に会を立ち上げたんです」

「会員の方は全員独身なんですか」

「いえ、既婚者もいますよ。どうやったら家庭生活を維持できるか悩んでる方は多いですし、離婚された方もいますから」


 それはそうだろう。

 この病気に限ったことではないが、持病を抱えると仕事にも家庭にも大なり小なり支障は出る。ある程度周期が決まっていても突然休まなくてはならない日もあるし、検査や薬にはお金がかかる。何も知らない人からは嫌味を言われるし、知っている人からは憐みの目で見られ、望んでもいない病気を免罪符として扱っているかのように言われたりもする。責任あるプロジェクトからは外されて出世の道は遠のいていく。パートナーの家事育児の負担は当然増える。無責任な噂話には大抵尾ひれがつくし、詐欺師や宗教の勧誘が寄ってくる可能性だってある。舅や姑からは失望され、子供には不安の種を植えつけることになるかもしれない。

 良いことが一つもない。

 不安要素しかない。

 他人と暮らしていい身体じゃない。


 考えれば考えるほど暗澹(あんたん)たる気持ちにしかならないのだが、

「そう悲観したものでもありませんよ」

 榎本はおっとりした声音で言った。

「だって実際、僕らよりきつい症状の病を抱えていても自立したり結婚生活を送っている人はたくさんいるじゃないですか」

「それはまぁ……」

 確かにそうだろうけど。

「僕らに必要なのは理解です。社会全体の病気への理解、パートナーや家族からの理解」

「…………理解」


 この病気はメンタルや社会的な影響の他にも、変化による細胞へのダメージを繰り返すことで他の病気を併発する可能性が懸念されている。しかし実際のところ、猫化していないときのTC患者は自覚症状と呼べるものがほとんどない。生物としての常識を覆す極端な変化を起こしていながら、ただちに骨や内臓に大きな影響が現れるわけでもない。重篤な内臓疾患を抱えた人や癌患者に比べれば楽なのは事実だ。だからこそ美咲たちの不安は理解されにくい。



『でもさ、猫ならまだ可愛くてよかったじゃん。わたしも一度ぐらいなってみたいかも』

 妹がそう口にしたのは病院の診断結果が出た翌日のことだった。彼女なりの慰めのつもりだったことは充分理解している。でも、だからといって聞き流せるわけじゃない。

『そうね。原因がもし遺伝子異常なら、いずれあんたや、あんたの子供たちがなる可能性だってあるもんね。どんな姿になるのか楽しみね。うっかり外で変化して、間違って殺処分にならなきゃいいけど』

 自分でもびっくりするぐらい尖った声が出た。ほとんど呪詛だ。あのとき、こちらを見た妹と両親の目――――まるで初めて遭遇した怪物を目の当たりにしているような表情は、今でも脳裏に焼きついていて離れない。それでも。


(なってみればいいのよ)

 そう思う自分がいる。一度でも体験したら分かるはずだから。身体が勝手に自分ではない存在へと変化し、近しい者にすら自分だと認識してもらえない恐怖を。元の自分と猫化した自分、その比重がいつか逆転するのではないかという不安を。

 けれど、大抵の人は物事の表面しか見ない。



「たとえ身内でも結局は他人事ですから」

「まぁ簡単にはいきませんよね」

 榎本は眼鏡の奥の細い目をさらに細めて笑った。

 虚無感を漂わせた乾いた嗤いではなく、どことなく達観したような笑みだ。

「なぜ……諦めようと思わなかったんですか」

 美咲の問いに、彼は一瞬「ん?」と小首を傾げた。

「これまで頑張ってきた仕事も結婚も、全部。どうせ上手くいくわけないって諦めそうになってるんですけど、榎本さんはそうは見えないから……ご自分で会まで立ち上げてるし、周知活動も積極的に行われているみたいだし。どうしてそんなに積極的になれるのかなと思って」

「んー…………」

 ストレートな問いかけに彼はしばし天を仰いだあと、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「投げやりにならなかったとは言いませんよ、僕も」

 少し癖のあるやわらかそうな髪をわしゃわしゃと手で掻く。

「しっかり絶望して仕事辞めようかと悩んだし、結婚なんて絶対無理だろうなと一度は諦めたし。それが普通でしょ?」

「……ええ」

「でもさ、諦めても僕らの人生は続いていくんですよ。この先も」

 今のところTCが原因とされる死亡例は不運な事故を除いて一件も報告されていない。指定難病だが、死ぬ病ではないのだ。

「それなのにずっと不幸オーラを纏って鬱々と過ごしていくなんて嫌じゃないですか」

「……まぁ……そうかも」

「なんせ僕、十六の時からなんで。もう二十年近く付き合ってるんですよこの病気と。こいつを理由に将来のことをうじうじ悩んだり、諦めて言い訳するのにも疲れちゃって。特にWHOの発表があって病気と認定されてからは、もう開き直ってもいいかなぁと思えるようになったんです」

「…………」

 二十年。とても長い孤独な時間だ。この人は押しつぶされそうな不安を抱えて、どれだけの夜を重ねてきたのだろう。たった一人で。


「例に出しちゃうと失礼かもだけど、たとえば手足や指の欠損ありで生まれてきた人は、そのせいで難しいことや挑戦できないこともあるかもしれないけど、その姿形は単なる個性でしかないじゃないですか。背が高い低いと同じで、その人にとってはそれが当たり前っていうか。僕らの猫化もそういったものと同じだと考えれば少しは気が楽になると思うんですよ。まぁその代わり言い訳にも使えませんけど。だって普段は健常者と大差ないですから」

「……はぁ」

 さすがに少し大雑把すぎるのではと思ったら、どうやら顔に出ていたらしい。

「あ、もちろん! 楽になると言っても不安が全然なくなるわけじゃないですけどね! そりゃもちろん、未だにこの病気のせいで偏見の目で見られることもあるし、差別されて上手くいかないことだってあるから完全には無理ですけど」

 両手を挙げ、慌てて言い募るようすに思わず口角が緩んだ。

 まだ何も言ってないのに。


「えーと、要するにですね。僕が言いたいのは、病気でいても人生を諦める必要なんてないし、抱えているつらさとか不安で仕方ないことは全部口に出して、周りに伝えていけばいいんじゃないかと思うんですよ。だって言わなきゃ伝わらないですもん。世界中の人に分かってもらうのは無理でも、身近な人にはやっぱり分かってもらいたいじゃないですか。だったら、できるだけ伝えていきましょうよ。そうして理解してくれる人とだけ繋がっていけばいいんじゃないかなって…………僕は、そう思うんです」

 口をつけていないコーヒーが冷めていくのと反対に、彼は熱弁を振るった。懸命に絞り出すような話し方から察するに、本来はさほど饒舌なタイプではない気がする。ただ一生懸命なのだ。わたしに伝えようとして。


「やさしいんですね」

 ふと、そんな言葉が口の端からこぼれ落ちた。

「へ?」

「……いえ、わたしもそんなふうに思える日が来るのかなぁと思って」

「来ますよ! というか、そう気構えずに、とりあえずみんなの話を聞くだけでもいいので、ぜひ一度参加してみませんか。あ、これ、前にお話したパンフレットです」

 榎本は鞄を開けて、ガサゴソと数冊のパンフレットを取り出した。

 自助グループの活動を載せている情報誌と、行政が発行しているサポート施設案内のしおり。そしてもう一冊は彼らが開いている会の手作り広報誌のようだ。

「自助グループの会合はだいたい月に一度、市の施設で開かれています。ネットで予約できますので、いつでも参加可能ですよ。僕らの会はこの前みたいに基本ウェブで語り合うのがメインなんですけど、半年に一回は直接メンバーが集まる機会を設けています。もちろん女性も大勢いますから安心してください」

「ありがとうございます」

 美咲はそれらの冊子を抱えて、帰路に就いた。




        ※        ※        ※




 複雑な気持ちを抱えたまま電車に揺られ、駅からの道を十五分歩いてたどり着いた五階建てワンルームマンションの一角。

「あー、やっと帰ってきたー。お帰りぃ。遅かったね」

「……桃花(ももか)、なんでいるの」

 玄関ドアの前で座り込んでいる妹を見て、美咲のテンションは一気に急降下した。

「LINE送ったじゃん。見てないの?」

「見てない。忙しかったから」

 短く言い捨て、ツカツカと靴音高く歩み寄る。

「あー、残業?」

「月初だからね」

「ふぅん」

 ガチャガチャと音を立て、やや乱暴に鍵を開けた。苛立ちがどうしても動作に現れてしまう。入ってきて欲しくはなかったが、妹は当然のように後に続いて玄関に入ってきた。しかもその手には大きめのトートバッグを抱えている。

(こいつ、もしかして……)

 嫌な予感しかしない。


「お気に入りのワンピ着てるからデートかと思ったのに」

「は? いつ何を着ようとわたしの勝手でしょ」

 同僚たちに揶揄されたブランドの靴やワンピースは以前彼氏とデートするとき用に買ったもので、例の両親顔合わせの席でも着ていた服だ。見るとどうしてもあの日のことを思い出してしまうので普段着ることはないが、定期検査で病院に行ったりメンタルサポートを受けに行くときはしっかり自分の病気と向き合うため、気合いを入れるつもりで敢えて袖を通している。今日はまさにそういう日だったのだ。


「それで? こんな時間に何しに来たのよ」

「だからぁ、今晩泊めてよ」

 部屋の隅に荷物を放り出すと、家主より先にソファに身を投げ出して桃花は堂々と告げた。悪い予感ほどよく当たるものだ。

「はぁっ!? 嫌よ。何で?」

「前にも話したじゃん。今、旦那の家族が日本に遊びに来てるのよ」

「わざわざイギリスから?」

「そう。わざわざ孫たちの顔を拝みに。ついでに日本観光もしたいって先週から居座ってんの。熱海とか京都とか、あちこち遊びに行ってたからその間はよかったんだけどさ。帰る前にまたこっちに戻ってきて、今日と明日はうちに泊まるんだって」

「あ、そう。だったらよけい外泊はまずいんじゃない? 嫁としてちゃんとお世話してあげなさいよ」

「えー、やだよ。あたし別にあの人たちの家に嫁いだわけじゃないもん。マイクと結婚しただけだもん」

「同じでしょ」

「同じじゃないよー。そもそも嫁はお世話係じゃない」

 桃花のこういうキッパリしたところがうらやましいと思わなくもない。

「だからってなんでうちに来るの。ホテルにでも泊まりなさいよ」

「いいじゃん。明日、土曜日なんだし」

「迷惑だって言ってるの! いきなり連絡もなしに押しかけて来て」

「連絡はしましたー! 昨夜からメッセージ送ってたのに見なかったのそっちじゃん」

「だからってねぇ、あんた」


 こういうところは子供のころからちっとも変わっていない。結局いつも我を通すこの妹に押し切られるのだ。

「まだ小さい子供がいるのに。一晩放っておくなんて」

「いいのいいの。うちの旦那、ちゃんと育児できる人だから。そういうふうに仕込んだし」

 世間からは圧倒的に避難されそうだが、桃花はケロリとして答えた。

「自分の子供なんだから一晩くらい責任持って面倒見られなきゃまずいでしょ」

「……相変わらず能天気ね」

「そ? それにさ、あたしがそばにいない方がジジババも好きに孫を構えるから喜んでると思うよ」

「だといいけど」

 美咲は深々とため息を漏らしてから、あんたの布団はないからねと宣言してバスルームに向かった。


 着ていた服を洗濯カゴに放り込み、軽くシャワーを浴びる。パジャマ代わりのスウェットを身につけ、濡れた髪にタオルを巻いて部屋に戻ると、妹はちゃっかりテーブルにコンビニ弁当を広げて食べていた。占拠されたソファの上に広げてあるのは寝袋だろうか。

「準備万端かい」

「だって、あたしのご飯まで用意してくれないでしょ」

「当然」

 美咲は冷蔵庫から缶チューハイと冷凍のドリアを取り出し、レンジで温めている間に缶のプルトップを開けた。

「で、本当はどこ行ってたの?」

 白米を頬張りながら尋ねる妹を「べつに」とはぐらかす。が、どうやら彼女の方が一枚上手だったらしい。

「TC患者とその家族のための自助グループ、ひだまりの会……か」

 はたと気づいたときにはもう先程もらってきたパンフレットを手にした桃花が、パラパラと中身を眺めながら読み上げていた。


「ふーん。ご自身の状況を口に出して第三者に語ることで心の整理がついたり、客観的な視点を得ることができます、だって」

「ちょ……」

「TC患者の結婚を考える会! こんなのもあるんだね」

「あんたねぇ勝手に」

「もしかしてこれに行ってたの?」

「主催者の勤務先がたまたま病院の近くだったから話を聞きに行ってただけ。悪い?」

 吐き捨てながら、手の中のパンフレットを奪い取る。

「いーや、全然」

 露骨な態度を取られても桃花は嫌な顔一つせず、ぺろりと平らげた唐揚げ弁当の容器をビニール袋に突っ込んで、ごちそうさまでしたと手を合わせた。

「コンビニ弁当もたまに食べると美味しいね」

「あ、そう」

 一人暮らしの美咲はしょっちゅうコンビニのお世話になっているが、二児の母である彼女はおそらく毎日三食手作りが基本。手抜きしたくてもなかなかできないのだろう。歳もほとんど離れていない姉妹なのに、何もかも正反対の二人だ。


 彼女は特別学業優秀だったわけではないが、好きなもの、興味が向くものに対する集中力が高く、飲み込みが早いタイプだった。海外ドラマに嵌って突然英会話の勉強を始めたと思ったら、いつの間にかTOEICで800点取るようになり、最終的には900点を超えていた。ちなみに夫はその英会話スクールの講師だ。

 将来は専門学校に行って通訳者にでもなるのかと思っていたが、そんなに簡単なものではないらしく、大学卒業後は外資系企業の広告宣伝部で働いている。育休が明けたあともリモートワークを認めてもらっているため月に数回出社するだけで、あとは在宅勤務らしい。なんとも羨ましい話だ。商社勤めとはいえ配属部署は一番地味な総務で、出世の見込みがないどころか、病気のせいで辞めなくてはならないかもしれない自分とはあまりにも違いすぎる。ここからさらに差がついていくのかと思うと、どうにもやるせない想いが募った。


 黙々と冷凍ドリアを食べ、缶チューハイを呷る。

 あんまり味がしない。沈黙が刺さってイライラする。


 美咲が食べている間、桃花は黙ってスマホを眺めていたが、味気ない夕飯はすぐに終わってしまったので空の容器と缶を片付けようと立ち上がったとき、くすりと笑って「子供たちもう寝たって」と要らない報告をしてきた。

 きっと旦那とLINEでやり取りしていたのだろう。

「気になるならさっさと帰ればいいのに」

 これは嫌味ではなく本心だったが、桃花はゆっくりと頭を振った。

「あたし抜きで、本音で話し合って欲しいからさ」

 その表情は意外なほど真剣だ。

「……何? 何か問題でもあんの?」

「ないよ。今のところは。可能性の話だからね」

 彼女もすっくと立ち上がりキッチンまでやって来ると、電気ケトルに水を足してスイッチを入れた。

「コーヒー淹れるね」

「ああ……うん」

 彼女の言葉に引っかかりを覚えて、一拍置いてからハタと気づいた。


「ねぇ、あんたもしかして」

「話したよ、お姉ちゃんのこと。マイクの両親にも」

 ああ、そうか。そういうことか。

 美咲は暗い海の底に沈んでいくような気持ちに襲われた。

 原因不明の奇病難病。まだ確定ではないが、この病気は遺伝性疾患ではないかと疑われている。もしそうなら患者の家族は当然発症リスクが高く、そして時に、発症していなくても差別は始まるのだ。


「旦那に何か言われた?」

「ううん、何も。でもお姉ちゃんが前に言った通り、あたしや子供たちにリスクが皆無なわけじゃないでしょ」

 暗い感情に囚われて投げかけたセリフが、呪いとなって妹にこびりついてしまったのだろうか。そう考えると後ろめたさでギュッと胸が圧迫される。

「そんなのまだ分かんないじゃない。原因が確定したわけでもないのに」

 自分で放った言葉だというのに、美咲は動揺した。

「万が一症状が出たら話し合えばいいんじゃない?」

「それじゃ遅いよ」

 きっぱりと桃花が返す。

「わたしね、すごくショックだったんだ。あのとき」

「…………」

 彼女が何を言いたいか分かる。自分の不幸を振りかざして家族に八つ当たりした、あの日のことを詰りたいのだ。おまえのせいでわたしたち家族まで追い詰められているのだ、と。

 だが、あとに続いたセリフは美咲の予想と大きく違っていた。


「お姉ちゃんに言われて初めて気づいたんだよね。自分がその可能性を一ミリも考えてなかったことに。その迂闊さが自分でもびっくりするぐらいショックだった」

「……え?」

「そもそもTCじゃなくてもさ、人間いつ大きな病気にかかるかなんて分かんないじゃない? 運次第だし。でもさー、自分で言うのもなんだけど、若いうちって変に自信があってなかなかピンとこないんだよねぇ。自分が突然動けなくなったり、今とは違う立場に陥る可能性があるって頭では理解してても、きちんと想像できないって言うか。あたしもお姉ちゃんのことがなかったら全然考えなかった。そのことに気づいて、えっ、ヤバいじゃんって思ったの」

 棚からマグカップを取り出し、インスタントコーヒーの粉を入れながら桃花は淀みなく話し続ける。

「だって独身のときならいざ知らず、あたしたちにはもう守らなきゃいけない存在が二人もいるんだからさ」

 カップにお湯が注がれ、あたたかい湯気とコーヒーの香りが台所にふわりと広がった。


「ま、まぁ……でも普通はそうなんじゃないの」

「うん。でも気づけた。お姉ちゃんのおかげで」

 はい、と手渡しされたカップを受け取る。手のひらがじんわりと温かい。

「だったら、この機会にしっかり考えようって思ったの。保険とか貯金のことも含めてだけど、もしもが起こったときに家族としてどうサポートするか。何をどこまで自分たちできるか。もしもの内容によって、どこを頼るか。過度に心配する必要はないけど、想像して、自分の身に置き換えて考えてみるのは大事なことだと思うんだよね」

「…………」

 ときどき、この妹には驚かされる。

(責めたっていいのに、自分のことしか考えてないって。なんで反省の材料にしてるのよ)

「それにさ、地域によってはTC患者やその家族に対する差別がきついところもあるみたいだから、彼の家族に打ち明けて、もしもあなたたちがそういう態度ならこっちにも覚悟ありますって宣言はしておいた」

 どう返事をしていいか分からず、棒立ちになっている美咲に向かって妹はしれっと付け加えた。


「ちょ、ちょっと、そんな……」

(遠路はるばる海を越えて孫の顔を見に来た老夫婦にそんなこと言う?)

「もちろんマイクとはすでにこの話、何回かして決着はついてる。彼は百パーセント妻と娘たちを守ると誓ってくれました。たとえ彼の親兄弟が反対意見でもね。そしてもちろん、あたしも彼を守るよ」

「…………あんた……ずいぶんカッコいいこと言うわね」

「そう?」

 この強さが欲しい。そう思いかけて、いや違うなと考え直した。


 美咲が婚活を始めたのはなんとなく抱いている価値観のせいで、独身のままなのは寂しいとか、周囲に置いていかれるようで嫌だという実に消極的な理由だ。バリバリ働いているキャリアウーマンなら結婚していなくても言い訳が立つけれど、自分程度ではそれほど仕事に打ち込んでいるとは言い難い。いつまでも独身だと、モテないのねと嗤われてしまう気がした。結婚できないのではなく、結婚していないだけだと言い張っても空しいだけだろうと思った。

 とはいえ運命はそう簡単に理想の相手と巡り合わせてはくれない。街で声をかけてくる男は論外。仕事先で知り合って話が合うと思った男性に年齢を訊かれて、答えた途端にくるりと背を向けられたこともある。焦りを覚えて婚活を始めたものの最初はやっぱり上手くいかず、学生時代はそこそこモテたのにどうしてだろうと悩んだりもした。アプリのおかげで奇跡的にウマの合う相手が見つかって、手を打とうかと思った矢先に病気が見つかって話が流れた。悲劇的だ。


 けれどもし、発症のタイミングが少しズレていたら?

 あるいは発症したのが自分ではなく妹だったとしたら?

(わたしには無理かも)

 桃花のような考え方はできないだろうし、きっとこんなふうに肚も座らないだろう。相手から離婚を突きつけられて被害者意識で妹を責めてしまうかもしれない。

 そして逆に、もしも結婚相手が発症していたら自分は逃げ出さずにいられただろうか。


「……わたしもちゃんと考えたことなかったなぁ」

 SNSで愚痴の的となるダメ夫たちは大抵妻のことを自身の付属品のように扱っている。生活のあれこれをやってくれるのが当たり前、自分を優先してくれるのが当たり前、仕事と家庭の両立を自分はしないのに妻だけはやって当たり前。結婚式で「病めるときも健やかなるときも」と誓うのに、妻が病んだら離婚届を渡して終わり。障がいを抱えた子供が生まれたら一緒に放り出す。そんな人の話をたくさん目にした。

 結婚相手が「人生の伴侶」ではなかったからだ。

 そういう男性はきっとパートナーではなくガイドを希望しているのだろう。まるでマラソンの伴走者のように自分の代わりに道に歪みがないか注意を払い、当たりそうな枝葉を除けて、必要な物を用意して差し出してくれる。ひたすら自分のペースに合わせて付き従ってくれる、そんな存在を。


 でも、それならば自分もあまり強く非難はできない。なぜなら婚活しているとき求めていたのは支え合うパートナーではなく、将来に対して漠然とした不安を抱く自分を助けてくれる「安心材料」だったのではないかと思うからだ。

 もちろん当時そんなふうに思って相手を探していたわけではないけれど、改めて今考えてみると、ただ寄りかかれる相手を求めていただけに過ぎない気がする。

(非モテと思われたくないから婚活って選択だったし)

 我ながら、ちょっとダサいかも。

 もちろんきっかけがどうでも、一緒に暮らしていく日々の中でちゃんと家族になっていくことができたら、どんな嵐が来たとしても乗り越えることができるはずなのだが。桃花たちのように。


「あんたを少し尊敬するわ」

「えへへ。もっと褒めてくれていいのよん?」

「それはない」

「えーっ、めずらしく真剣に考えたんだからもっと盛大に褒めてよぉ」

「自分でめずらしくって言っちゃってるし」

 互いにクスクスと笑い合ったあと、桃花がやや表情を改めて、よかったと安堵の息を漏らした。

「実はさ、ヤケクソになって変なのに引っかかってないか、ちょっとだけ心配してたんだ」

「わたしが? 変なのって何よ」

「お姉ちゃん知ってる? 最近マッチングアプリとかSNSを使ってTC患者を誘い出して誘拐するグループがいるって話」

「げっ、何それ……」

「猫好きをやたらと強調したり、自分自身もその病気の患者だと偽って相手を安心させて呼び出して、連れ去るんだって。監禁して、国内外の変態に売りつけるらしいよ」

「はぁっ!? 嘘でしょ」

「海外では実際に摘発された組織があるみたい。日本ではまだ噂レベルだけど」

 自分自身も患者だと偽って相手を安心させて――――

 頭の中にそのフレーズが響いた瞬間、ゾッと背筋が震えた。

 だが、

「あ、お姉ちゃんが今日会ったグループの人は大丈夫じゃないかな。さっき調べたけどサイトの連絡方法も報告もきちんとしていてオープンだし、この会について語っている人も結構いて評判は悪くなかったよ」

「……うん。だよね」

 もちろん直接会う前に自分でも調べたし、いきなり会ったわけではない。事前に連絡を送り、日時を決めて複数人とビデオ通話アプリで会話したときには女性メンバーも含まれていた。ためらいがあって一度直接会って話が聞きたいと言い出したのは自分の方だし、他人の目がある場所での待ち合わせを条件に出して、相手がすんなりOKしたから信用して出向いたのだ。

 とはいえ、まさかそんな犯罪が横行していようとは思ってもいなかった。


「そもそも誘拐の目的って何?」

「めずらしいペットみたいな感覚じゃない? 希少価値があるって考えらしいよ」

 先日、海外のニュース番組で取り上げていたらしい。

「絶滅危惧種扱いかよ」

「あと、猫から人に戻るときの姿に興奮する変態がいるんだって」

 悪寒が全身に回りそうだ。

「うわ、キッショ…………人として完全に終わってる」

「だよねぇ」

 美咲は頭を抱えたまま、チラリと隣に立つ妹を見遣った。

「それであんた、心配してようすを見に来てくれたの?」

「LINEで尋ねてもお姉ちゃん本当のこと言わないだろうし、あたしの忠告なんて聞いてくれないだろうなぁと思って」

「…………うん」

 確かに。その読みは当たっている。


「ま、原因はほぼあたしにあるからしゃーないけど。それにあたしもあっちの両親とずっと一緒はしんどいから息抜きしたかったし、ついでに病気のことを旦那と両親に語り合って欲しかったのも本当だから、いろいろ重なって都合がよかったんだよ」

「なるほどね」

「分かってくれた?」

「うん」

「じゃあ、真面目な話はここまで――――で……」

 桃花の視線がピタリと冷蔵庫を捉えた。

「せっかくだし久しぶりに酒盛りしない?」

「あんた冷蔵庫の中、見たわね?」

「見た」

 実は野菜室の中に先週買ったばかりの赤ワインが入っているのだ。国産の安物だが味はわりと気に入っている。

「ツマミは?」

「あるよ~! サラミとナッツ買ってある」

「ならば良し」

 その夜、二人はくだらないおしゃべりを楽しみながらボトルを空けた。





 余談だが、翌朝ベッドで目が覚めたとき、美咲の身体は茶白のマンチカンに変わっていた。

 これまで比較的周期は安定していたのだが、何が刺激になったのか、予定より一週間ほど早く来てしまったようだ。しかも夜中のうちに変化したことはこれまで一度もなかったので、この姿で目覚めるのは初めての体験だった。

(週末で助かった)

 万が一、平日にこうした事態になってしまうと非常にまずい。突発休はできるだけ避けたいのに、会社に連絡しようにもこの小さく丸っこい肉球ではメッセージすら送ることができない。無断欠勤は一発で最低評価、くり返せば即解雇だ。

「やっぱ可愛いなぁ~~~」

 猫好きの妹は大喜びしているが、撫でられて気持ちよくなっている場合ではない。

「この短い手足がいいよねぇ。So cute!」

(……あ。そういえばうちの課長も猫飼いで、超が付く猫好きだったな)

 今までは家族以外、絶対誰にもこの秘密を知られたくないと思っていたが、生きていくためにはそうも言ってられないかもしれない。


『――――全部口に出して、周りに伝えていけばいいんじゃないかと思うんですよ。だって言わなきゃ伝わらないですもん』


 昨日聞いた榎本のセリフがふと脳裏に甦ってくる。

(そうだよね。病気になったのだって、わたしのせいじゃないんだから萎縮する必要なんてないんだし)

 もちろん心ない言葉を発する人もいるだろうけれど。




(ま、やるだけやってみますか)

 妹の手に撫でられながら、美咲はゆっくりと決意を固めていった。





お読みいただきありがとうございました。

症例4は思春期真っ只中、悩める男子中学生のお話です。

ぜひよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ