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あの日わたしは猫になった  作者: 青崎衣里


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症例2.牟田嘉彦 (前編)

人間が突然猫に変化する奇病、トランスキャット。

その病にかかった一人は裏社会に生きる男性でした。





 玄関の呼び鈴が鳴った。

 続けて二度、三度。

 無視していたらそのうち諦めて帰るかと思ったのに、今度はドアノブをガチャガチャと回している音がする。どうやら宅配便やセールスではなさそうだ。


(まさか、とは思うが……)

 牟田は念のためソファの脚の下にあるわずかな隙間に身を隠した。

 すると間を置かずにガチャリと解錠する音が響いて、玄関のドアが開いた。

「ヨシさーん、いないんスかぁ?」

 響いてきた声の主には嫌というほど心当たりがある。

(あいつか。また勝手に合鍵作りやがったな!)

 おかげで緊張は一気に解けたが、同時に怒りがこみ上げてきて毛を逆立てた。だが今は、物音ひとつ立てるわけにはいかない。


「どこ行ったんだろ。買い物かなぁ」

 独り言をつぶやきながら勝手に部屋に上がり込んできた男は、ガサガサ音がする袋をローテーブルに置くと、安物の二人掛けソファにどっかりと腰を下ろした。

「せっかく一緒に食おうと思って、たこ焼き買ってきたのに」

(頼んでねぇよ。いいから、そんなの置いてさっさと帰れ!)

 思いきり怒鳴ってやりたいが、それはできない。


 今は――――猫だから。




        ※        ※        ※




 牟田嘉彦(むろたよしひこ)は現在五十三歳。職業を尋ねられたときは小さな事務所の営業職と答えているが、その事務所とは所謂反社、指定暴力団の傘下に与している。ヤクザの世界に足を踏み入れたのは十八歳のときだ。

 事あるごとに殴る親の元から逃れて十七で故郷を飛び出し、誰にも頼らず、一人各地を転々とした。スリや万引、置き引き、カツアゲ。食うためになんでもやった。潜り込んだ不良グループとのケンカ、仲間割れ、縄張り争い。生傷の絶えない日々を繰り返すうちに規模の大きな半グレ集団に目をつけられて、間一髪のところを命からがら逃げだした。


 そんなとき偶然出会い、行く当てのない彼を拾ってくれたのが組長の財前喜一郎だ。

 財前は昔気質の男で礼儀作法やしきたりにはうるさいが、普段はやくざ者とは思えないほど温厚で腰が低い。人を信じず、気の荒い野良猫のようだった牟田にも、生まれて初めてやさしさや気遣いを教えてくれた人物だ。だから十八の誕生日を迎えてすぐに親子の盃を交わした。自分にとっては財前こそが本当の親だと、今でも思っている。


 とはいえ足を踏み入れた先は、世間様に後ろ指をさされる稼業。いくら組長が温厚な性質でもシノギはきれいごとでは済まされない。わずか五人しかいない小さな組事務所だからこそ、上に納める金のためには口では言えない汚いことも非道なこともやってきた。バブルの頃は浮かれている連中を相手に荒稼ぎをしたし、泡が弾けて不景気になってからもネオン輝く繁華街の裏で荒事をくり返し、他人の人生を狂わせてきた。

 自分は最低の人間だし、塵屑(ゴミクズ)のような人生だと自覚している。

 だからこれは、罰なのかもしれない。



 牟田嘉彦が謎の奇病と噂されているTC(トランスキャット)を発症したのは二ヶ月ほど前に遡る。最初は悪い夢だと思った。


 ヤケ酒を呷って泥酔した日の翌朝、飲み屋の裏のゴミ捨て場で目が覚めた。呆然としていたら、ゴミを捨てに来た年寄りに追い払われて繁華街の裏路地を彷徨い歩いた。誰にも言葉が通じないし、目線がいつもよりずっと低い。視界に入る自分の手足がどう見ても獣のそれだし、何より発する声が「ニャア」とくればもう答えはひとつだ。

(こりゃあ……夢だな)

 うん、間違いない。そう思った。


 それでもあちこち歩くうちに腹は減るし喉は渇くし、どこに行ってもくつろげない。最悪だったのは他の猫たちに絡まれて、思いきり爪で引っ掻かれたことだ。終いには噛みつかれそうになり痛烈な猫パンチで応酬したが、彼らにも縄張りがあり、よそ者を威嚇するのは当然のことなので、素直にその場を明け渡して立ち去った。

 猫たちの渡世も人間同様、世知辛い。

 結局元の場所まで戻ってきた彼は、ゴミ捨て場の片隅でうずくまって一日過ごした。そのうち雨まで降ってくるし、いつまで経っても覚める気配がなく、この悪夢はいったいいつまで続くんだと絶望しかけた翌日の朝。

 ようやく雨が止んでうっすらと空が白み始めた頃、仄昏い冷気の中で牟田は唐突に人間の姿に戻った。


 少し身体がムズムズする、おかしい、腹の中が熱い気がする――――なんてことを思って戸惑っているうちに、元に戻っていた。全裸だった。猫の毛はどこにも生えていない。人の皮膚だ。顔も髪も触って確かめた。ちゃんと人間だ。

(…………戻った!)

 喜びも束の間、すぐに不安と戸惑いが湧き上がってくる。

(いや待て、これ……夢じゃないのか?)

 そんなバカな。

 狼狽えつつ視線を泳がせると、前日の夜、自分が身につけていたシャツやスーツ、革靴がゴミ袋の山の向こうにそっくりそのまま落ちていることに気がついた。濡れてびしょびしょだし、酷く汚れているが、全裸で歩くわけにもいかない。訳がわからず混乱しながらも、とにかく家に帰らなければという思いで必死に袖を通した。

(冷てぇ……)

 水分を含んだ布がずっしりと重く、肌に張りつき、さらに身体の熱を奪う。

(夢にしちゃリアルすぎだろ)

 寒さで全身が(おこり)のように震えた。


 しかし問題は衣服だけではなかった。

 ズボンのポケットにアパートの鍵だけは残っていたものの、上着の内ポケットに入れていたはずの財布と携帯がなくなっていたのだ。周囲を見回してみても、どこにも転がっていない。きっと店を放り出される前か、連れ出された直後に盗られたのだろう。命が盗られなかっただけ儲けものだが、スッカラカンでは電車にも乗れない。仕方なく四駅分の距離を歩いて戻った。

 結局、自宅に帰りついたあと牟田は熱を出し、しばらく寝込んだ。最悪の思い出だ。

(まさかあれが現実だなんて誰が信じるよ)


 その後、なんとか忘れようとしたが、それからひと月経たずに二度目の猫化が起こり、さすがに現実を受け入れるしかなくなった。不慣れなネット操作で調べるうちにTCの情報にたどり着き、病院で検査を受けたところ、見事に認定されてしまったのである。

 人が猫の姿に変化するという摩訶不思議な病の患者である、と。

 もちろん組長の財前にも、子分連中にも告知はしていないし、今後もするつもりはない。迷惑をかけるわけにはいかないし、万が一よそのシマの連中に漏れたら命が危うい。

(この秘密は墓場まで持っていく)

 半月ほど前、そう決意したばかりだった。



 それなのに。

 間が悪いとしか言いようがない。




        ※        ※        ※




「ヨシさん戻ってこないなぁ。先に食っちゃおうかな、冷めちゃうし」

(だから、なんでおまえは普通にウチで飯食おうとしてんだよ。自分ちに戻って食え! ていうか俺に持ってきたんなら、それ置いてとっとと帰れ!)

 図々しく押しかけてきた挙句、他人の家でくつろぎ、たこ焼きを頬張りだしたこの能天気なスカポンタンは、組で一番若手の樋浦賢介(ひうらけんすけ)という。もう二十三になるくせに、のんきで風変わりな奴だ。去年たまたま路上でチンピラに絡まれているところを助けてやったら弟子にしてくれと転がり込んできた。名前に賢いという文字が入っているのに頭が悪い。察しも悪く、気が利かない。使えないので放り出したいが、なぜか牟田のあとをついて回る金魚のフンなのである。


 前にも一度、無断で部屋の合鍵を作って上がり込んできたことがあって、さんざん怒鳴りつけたのに、どうやら凝りていなかったらしい。

「だってヨシさん、もう歳だから心配じゃないッスか。ケガしたり腰痛めてても助け呼ばないタイプだし。俺が気をつけなきゃと思って」

 叱り飛ばされてもヘラヘラ笑って、そんな寝言を口にしていた。

「俺は介護老人か! まだ早ぇよ」

「もちろん将来は本物の介護も任せてください! 俺、十歳の頃から爺ちゃんの介護やってたから慣れてますんで」

「なんだ、おまえヤングケアラーってやつか」

「そっすね」

「せっかくだが頼んでねぇよ」

「でも、俺以外ヨシさんの面倒見る人いないでしょ?」

「うるせぇ。余計なお世話だ」

 いらだちと共に吐き捨てても笑っていた。


 この男といると、いつも調子が狂う。

 だからなおさらこの奇病のことは悟られないようにと用心していたのに。

(最悪なタイミングで来やがったな、こいつ)


 ソファの下の隙間に身を潜めたまま、見つからないようにさらに壁際までじりじりと後ずさっていく。すると尻尾に何かが当たり、コロコロと音を立てた。

(……なんだ!?)

 丸い銀色の玉が、埃だらけの床の上をゆっくりと転がっていく。賢介の足下の方に向かって。

(なんでこんなとこにパチンコの玉が)

 慌てて手を伸ばしたが、間に合わなかった。

(しまっ……)

「ん?」

 踵に当たった玉に気づいて、奴がひょいと座面の下を覗き込んできた。

 ……最悪だ。バッチリ目が合ってしまった。

「にゃんこだ! にゃんこがいる!」

(うるせぇな。叫ぶんじゃねぇよ)

「えー、ヨシさんいつの間に猫飼い始めたんだろ」

(飼ってねぇし)

「野良かな? 野良だよね。おいでおいで」

(そりゃ元が俺だからな、雑種に決まってる)

「怖くないよ~、ほらほら、こっちおいで~」

 文字通り、猫なで声を出して手招きしている。

(なんだ、こいつ猫好きか。嬉しそうな顔しやがって)


 もちろんソファの下から這い出るつもりはなかったが、賢介もなかなか諦めない。

 しまいにはソファを動かして無理やり引っぱり出そうとするものだから、仕方なく脱兎の勢いで隙間から抜け出した。が、逃げ込める場所が見当たらない。元々狭いアパートだし、置いてある家具も少ない。隠れる場所などほとんどないのだ。

 部屋の中を縦横無尽に駆け巡り、必死に逃げ回ったものの、最後には賢介の手でひょいと後ろから抱きかかえられてしまった。


(あっ……よせ、こら!)

「よーしよし、いい子だからおとなしくしような」

「シャーッ!」(触んじゃねえよ!)

 唸り声を上げ、全身の毛を逆立てる。

 思いきり両の手足を突っ張って抵抗を示してみたが、相手には通じない。

「そんなに嫌がるなよぉ」

「ニャアアアアッ」(嫌に決まってんだろうが! 離せ!)

「イテテッ!」

 腹をつかんでいる賢介の手に鋭い爪を立てると、今度は首根っこをつかまれた。

「こら、痛いよ」

「シャッ!」(知るか!)

「怖がりさんだなぁ。何にもしないから大丈夫だよ」

 暴れる猫をつかんだまま寝室へと移動した賢介は、

「ヨシさーん、ちょっと借りるね」

 と独り言をつぶやいたあと、クローゼットに掛けてあったカシミヤのマフラーを勝手に引っぱり出して、くるりと猫の全身を包んでしまった。なかなかの手際の良さで抵抗する隙がなかった。


「ヴゥッ」(う…………動けねぇ)

 やわらかい布地に自由を奪われ、牟田は敗北の唸りを漏らした。悔しさを滲ませ、思いきり睨んでやっても、賢介は少しも気にすることなく猫と化した兄貴分の顔をしげしげと眺めている。

「キジトラか。いい面構えしてんなぁ」

「ヴゥゥ~~~」(賢介、てめぇ覚えてろよ)

「へへっ、なんかおまえヨシさんみたいだな」

「ニャッ」(だから本人なんだよッ!)

 そんなくだらないやり取りもそろそろ終わりにしてくれと願っていたら、誰かがドンドンドンと強く玄関のドアを叩いた。


 こちらの返事を待つまでもなく、当然のようにドアを開けてズカズカと土足で上がり込んできた男が三人。全員どこかで見た顔だ。特に、ストライプ柄のスーツにオールバックで決めている中央の男には見覚えがあった。まだ三十半ばぐらいのはずだが、上部組織の若手幹部の一人だ。組長の護衛で総会に顔を出したとき一度見かけた。確か、名は金本といった気がする。

「おう、牟田嘉彦はどこだ?」

 金本はさっと室内を見回したあと、横柄な態度で賢介に尋ねた。

「……さぁ?」

 猫を抱いたまま固まっていた賢介は、やや頬を引き攣らせながら知りませんと答えた。実際、何も知らないのだから他に答えようがない。だが幹部殿はその答えがお気に召さなかったようだ。途端に、男が履いているエナメルの靴の先端が、問答無用で賢介の腹にめり込んだ。

「ぐぇっ」

 挨拶代わりにしては容赦のないキツイ一発である。

 賢介に抱きかかえられたままの牟田も肝が冷えた。普段ならともかく、猫の姿で本気の蹴りを入れられたらひとたまりもない。


「もう一度訊くぞ。牟田の奴はどこ行った? ああ?」

「本当に……知らないッス。俺が来たときはもう、ここにいなくて」

「チッ。さっそくずらかりやがったか」

 金本は低い声音で吐き捨てると、床にまだうずくまっている賢介を冷めた眼で見下ろし、再び尋ねた。

「おまえ、あいつの舎弟だよな?」

「は、はい」

「連れてけ」

 命じられた男が恐る恐る「牟田はどうしますか」と訊き返す。

「決まってんだろ! とっとと探し出せ!」

 怒鳴られ、蹴り飛ばされた配下の二人は慄きながら賢介を両側からつかんで立ち上がらせた。それでも賢介が抱えて離さないマフラーの中の猫を見咎めた金本が、待てと呼び止める。

「……なんだ、その猫」

「これは……」

「おまえの猫か?」

「いえ……あ、はい」

「どっちだ!」

「ヨシさん……牟田さんの猫です」

「……ふーん」

 猫をしげしげ眺めると、男はわずかに口角を上げて手下どもを顎で促した。

「まとめて放り込んどけ」

「はっ」


 かくして事情を何も告げられないまま、賢介とキジトラ猫の牟田は手下たちに車に乗せられ、何処かへと連れ去られてしまったのである。






牟田と賢介の危機はまだ続きます。

ぜひ後編もお楽しみください。

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