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あの日わたしは猫になった  作者: 青崎衣里


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1/3

症例1.細川栄一



しあわせそうな猫の写真や動画を目にして

「自分も猫になりたいなぁ」なんて思ったことはありませんか?

でも、もしも本当に猫になってしまったら…………さて、どうなるでしょうか。




 目が覚めた瞬間、あ、またか、と細川栄一(ほそかわえいいち)は思った。

 ちゃんと布団は被っている。でも、伸ばした手足の感覚がいつもと違う。

(ヤバい、今日は会議があるのに……)

 ゆっくりと持ち上げた手のひらを眺めて、ため息をついた。

 そこに本来あるはずのないもの――――くすんだ色の肉球が見える。

 白と黒のまだら模様に彩られた短い毛皮。

 数本、横に長く伸びた髭。

(ああ、やっぱり)

 この病は本当に厄介だ。

 いつ症状が出るのか、まったく予測できない。

(参ったなぁ、きっとまた嫌味を言われるんだろうなぁ)

 とはいえ、この姿になってしまっては出社もリモートも不可能だ。


 何しろ彼は今、猫なのだから。




        ※        ※        ※




「ニャア~」(おおーい)

 栄一はベッドから身を起こし、隣室に向かって鳴き声を上げた。

「ニャッ、ニャニャア~」(誰か、こっちに来てくれ~)

 呼びかけても家族の反応はない。

 さほど広くない2LDKのマンションだから声ぐらい届くはずだが、隣のリビングからは賑やかなテレビの音声が漏れ聞こえてくる。妻の友里恵は朝の支度でバタバタしていて気づかないのだろう。

 栄一は仕方なくベッドから降り、ドアの扉をカリカリと引っ搔いた。力を入れすぎてドアに傷をつけないよう、充分に注意しながら。

「ニャアアァ~」(早く気づいてくれー)

 カリカリカリカリ。

 しばらくそうして鳴きながら扉を引っ掻いていたら、突然ドアノブがガチャリと動いたので慌てて飛び退いた。半分ほど開いたドアの隙間から顔を覗かせたのは、今年中学二年になる息子の歩夢(あゆむ)だった。


「…………」

 猫と化した父親の姿を無言のまま見下ろした彼は、おもむろに振り向き、キッチンの方に向かって呼びかけた。

「母さーん、また父さんが猫になってる」

 途端にキッチンから「ええ~、またぁ?」という妻のうんざりした声音が響く。

(悪かったな)

 俺のせいじゃないのにと思いつつも、面倒をかけるのは事実なので表立って文句は言えない。


「あら、ほんとだ。会社に電話しなきゃ。次長の松浦さんでいいのよね?」

「ニャ」(ああ)

 パタパタとスリッパの音を立てて顔を出し、慣れたようすで尋ねる妻に頷き返す。

 彼女はすぐさまスマホで栄一の上司に電話をかけ、事情を説明した。

「本当に申し訳ございません。いつもご迷惑をおかけして」

 話しながら、小刻みに何度も頭を下げる。

「ええ、ええ。今回も一日だけだと思いますので、おそらく明日は大丈夫かと。はい……あ、そうですか。ありがとうございます!」

 電話口でどんな会話がなされているのか、聞かずとも見ていれば分かるので、栄一は何とも言えない気分になった。


「連絡しといたわよ。次長さん、お大事になさってくださいですって。会議は谷田部くんに出てもらうから心配しなくて大丈夫です、って」

「ニャッ……」(だろうな)

「よかったわね。じゃあ私もそろそろ出る支度するから。歩夢、あんたも早く食べなさい。遅刻するわよ」

「……ん」

「パパはゆっくりしててね」

 早口で告げたあと、友里恵は急いで洗面台へと向かった。

 出産のあとキャリアを続けることができず、一旦は専業主婦となった彼女も、息子の手が離れた今では非正規でフルタイム勤務をこなしている。役所の窓口なので賃金はかなり低いが、自転車で通える距離なのがありがたいのだそうだ。


 栄一としては息子の学費ぐらいちゃんと俺が稼ぐから心配するなと言ってやりたいが、昨今の物価上昇、社会保険料の高騰などがそれを阻む。このままでは老後も不安だし、マンションのローンの残額を考えると現実はかなり厳しい。近い将来、息子が受験する大学によってはわずかばかりの貯金など吹っ飛んでしまうだろう。

 それなのに、こんな病気になってしまって。

(申し訳ないと思ってはいるんだ)


 ふと視線を感じて上を向くと、息子と目が合った。

「…………」

 歩夢は無言のまま栄一の身体を抱えてリビングに移動すると、棚から猫用の皿を取り出し、キャットフードを盛りつけた。水の器も隣に並べて置いてくれたので、栄一はさっそくピチャピチャと水を舐めて乾いた喉を潤した。最初の頃は抵抗があったキャットフードにもすっかり慣れた。さすがに人間のときに食べたいとは思わないが、この姿のときに口にすると意外に美味しい。今は空腹なのでモリモリ食べられる。

 そのようすを隣でじっと眺めていた歩夢が、栄一の頭から背中をそろりと撫でた。

(ん?)

 面を上げ、何だ、と再び目を合わせても息子の表情からは何も読み取れない。ただ、傍でしゃがみ込んでいる息子の指が、小さな猫の頭をそろそろと撫で続けている。

(この姿だから、だろうな)


 中学に上がってしばらくした頃からだろうか。反抗期が始まった息子とはだんだん距離が遠のき、言葉を交わさなくなった。呼びかけても返事すらしないことが多いし、最近は目も合わそうとしない。

 呼び方もちょっと前までは「パパ」だったのに、近頃は「オヤジ」かせいぜい「父さん」で、父の前に「お」は付かない。それどころか妻と二人で話していたとき「あの人さぁ」などと口にしていた。

 まぁ反抗期など、そんなものだろう。思い返せば自分だってそうだった。休みの日に野球やサッカーに連れて行くと大喜びしていた、あの小さな息子はもういないのだ。あと五年もすれば彼は大人になる。一抹の寂しさを感じつつも、親にべったりの子供よりずっといいのではないかと栄一は思っていた。


「あ、やべ」

 ふいにつぶやいた息子につられて顔を上げると、時計の針が八時を回ったところだった。

 歩夢はテーブルに残っていたトーストの切れ端を急いで口に押し込み、皿を食洗器のカゴに放り込んだ。反抗期になっても、言われた通りにちゃんと食器を片づけているのだから偉いものだ。

 栄一は少し前まで食器の後片付けなどやったことがなかった。わたしはあなたたちの家政婦じゃないと妻に泣きながら怒られて、息子と二人並んでゴメンと頭を下げるまで、ただの一度も考えたことがなかった。それどころか休みの日にやる風呂掃除や洗濯物の取り込み、週に二回のゴミ捨てだけで、結構手伝っている方だと勝手に自負していた。

(小さな気づきが大事だと職場で散々聞かされてきたし、部下にも言っていたのになぁ)


「ああ、もうこんな時間」

 息子と入れ替わるタイミングで妻の友里恵がリビングに戻ってきた。着替えも化粧も済ませ、すっかり出かける支度を整えている。

 彼女は猫用のフードと水がすでに出ていることを確認すると、テレビを消し、ベランダに出て猫用トイレの準備を始めた。月に一度程度しか使わない猫用のトイレ容器と砂袋の予備をしまっておくためのボックスをベランダの隅に設置したのは、この病を発症して三ヶ月ほど経った頃だ。

 食器の片付けを手伝うどころか、この姿でいる限り、食事も水もトイレもすべて準備してもらわなければならない。

(まるで赤ん坊だな)

「これでよし、と。じゃあ行ってくるわね」

「ニャア」(行ってらっしゃい)

「歩夢、出るわよ! 忘れ物ない?」

 こちらを振り向かずにリビングを出た彼女は、息子を急かしながら玄関を出て、バタンとドアを閉めた。次いで、鍵をかける音が響き――――唐突に、水を打ったような静寂が室内に訪れる。ついさっきまでの慌ただしさが嘘のように。

(…………静かだな)

 さて、どうしたものか。

 思いがけず今日一日休みとなってしまったわけだが、この姿では暇を潰すのが難しい。気晴らしの釣りや散歩はもちろん、スマホゲームもプラモ作りも読書もできない。テレビをつけっぱなしにしてもらったこともあるが、チャンネルを変えづらいし、昼間はあまり見たい番組もないので止めてしまった。




        ※        ※        ※




 ――――あれは発症して半年ほど経った頃だろうか。

『いいですよねぇ、一日中家ん中で日向ぼっこして寝てられるんでしょ。天国じゃないですか。俺も猫になりたいなぁ』

 病気の話題を避ける人も多いが、部下の谷田部は率直というか、あけすけに物を言うタイプなので羨ましがられたことがある。

『そんないいもんじゃないぞ。退屈だし。自分じゃ何にもできないんだから』

『あー、そっか。普段の休みのようにはいかないですよね。でも、やっぱいいなぁ……』

 そういえば彼は猫好きで、実家で二匹飼っていると言っていたっけ。

『課長がなる猫って、どんなタイプなんですか?』

『どんなって……雑種だよ、ただの』

『雑種でもいろいろあるでしょ。模様とか配色で』

『知らん。白と黒の毛がまだらになってる感じだったけどな』

『ブチ猫かぁ。あれも可愛いですよね。ウチで飼ってた最初の子が白黒ブチでした』

『……あ、そう』

 可愛いとか言うな、と喉まで出かかったが、自分が飼っていた猫のことだろうから、そのまま流すことにした。


 この病気に関しては、大抵の人間が似たような反応をする。もし他人事なら、きっと自分も同じような言葉しか返さなかっただろうと容易に想像できるから、文句を言うつもりもない。

 実際、一時的に身体が変化するだけで、それ以外の症状は特に報告されていない。しかも変化している日数に多少幅はあるようだが、ほとんどの者が元に戻っているから、特別危険な病という認識もない。ただ、特殊なだけで。

 だから谷田部のように、可愛いだの羨ましいだのといった感想を抱く者が大半を占めるのは、無理もない話なのだ。しかし、この奇病が世間に広く認知されるまでの間、患者たちは日々の生活で困難を極めた。


 人間が猫の姿になる。

 この奇病にTCトランスキャットという名が付けられたのはごく最近のことだ。

 そもそもTransfurトランスファー――――獣化という単語は物語の中にしか存在していなかった。トランスとは「別の状態へ」という意味の接頭辞で、後ろにファー(毛皮)を付け足した合成語なのだそうだ。毛皮をまとった別の存在になる現象、すなわち獣化。おとぎ話やファンタジー小説、漫画やアニメの中でしか起こり得ないこと。

 それが、この現代で起こってしまった。


 どういう理屈で変化が起きているのか、まだ完全には解明されていないらしい。すでにさまざまな論文が発表されているようだけど、ワクチンや治療薬は研究途中で完成には至っていない。

 まず簡単には信じてはもらえない。

 それはそうだろう。ある日突然、猫になりました。でも一日経ったら元に戻りました、などと言われたところで信じられるわけがない。一番最初の発症例はおよそ十年前に遡るという説もあるが、もしかするともっと以前から誰にも認知されないところで、ひっそりと起きていた可能性だってある。


 恐ろしい話だが、変化している間はどう見てもただの猫だから、万が一外に放り出されて事故にあったり、殺処分されてしまったとしたら、その人は永遠に行方不明のままだ。

 それでも目撃談がどこからともなく流れてくるようになり、海外で冗談交じりに噂され始めたのが三、四年ほど前のことらしい。中には真剣に訴える人もいたようだが、猫から人に戻る瞬間を捉えた映像がSNSで拡散されても、どうせAIで作成された偽動画だろうと炎上していた。

 WHOが『極めて稀な変異を伴う症状を確認した』と発表したのが、およそ一年前。

 ちょうど栄一が発症した頃のことだ。




 あのときのパニック状態は凄まじいものだった。自分も家族もおかしくなった。

 なにせある朝、目が覚めたら夫の姿が消えていて、代わりに見知らぬ猫がベッドで寝ていたのだ。家族が混乱するのは当たり前だろう。会社を無断欠勤していることが判明すると、もしや夜中に失踪したのかと警察に相談し、親戚や知人にまで電話をかけまくり、妻は体調を崩して寝込んだ。前の晩に些細なことでケンカをしていたことも影響したかもしれない。


 栄一自身も当然パニックになった。まったく訳が分からない状態だし、家族に話しかけても言葉が一切通じないのだ。家からつまみ出されそうになったときは心底肝が冷えた。かつてないほど狼狽したし、この世の終わりかと悲観した。

 それでも突然いなくなった自分の身を案じて取り乱している妻や、呆然としている息子の姿を眺めているうちに、衝撃や悲しみ、絶望などとは違う別の感情が、じわじわと胸の奥底から滲んでくるのを感じた。

 例えば、

(もし俺がある日、心筋梗塞とかでポックリ逝ってしまったら…………幽霊になってこういう光景を眺めることになるのかなぁ)

 そんなことを、ふと考えた。

 ちょっぴり嬉しいような、ありがたいような。そしてまた、少しばかり寂しくもあり、申し訳ないという気もして、まさに悲喜こもごもだ。いろいろな感情が次から次へと溢れ出して、すべてない交ぜになった複雑な心境だった。


 その時点では元に戻れると思っていなかったので、ずいぶん後悔もした。毎日仕事に明け暮れて、時間がないことを言い訳にしてたくさんのことを素通りしてきたけれど、家族にもっとちゃんと向き合っておけばよかった。もっときちんと伝えておくべきことがあったはずだ。妻のことも息子のことも、もっと大切にするべきだった、と。

 …………結局、一夜明けて妻が息子に謝りながら泣き始めたとき、栄一は突然元の姿に戻り、家族全員が唖然としている中、折しもテレビから猫化という奇病の話題が流れてきたのである。




        ※        ※        ※




 あの日、自分は猫になった。比喩ではなく本物の猫に。大騒ぎしたあと、家族みんなで大泣きしたことも今ではもう笑い話だ。けれど紙一重でもあったと思う。


 発症したのが別のタイミング、例えば出張先のホテルだったとしたら。一日で戻らず、数日かかっていたら。WHOの発表がもっと後だったら。誰に話しても信じてもらえず、頭のおかしい人と思われて終わりだったかもしれないし、会社は無断欠勤を理由に解雇されていたかもしれない。

 事実、そういう目に遭った不運な患者のエピソードを後日ネットの記事やテレビ特番などでいくつも目にした。

(そう考えると、俺はラッキーだったなぁ)

 病気になると健康のありがたみを実感する、とよく聞く。

 栄一の場合は家族のありがたみに改めて気づくことができた。いつの間にか漫然と走り続けるばかりだった日々が一変し、人生や生活について改めて考える機会を得た。


 猫になったのが、たまたま休日だったとき。どうにも暇だったので妻の動きを目で追っていたら、自分が思っていた以上に細々とたくさん動いていることに気がついた。

 朝から洗濯カゴの汚れ物を選り分け、ネットに入れ、枕カバーやシーツも剥がして洗濯機に放り込み、洗剤を入れて回す。息子を起こして朝食の準備をして、食べ終わったら食器を片付け、洗濯物をベランダに干し、リビングに散らかっている物をしまいながら掃除機をかける。近所のスーパーに出かけ、食料や日用品を両手いっぱいに買ってきて、棚や冷蔵庫にそれらを全部しまったら、何種類もの野菜を切って保存用の袋に入れ、冷凍していた。

 ああ、こうやって弁当や夕飯を作る時間が短縮できるように工夫しているのか。どうりでいつも冷凍庫がいっぱいだと思った。

 少し遅い昼食のあとはスマホのアプリを使って家計簿をつけ、息子の上着の裏地のほつれを直して、ワイシャツとハンカチにアイロンをかける。夕方には洗濯物を取り込んでたたみ、クローゼットにしまって、寝具に新しいシーツと枕カバーを取り付ける。そして風呂掃除が終わったら、夕食の準備だ。


 一つ一つはたいして労力のかからない雑事でも、朝から晩までこれだけ細かくあれこれ動くのは結構しんどいだろう。休みの日に動きたくないのは栄一だけではない。妻だって同じはずだ。なのに、今までずっと同じ家にいながら、スマホやテレビ画面に意識を逸らすことで、自分のパートナーがそうやって動いていることに目を塞いでいたのだ。

 俺は疲れているんだよ、と。


 課長職の仕事の大半はタスク管理だ。部下の仕事の進捗を確認しながら、限られた期間の中で下から吸い上げた報告をまとめ上げ、その中から改善点を見つけ出し、提案して数字を押し上げる。頭の中であれをやって、次はこれを確認してと考えながらこなしつつ、時折上司から投げられる書類作成にも時間を割かれ、揉めている部下の不満を聞き、顧客からの要望やクレームに対応する。

 考えてみると、それらも細かい作業の積み重ねだ。そして一日中、四方に気を遣いながらこなしていても、一つ一つに感謝されるわけじゃない。やって当たり前のことばかりだから。

 でも、疲れる。

 疲れるんだ、人間は。自分だけじゃなく、誰だって同じように。





 その日以来、栄一は少し変わった。

 社内でたまたま席を立った際、コピー機に用紙を補充している女子社員に気づいて何気なく「ありがとう」と声をかけた。普段あまり表情を変えない彼女が驚いた顔でこちらを見ていた。そのときはそれだけだったが、ほんの少し注意して見ているだけで彼女が普段から誰も担当していない雑務、名もなき家事と同じように気づいた誰かがやることをよくこなしてくれていることに気づいた。そのたびにひと声かけていたら、社内にいるときの表情がずいぶん明るくなった。

 いつもありがとう。助かるよ。ただそれだけの言葉なのに。


 そのうち、実績がなかなか出せずにいる部下がため息をついている姿とか、上司の前では常ににこやかな部下が苛ついた面持ちでパソコンのキーボードを叩いている姿などが目に入るようになった。当たり前の話だか、数字だけ見ていても人を動かせはしないのだ。栄一自身がそうだったように。

 毎日遅くまで残業して、休みの日はだらだらとソファに埋もれて過ごす。そんな暮らし方も、できる範囲でいいから変えていこうと思うようになった。今より出世できそうにない自分を憐れむのも、優秀な部下に引け目を感じるのも止めようと思った。いつでも、どんなときでも言い訳は探せば見つかる。でも、それで自分が楽になるわけじゃない。

 だったら変えていけばいい。猫になったとき、視点が大きく変わったように。立ち位置を、物事を見るときの高さを、ほんの少しだけ。


 これは神様がくれたチャンスなのかもしれないから。

 逃げず、ごまかさず、偽らず、自分と向き合えているか?

 家族から目を逸らさず、向き合えているか?

 妻にとってパートナーと呼べる存在になれているか?

 息子に対して親の責任を果たせているか?

 理想だけで現実は回らないし、気をつけていたってうっかりはあるし、誤解したりされたりもするし、そうそう上手くいくわけではないけれど。

 それでも。



 いつか本当にお別れする日が来たときに、残された家族に届かぬ声でゴメンと言わずに済むように。







 そんなことをつらつらと考えているうちに、いつの間にかウトウトと眠ってしまったようだ。窓際のクッションの上で丸まったまま、どれほど時が過ぎた頃だろう。

 玄関を開ける音と、ただいま、の声。

 息子の歩夢の声だ。

 もう帰ってきたのか。

 そういえば今、試験期間中だったかと思い出す。



 猫の栄一は、おかえりの代わりに大きなあくびと伸びをして、玄関へと向かった。






次回は反社と呼ばれる世界にいる方の症例です。

ぜひご確認ください。


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