第5話 愚者の襲来と、揺るがない愛
ミルタリア帝国の離宮に用意された、美しい細工が施された客間。
柔らかな午後の陽光がアーチ型の高い窓にはめ込まれたステンドグラスを通り抜け、大理石の床に色とりどりのモザイク模様を描き出していた。
私は手触りの良いベルベットのソファに腰を下ろし、商会の側近であるクロエが届けてくれた新しい帳簿に目を通していた。
指先で羊皮紙のざらりとした感触を確かめながら、ミルタリア帝国における新たな流通ルートの構築案を練る。
窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえ、室内にはクロエが淹れてくれたミントティーの爽やかな香りが漂う。
これ以上ないほど穏やかで、満ち足りた時間だった。
――バンッ!!
突如として、その静寂は無骨な音によって無惨に引き裂かれた。
「離せ! 俺を誰だと思っている! アルヴィス王国の第一王子、ディルク・アルビオンなるぞ!!」
「ディルク王子殿! なりません、ここはあなたの国ではないのです、ミルタリア皇城でございます!」
廊下から響いてきたのは、幾度となく私を怒鳴りつけてきた、鼓膜を劈くような甲高い声。
ドカドカと無作法な足音が近づき、客間の重厚な両開きの扉が乱暴に押し開けられる。
そこに立っていたのは、見慣れた黒髪に琥珀色の瞳をギラつかせた男――ディルク殿下だった。
「見つけたぞ、フロリアーナ!」
彼の背後には、困惑した顔のミルタリアの近衛騎士たちが控えている。
おそらく、身分が身分なだけに力ずくで斬り捨てるわけにもいかず、ここまで押し通されてしまったのだろう。
思い出したくもない男の香水が室内に流れ込み、爽やかなミントの香りを台無しにした。
私は手に持っていた羽ペンをコトリとインク壺に置き、静かに立ち上がった。
「……いかがなさいましたか、ディルク殿下。アルヴィスの次期国王たるお方が、アポも取らずに他国の離宮へ押し入るとは」
冷ややかな声で問いかけると、ディルク殿下はニヤァとひどく歪んだ笑みを浮かべた。
よく見れば、彼の黒髪は脂汗で額に張り付き、目の下には濃い隈ができている。
かつて完璧に整えられていた豪奢な衣装も、長旅のせいかシワが寄り、どこか薄汚れて見えた。
「強がるな、フロリアーナ。お前がこの国で肩身の狭い思いをしていることは分かっている。身一つで追放されたお前が、まともな生活など送れるはずがないからな!」
ディルク殿下はこの部屋の豪華な調度品や、私が身に纏う最高級のシルクのドレスが目に入っていないようだった。
己の都合の良い妄想だけで世界が完結しているらしい。
「俺は寛大な男だ。お前が泣いて過去の非を詫び、アルヴィスへ戻るというなら許してやろう。戻って、またあの面倒な書類仕事と物流の手配をやれ! お前がいなくて大臣たちがうるさくてかなわんのだ。特別に妾としてなら側に置くことを許可してやるぞ!」
堂々と胸を張り、あまりにも馬鹿げた恩着せがましいセリフを吐くディルク殿下。
恐怖など微塵もなかった。
ただただ、呆れ果てて言葉が出ない。
私の商会が手を引いたことで国が傾いている事実に気づきながら、まだ自分が上の立場にいると本気で信じ込んでいるのだ。
「……お断りいたします。私は今、ここで――」
「おい! 俺がせっかく温情をかけてやっているのに――」
ディルク殿下が激昂し、私に向かって乱暴に手を伸ばそうと一歩踏み出した、その瞬間だった。
――カツン、と。
廊下の奥、ディルク殿下の後ろから、静かで、けれど圧倒的な重圧を伴う足音が響いた。
「私の大切な婚約者に、これ以上気安く声をかけないでもらおうか」
空気が、一瞬にして凍りついた。
声の主が姿を現した途端、室内の温度が急激に下がったかのような錯覚に陥る。
水色の髪を揺らし、長身を優雅に滑らせて私の前へと歩み出たのは、ジェラルド殿下だった。
夜明けの森のような香りが、不快なディルクの香水を一瞬で掻き消していく。
(い、いま婚約者って言った……!?)
まだお返事をしていないのにも関わらず、この場を収めるために方便を言ったのだ。
そう理解してはいるものの、私は顔を真っ赤にして彼を見つめてしまった。
「ジェラルド殿下……」
私が小さく名前を呼ぶと、彼は私の肩を庇うように引き寄せた。
手袋越しに伝わる体温が私に絶対的な安心感を与えてくれる。
「なっ……ミルタリアの皇太子殿下が、なぜこんな小部屋に……!」
ディルク殿下が狼狽し、数歩後ずさった。
ジェラルド殿下は私を腕の中に抱いたまま、宝石のように澄んだ紫の瞳をディルク殿下へと向ける。
そこにあるのは私に向けるような甘い優しさではない。
絶対的な権力者としての冷酷で底知れない威圧感だった。
「ここは私の未来の皇妃の私室だ。そこへ土足で踏み込み、あろうことか彼女を愚弄するとは。アルヴィス王国は、我がミルタリア帝国に宣戦布告をしていると解釈して相違ないか?」
「ひっ……! 未来の……皇妃……だと……!?」
ジェラルド殿下の静かな怒気を孕んだ声と肌を刺すような威圧感に当てられ、ディルク殿下は情けなく腰を抜かした。
「外交的な侮辱に対する代償は、きっちりと自国で払ってもらおう。……近衛、この者を縛り上げ、直ちにアルヴィス王国へ強制送還しろ。私からの『莫大な賠償金請求の書簡』を添えてな」
「はっ!」
近衛騎士たちが一斉に動き、ディルク殿下を両脇から乱暴に拘束する。
「ま、待て! 俺はアルヴィスの王子だぞ! こんな扱いが許されると――」
「フロリアーナ。怖い思いをさせてすまなかったね」
喚き散らしながら引きずり出されていく愚かな元婚約者の声など、ジェラルド殿下は完全に無視していた。
彼は私に向き直ると、先ほどの冷酷さが嘘のように柔らかい笑みを浮かべた。
「怪我はないかい? 彼には、帝国への非礼を含め、相応の代償を払わせるからね」
彼の慈しみに満ちた声と、私のピンクゴールドの髪を撫でる優しい手のひらの感触。
(未来の皇妃……だなんて)
私は彼への愛おしさで胸がいっぱいになり、そっと彼の手に自分の手を重ね合わせながら、小さく頷いたのだった。




