第4話 崩壊する祖国と、温かな箱庭
バンッ! と鼓膜を劈くような乱暴な音を立てて、執務室の重厚な扉が開け放たれた。
「殿下! ディルク殿下、一大事にございます!!」
一方、私が去ったアルヴィス王国では、前代未聞の大混乱が巻き起こっていた。
王城の一角にある第一王子の執務室。
普段は磨き上げられているはずの床には大量の羊皮紙が散乱している。
「やかましい! ノックもせずに飛び込んでくるとは何事だ!」
黒髪を苛立たしげに掻き毟りながら、ディルクは血走った茶色の瞳で財務大臣を睨みつけた。
「そ、それが……! 昨夜から、国内の主要な物流が完全にストップいたしました! 王都へ続く街道からは荷馬車の姿が消え、市場からは食料や生活必需品が枯渇し始めております!」
「なんだと!? たかが数日、物流が滞ったくらいで大騒ぎするな。すぐに代わりの商会を手配しろ!」
「それが、できないのです! 我が国の流通の八割を担っていた最大手の大商会が、突如として『完全撤退』を宣言いたしました。彼らの傘下にいたギルドもすべて門を閉ざし、もはや国中が麻痺状態に陥っております!」
財務大臣の悲鳴のような報告に、ディルクは舌打ちをした。
だが、悪夢はそれだけでは終わらない。
青ざめた顔の文官が、ガタガタと震える手で分厚い帳簿をディルクの机に叩きつけるように置いた。
「殿下、さらに深刻な問題が……! 国庫が、底をつきかけております。殿下がリリアンヌご令嬢様のために買い集めた希少な宝石の数々や、他国に発注した莫大な穀物の輸入費用……。これまで商会からの税収入で帳尻が合っていましたが、彼らが去ったいま改めて計算したところ、我が国はすでに破綻寸前の大赤字です!」
「馬鹿なことを言うな! つい先週まで何の問題もなかったではないか!」
ディルクは怒鳴り散らしたが、文官の言う通りであった。
彼が湯水のように使っていた公金は、本来ならとっくに国を傾かせている額だった。
それを追放されたフロリアーナが『自分の商会の莫大な利益の一部』を税金として回し補填し、強引に穴埋めをしていただけなのだ。
彼女という巨大な後ろ盾が消え去った今、すべての不正と凄まじい負債が白日の下に晒されるのは、当然の帰結であった。
「このままでは、半年と保たずに我が国は滅びますぞ……!」
絶望に染まる室内。
ディルクはギリッと奥歯を噛み締め、ふと一つの考えに行き着いた。
「……そうだ、フロリアーナだ!」
ディルクはドンッ、と両手で机を叩き、狂気じみた笑みを浮かべた。
「あいつだ。あいつがいつも、こういう面倒な書類仕事や金の計算をやっていた! あいつを連れ戻せばいい。今頃、俺に捨てられて隣国の国境あたりで泣いて縋る相手を探しているはずだ。俺が直々に迎えに行き、少し優しくして『戻ることを許してやる』と命じれば、泣いて喜んで飛んでくるに決まっている!」
自らの横領や無能さを棚に上げ、あまりにもお花畑な勘違いに行き着いた愚かなアルヴィス国王子。
すぐさま隣国への馬車を手配するよう声を張り上げたのだった。
***
そんな祖国の阿鼻叫喚など、今の私には一切届かないミルタリア帝国の広大で美しい庭園で。
私はジェラルド殿下と穏やかなティータイムを楽しんでいた。
「フロリアーナ、寒くはないかい?」
「ええ、風が心地よいくらいですわ。ありがとうございます、ジェラルド殿下」
澄み渡る青空の下、柔らかな春の陽射しが降り注ぐ中庭。
白亜のガゼボの柱には彼の髪と同じような、淡い水色と紫の美しい薔薇が絡みつくように咲き誇っている。
そよ風が吹き抜けるたびに、甘くふくよかな花の香りが鼻腔をくすぐり、遠くで小鳥たちがさえずる声が心地よい音楽のように響いていた。
純白のテーブルクロスの上には色鮮やかなフルーツのタルトと、湯気を立てる琥珀色の紅茶。
私の向かいの席ではジェラルド殿下が優雅な所作でティーカップを傾けている。
宝石のように澄んだ紫の瞳が私を捉え、甘く蕩けるような優しさを湛えて細められた。
「君がこの離宮での生活を楽しんでくれているようで、私も嬉しいよ。何か不便なことや、欲しいものはないかい?」
「もったいないお言葉です。こんなにも美しく穏やかな場所で過ごせるなんて、まるで夢を見ているようですわ」
私が心からの笑みを浮かべると、ジェラルド殿下はホッとしたように表情を崩した。
アルヴィス王国では、私はただの『王子の婚約者としてのお人形』だった。
私がどれだけ身を粉にして働いても、ディルク殿下から労いの言葉をかけられたことなど一度もない。
けれど、ジェラルド殿下は違う。
彼は私の言葉に耳を傾け、些細な変化にもすぐに気づき、一人の人間として、女性として、大切に扱ってくれる。
彼と一緒に過ごすうち、私の胸の奥で芽生えた『恋心』は日増しに大きく、確かな熱を帯びて育っていた。
(私、ジェラルド殿下のお役に立ちたい……)
温かいカップの表面を指先でなぞりながら、私は密かに決意を固める。
私を救い出してくれた恩返しのため。
そして何より、愛する彼のため。
私が築き上げた大陸最大の商会――その全資産と流通網のすべてを使い、このミルタリア帝国をさらに強大で豊かな国にしてみせよう、と。
「……どうかしたかい? フロリアーナ」
私が熱を帯びた視線で見つめていたことに気づいたのか、ジェラルド殿下が不思議そうに首を傾げる。
「ふふ、なんでもありませんわ。ただ、この紅茶がとても美味しいなと、そう思っただけです」
「……。ね、君、私の妃になってはくれないか?」
「はっ?」
「しばらく君と一緒に過ごしていて、とても落ち着くし、愛らしく……なにより君は有能だ。父上も大臣たちも納得するだろう。返事は急がないよ、でももしよければ考えておいてほしい」
「は、い……」
返事など、決まっていた。
それなのに、私は顔を真っ赤にして誤魔化すように微笑み返しながら、甘いタルトを一口頬張った。
祖国が滅亡の危機に瀕し、愚かな元婚約者がこちらに向かってきていることなどつゆ知らず。
私はただ、この温かく幸せな箱庭で愛しい人との時間を噛み締めていた。




