第3話 宝石の輝きと、甘いお菓子の記憶
「はぁぁ……幸せー……」
ミルタリア帝国の離宮。
私に与えられた豪奢な客室の足首まで沈み込むような分厚い絨毯の上に座り込み、だらしなく頬を緩ませていた。
目の前のマホガニー製のローテーブルには色とりどりの原石やカットされたばかりの宝石が山のように積まれている。
指先でそっと撫でると、石特有のひんやりとした硬い感触が肌に伝わってくる。
窓から差し込む柔らかな午後の陽光を透かして覗き込めば、ルビーは燃えるような赤を、サファイアは深い海の底のような青をきらきらと反射させた。
完璧な侯爵令嬢の仮面を捨てた私の至福の時間。
それはこの『鉱石鑑定』だ。
光に透かし、ルーペを通すだけでその価値を完璧に見抜く目を持っている。
私はこのミルタリアで商いを再開するにあたり、まずは一番得意な宝石の選別から手をつけていたのだ。
ジャラジャラと石同士がぶつかる涼しげな音を聞きながら、私は時間を忘れて没頭していた。
コンコン、と。
静かな部屋に、控えめだが品のあるノックの音が響いた。
「フロリアーナ、入ってもいいかな?」
「えっ、ジェラルド殿下!?」
慌てて右目に嵌めていた鑑定用のルーペを外し、居住まいを正す。
分厚い扉が開くと、水色の髪をサラリと揺らしたジェラルド殿下が優しげな微笑みを浮かべて立っていた。
「突然ごめんよ。政務が一段落したから、君と一緒にティータイムにしようと思ってね」
彼が一歩部屋に足を踏み入れた瞬間、夜明けの森を思わせる彼の香水に混じってふわりと甘く香ばしい匂いが漂ってきた。
彼の手には艶やかな紺色のリボンがかけられた、可愛らしい箱が握られている。
「これは……?」
「開けてみて」
促されるままに箱の蓋を開けると、中には黄金色にこんがりと焼き上がった焼き菓子――フィナンシェがぎっしりと詰まっていた。
「昔、君が大量のフィナンシェを商会経由で仕入れていたからね。好きなのかなぁと思って」
「えっ……?」
私は目を丸くした。
たしかに、数年前に自らの商会を立ち上げ、無我夢中で動かし始めたばかりの私にとって、手軽につまめて素早く糖分補給できるフィナンシェは必需品だった。
そして片手間で焼き菓子店まで運営していたのだ。
けれど、それはあくまで商会の帳簿の片隅の話だ。
どうして他国の皇太子である彼が、そんな細かいことまで知っているのだろうか。
驚きで固まる私をよそに、ジェラルド殿下は侍従に紅茶の準備をさせると、私の向かいのソファに腰を下ろした。
コトリ、と美しい磁器のカップが置かれ、芳醇な茶葉の香りが部屋を満たす。
「それに侍女たちが君の有能ぶりを大層褒めていたよ。離宮の備品管理や、少し滞っていた帳簿をあっという間に整理してくれたってね。おかげで皆が助かっていると」
「あ、あれは……その、ただの息抜きといいますか……数字のズレが少し気になったものですから、つい手を出してしまって……」
出しゃばりすぎたかと焦って弁明する私に、彼はふっと柔らかな笑い声をこぼした。
「謝る必要なんてないさ。それは君の素晴らしい才能だ。君がいてくれて、本当に心強いよ」
アルヴィス王国では「俺の妻になる女が平民の仕事をするなんて」とディルク殿下に疎まれ、秘密裡の仕事として隠さざるを得なかった私の能力。
けれど、ジェラルド殿下は違う。
完璧な令嬢としての振る舞いではなく、石オタクで計算ばかりしている『ありのままの私』を、彼は真っ直ぐに見つめ、心から肯定してくれるのだ。
「さあ、冷めないうちに食べて」
彼に勧められ、私はおずおずとフィナンシェを一つ手に取った。
一口かじると、表面はサクッと小気味良い音を立て、中はしっとりとした生地から濃厚なバターの風味とアーモンドの甘い香りが口いっぱいに広がる。
その懐かしく優しい味に触れた瞬間——私の脳裏に、すっかり忘れていたある日の記憶が、鮮やかな色彩を伴って蘇った。
『君、こんなにたくさんのお菓子をどうするの?』
『これは頭を使うための、大事な商いのお供ですわ!』
あれは三年も前のこと。
商会の視察で身分を隠して街へ出ていた私が、偶然出会った見知らぬ少年に得意げに商売の理念を語ったあの日。
ふたりで公園のベンチに座り、お茶とフィナンシェを分け合いながら、時間が経つのも忘れて語り明かした。
あの時、私を面白そうに見つめていた少年の髪の色は……目の前で優しく微笑む彼と同じ、宝石のように澄み切った水色だったのではないか……?
突如として大量に帝国と取り引きしはじめた商会のオーナーを一目見ようと、同じく身分を隠して近付いてきていた……?
「……っ!」
ドクン、ドクン、と。
自分の胸の奥で、心臓が大きく跳ねる音が鼓膜に響く。
顔が一気に熱を持つのを感じて、私はギュッとドレスの裾を握りしめた。
甘いお菓子の後味と共に、私の中に彼への特別な感情が、どうしようもなく確かな輪郭を持った瞬間だった。




