第2話 ミルタリア帝国への旅立ちと、温かな出迎え
ガタゴト、ガタゴト……。
規則正しい馬車の車輪の音が夜の静寂を切り裂いていく。
アルヴィス王国の王都から離れるようにひた走る車内は、追放された身の上とは思えないほど快適だった。
最高級のベルベットが張られたふかふかの座席に深く腰を沈め、私はふぅ、と吐息する。
窓の隙間から入り込む夜風が火照った頬を撫でていくのが心地よかった。
「お嬢様、長丁場の夜会、本当にお疲れ様でございました。温かいハーブティーがございますよ」
向かいの席に座る私の有能な側近――クロエが、揺れる車内でも一滴もこぼすことなく、美しい細工が施された陶器のカップを差し出してきた。
カモミールと微かな蜂蜜の甘い香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
「ありがとう、クロエ。……それにしても、ようやく自由の身ね」
温かいカップを両手で包み込みながら呟くと、クロエはクスリと笑った。
「ええ。あの愚かな第一王子殿下も、まさかご自分が何を捨てたのか理解していないでしょうね。資産と人材の移動は、お嬢様の事前の指示通り、すでに完了しております」
「ご苦労様。これで、あの国に置いてきたものは何一つないわ」
そう、私――フロリアーナは、ただの侯爵令嬢ではない。
幼い頃から『王太子妃になるための道具』として扱われる毎日に息苦しさを感じていた私は、趣味の『鉱石鑑定』を活かして、密かに自らの商いを行ってきた。
指先で撫でるだけで、原石の質、重さ、内側に秘められた偏光乱射の煌めきを感じ取り、どんな精巧な偽物でも真贋を完璧に見抜く私の目。
時には骨董品で売られていた伝説級の宝石を格安で買い取ったり、侯爵令嬢としてのお小遣いは全て商いの元手にし、宝石商を始めると瞬く間に莫大な富を生み出していたのだ。
その資金を遣い立ち上げた商会は、今や大陸全土の流通網を牛耳るまでに成長している。
私が手を引いたことでアルヴィス王国は数日以内に物流が止まってしまうだろう。
「ディルク殿下が男爵令嬢リリアンヌに貢いでいた宝石もすべて我が商会を通していたとも知らずに……」
「フフ、ご苦労様。あなたが彼らの密通を把握し、会話内容を聞き取らせていたお陰で今夜の断罪の日取りまで完璧に把握できたわ」
「して、お嬢様。これだけの規模となった我が商会の新たな拠点は、どちらへ移されますか? 隣国の自由都市群か、それとも南の商業国家か……」
「そうね……」
クロエの問いかけに、私はカップの縁をなぞりながら思案した。
その時ふいに脳裏をよぎったのは、数時間前の夜会で出会ったあの美青年の顔だった。
『もし行き場に迷ったら私の国においで。ミルタリア帝国に』
耳元で囁かれた、低く甘い声。
上質な香木の香り。
そして、私を真っ直ぐに見つめていた、あの綺麗な紫の瞳。
「……ミルタリア帝国へ行きましょう」
「ミルタリア、でございますね。大陸一の大国ですし我が商会の重要な取引先も多く点在しております。地理的にも申し分ありません」
クロエは手元の羊皮紙に素早く羽ペンを走らせる。
カリカリという小気味良い音を聞きながら、私は窓の外の星空を見上げた。
どうしてだろう。
あの紫の瞳がなぜか頭から離れないのだ。
***
数日後。
国境を越え、ミルタリア帝国の帝都へ到着した私は馬車の窓から見える景色に目を丸くした。
活気に満ちた石畳の大通り。
様々なスパイスや焼きたてのパンの匂いが混ざり合う、賑やかな市場の喧騒。
アルヴィス王国とは比べ物にならないほどの圧倒的なスケールと豊かさが、そこにはあった。
「お嬢様、帝城が見えてまいりました」
クロエの声に促され、前方を見据える。
白亜の巨大な城壁が陽の光を反射して眩しく輝いていた。
だが、私が驚いたのは城の壮大さではない。
重厚な鉄の門の前――そこに、一人の青年の姿があったからだ。
「お待ちしておりました、フロリアーナ嬢」
馬車がゆっくりと停まり、扉が開かれた瞬間に差し出されたのは、純白の手袋に包まれた大きな手。
優雅に一礼したのは帝国皇太子、ジェラルド殿下その人だった。
吹き抜ける風が彼の水色の髪をサラリと揺らし、宝石のように澄んだ紫の瞳が私を優しく見つめている。
「えっ……ジェラルド殿下!? なぜ、皇太子殿下ご自身がこのような場所へ……?」
驚きのあまり素っ頓狂な声を上げてしまった私に、彼はふっと目を細めて柔らかく微笑んだ。
「砦を通って来ただろう? 報告が届いたから、待っていたよ。通常だと長い手続きをしなければ会えないんだ。――さて。よく来てくれたね、歓迎するよ」
そう言って、彼はまるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのようにそっと私の手を取り、跪いて手の甲に恭しくキスを落とした。
チュッ、という微かな音。
手袋越しにも伝わってくる彼の唇の熱に、私はヒュッと息を呑む。
他国の、しかも追放されたばかりの傷物の令嬢に対する態度とは到底思えないほど甘く、紳士的で、熱烈な振る舞い。
「長旅で疲れただろう? さあ、中へ。君にゆっくり休んでもらうための部屋を用意してあるんだ」
「あ、あの……」
「遠慮はいらない。君は私の大切な客賓だからね」
哀れむわけでも、強引に連れ込むわけでもない。
ただひたすらに陽だまりのように温かく包み込んでくれるエスコート。
背中をそっと支える彼の手のひらの温もりを感じながら城へと歩を進める。
はじめて守られているかのような安心感が湧き上がる。
『完璧な令嬢』として張り詰めていた私の心は、春の雪解けのようにじんわりと甘く解けていくのを感じていた。




