第1話 完璧な令嬢の仮面と、待ち侘びた婚約破棄
「フロリアーナ・アルジェント! お前のような冷酷な女は俺の妻にふさわしくない!」
アルヴィス王国の王城、その中心に位置する大広間。
建国を祝う夜会は、色とりどりのシルクのドレスと、天井から降り注ぐ巨大なクリスタル・シャンデリアの眩い光に包まれ、最高潮の盛り上がりを見せていた。
しかし今、優雅なワルツを奏でていたオーケストラの演奏はピタリと止んでいる。
貴婦人たちの香水と、グラスに注がれた芳醇な赤ワインの匂いが混ざり合う豪奢な空間は、まるで氷点下のような冷え切った空気に支配されていた。
声の主は、黒髪に茶色の瞳をギラつかせたこの国の第一王子、ディルク・アルビオン殿下。
私の婚約者である。
彼の腕の中には、甘ったるい薔薇の香水を漂わせた男爵令嬢がすっぽりと抱き込まれていた。
彼女は怯えた小動物のようにディルク殿下の胸に顔を埋めているが、私に向けるその視線には、ねっとりとした優越感がへばりついている。
「殿下、その女性は……?」
「リリアンヌだ、知らないふりをするとは! 俺が彼女に心を奪われていたことを知ったお前が、影で彼女を虐めていたのだろう? 嫉妬深い女め! よって、貴様との婚約を破棄し、国外追放を言い渡す!」
「いいえ、まったく身に覚えがございませんが。そちらの方も、時折夜会であいさつする程度の薄い仲……」
「ええい、黙れ黙れ! 失礼極まりないやつめ!!」
周囲を取り囲む貴族たちがヒソヒソと息を呑む音が鼓膜を打つ。
私に向けられるのは嘲笑と侮蔑の視線。
(バカ王子! 公衆の面前で淑女に恥をかかせるだなんて! )
しかし、磨き上げられた大理石の床に立つ私の背筋は真っ直ぐに伸びていた。
ピンクゴールドの髪が夜風になびく。
足先からヒンヤリとした石の冷たさが伝わってくるが、私の青い瞳には、一切の動揺は浮かばない。
幼い頃に両親の打算と政略的な婚約をディルクと結ばされていたのだ。
今まで「王室に嫁ぐための道具」として、完璧な淑女であることを強いられてきた。
だから、この程度の茶番で取り乱すことなどあり得ないのだ。
そして、ディルク殿下が夜ごと遊び歩いていたのは、こういうことだったのだと腑に落ちる。
(婚約していたからって何から何まで上から目線で偉そうに指図して……。こちとらこの日を待ち侘びていたのよ!!)
心の中で渾身のガッツポーズを決め、ドレスの滑らかな生地をそっとつまみ上げる。
「……承知いたしました。ディルク殿下。末長くお幸せに」
「なっ……お、お前、自分が何を言われているか分かっているのか!? 国外追放になるのだぞ!? 泣いて謝るならば温情をかけてやろうと思っていたのに……」
「失礼いたします」
なおも偉そうな口調で引き止めようとするバカ王子の声をバッサリと遮り、私は硬い靴音をカツンと響かせて背を向けた。
ざわめく貴族たちが、まるで毒にでも触れるかのようにサッと左右に分かれ、道を作っていく。
その去り際だった。
色鮮やかなドレスが並ぶ群衆の中で、一際目立つ美青年とふいに目が合った。
見事な水色の髪。
隣国ミルタリア帝国の皇太子、ジェラルド・ヴァン・レーヴェンハイム殿下。
この場にいる誰よりも圧倒的な気品を纏い、涼しげで冷徹なまでの美貌を持っている。
その真っ直ぐな紫の瞳が、私とすれ違う瞬間、ふっと細められた。
「……え?」
直後、私の手首が力強く掴まれる。
薄いシルクの手袋越しに伝わってくる、熱を帯びた大きな手のひらの感触。
驚いて顔を上げると、息を呑むほど整った顔立ちが間近にあった。
むせ返るような広間の空気の中で彼からだけは、夜明けの森のような静謐で心地よい香りがした。
彼は私の耳元に顔を寄せ、低く甘い、けれど絶対的な威厳を感じさせる声で囁いた。
「もし行き場に迷ったら私の国においで。ミルタリア帝国に」
「……? どうも……」
至近距離から注がれる紫の熱に当てられ、私はわけがわからないまま反射的に相槌を打ってしまった。
彼は満足そうに微笑むと、すっと手を離す。
(それにしても……なぜ他国の皇太子さまが私みたいな令嬢に……?)
手首にじわりと残る彼の体温と、背中に突き刺さる甘い視線を感じながら。
私は大広間の重厚な扉を開け、ひんやりとした夜風の吹く通路へと歩みを進めたのだった。




