第6話 最高の復讐と、極上の持参金
ディルク殿下が乗り込んできてから数週間後。
季節は少し進み、帝国の庭園には色鮮やかな初夏の花々が咲き誇っていた。
私は風通しの良いテラスの籐椅子に腰掛け、柔らかな日差しを浴びながら、商会の流通網に関する分厚い羊皮紙の束に目を通していた。
「フロリアーナ、ここにいたのか」
軽やかな足音とともに、ジェラルド殿下が姿を現す。
彼が近づくと、いつもの森の香りがふわりと漂ってきた。
彼の手には見覚えのあるアルヴィス王国の王室印が押された、仰々しい封書が握られている。
「先ほど、アルヴィスの国王から直筆の返答が届いたよ」
ジェラルド殿下は私の向かいの席に腰を下ろし、侍従が淹れたダージリンティーの香りを楽しみながら、事の顛末を静かに語り始めた。
彼が送り付けた莫大な賠償金請求に対し、アルヴィス王国は完全に白旗を上げたという。
「君の商会が手を引いたことで、あの国はすでに国庫が底をつき、経済が完全に麻痺していたらしい。加えて、我が国が突きつけた多額の賠償金など、逆立ちしても支払いきれない状態だったんだろうね」
「……でしょうね。物流が止まれば、数か月と保たないことは試算通りです」
「結果として、アルヴィス王国は帝国への『属国化』を進言してきた。それで賠償金の支払いを免除してほしいということだ。……国家の主権を完全に帝国へ引き渡すという、正式な降伏文書だ」
私が無言で頷くと、彼は手元の書類に目を落とし、さらに続けた。
「そして、元凶であるディルクだが……横領と外交的失態のすべての責任を問われ、王族の身分を剥奪されたそうだ。廃嫡された上で、平民として過酷な鉱山での強制労働に処されたと記されている。あの夜会で彼に抱かれていた男爵令嬢も、共犯として同じ場所へ送られたらしい」
ふう、と私はなんとも形容しがたいため息をついた。
私を『有能だが可愛くない婚約者』として虐げ、甘えきっていた愚か者たちは、自らの無能さの代償を一生をかけて暗い穴ぐらの中で支払うことになったのだ。
私の心にはもはや同情も、ざまあみろという怒りすら湧かない。
ただ、遠い国の他人事のように、あっさりと腑に落ちるだけだった。
***
その日の夜。
星降る離宮のバルコニーで、私はジェラルド殿下と二人きりで夜風に当たっていた。
昼間の熱を微かに残した風が、甘く芳醇な夜咲き薔薇の香りを運んでくる。
静かに揺れる木々のざわめきが鼓膜を優しく撫でていた。
「フロリアーナ」
甘い声で呼ばれ、振り向く。
ジェラルド殿下は純白の手袋を外し、素手で私の頬をそっと包み込んだ。
少しひんやりとした夜風の中で、彼の手のひらの温もりがひどく心地よい。
「君の過去を縛り付けていた鎖は、今日ですべて断ち切られた。……改めて、私に言わせてほしい」
彼はゆっくりと私の前に跪き、私の右手をすくい上げて、薬指の付け根に熱い唇を落とした。
チュッ、という微かな音に、私の心臓がドクンと大きく跳ねる。
「君の持つ才能も、過去も、すべてを含めて君自身を愛している。私と一緒に、このミルタリアで生きてくれないか。君を一生、私の腕の中で幸せにすると誓うよ」
見上げられた紫の瞳には燃えるような情熱と、とろけるような甘い愛情がたっぷりと込められていた。
「……はいっ。私でよければ、喜んでお受けいたします……!」
私が涙ぐみながら頷くと、彼は立ち上がり、私を力強く、けれど大切に抱きしめた。
彼の首筋から香る上質な香木の匂いに包まれながら、私はふと、あることを思い出した。
(そうだ、お返しをしなければ……)
私は彼の腕の中でいたずらっぽく微笑むと、そっと彼から離れた。
傍のテーブルに置いてあった『分厚い羊皮紙の束』を手に取る。
真っ赤な封蝋が押され、金の美しいリボンで縛られた商会の権利書だ。
「ジェラルド殿下。私からもお伝えしたいことがございます」
「なにかな?」
不思議そうに首を傾げる彼に、私はそのずっしりと重い書類を手渡した。
「……私の財産と、大陸中に張り巡らされた流通網、それらすべてを愛するあなたへの『持参金』とさせてくださいませ」
私が最高の笑顔でそう告げると。
数秒の沈黙の後、彼は肩を震わせ、やがて声を上げて笑い出した。
「ふ、あはははっ! あの日、私に商いの理念を語ってくれた賢い少女が、ここまで恐ろしくて愛おしい淑女に成長していたとはね」
「ふふっ。驚かれましたか?」
「ああ、そうだね。でも、持参金だなんてとんでもない。君の財産は君が管理していい。私は君の商会が我が国でより成長してもらえたら、それだけで十分な税収になる」
彼は心底楽しそうに微笑むと、書類をテーブルに放り投げ、再び私を強く腕の中に閉じ込めた。
「どんな莫大な財産よりも、君という存在そのものが私にとって最高の宝物だ。……愛しているよ、私の可愛い『大商人』さん」
囁くような甘い声とともに、静かに唇が重なる。
夜風より優しく、宝石よりも甘く熱い口づけ。
完璧な仮面を被らされ、悪役令嬢として断罪されようとしていた私は、こうして最高の伴侶と皇妃の地位を手に入れ、誰よりも幸せな人生の第二幕を歩み始めたのだった。




