第38話 - 悲しみの味がするパン
第4巻 - 第2話 - [閲覧注意: MA17+]
[ナレーター:パンを焼く理由がある。愛しているから焼く者。亡き人の面影を追って焼く者。そして、ただ両手で何かをこねていなければ破壊的な衝動を抑えられないから、午前4時に生地を捏ねる者。パン・キッサーに会おう。孤児のパン職人。17歳で店主。彼は「慰め」という仮面を被った「悲しみ」の味のするパンを焼く。今日、リユラはアパートの近くでそのパン屋を見つける。完璧に焼き上げられたサワードウの中に喪失を味わう。 ashes(灰)から美しさを創造することで生き延びる者がいることを知る。そして今日、平穏にパンを焼きたいだけの少年の周りを、企業のハゲタカたちが旋回し始める。]
第一部:我が家の匂いがした朝
木曜日、午前4時47分。普通の人には早すぎる。疲れよりも悲しみが大きく、眠れない人には完璧な時間。
リユラはアパートから3ブロック先にある小さなパン屋の前に立っていた。何年も通学路に使っていたはずなのに、一度も気づかなかった場所。「キッサーのパン」という手書きの簡素な看板。窓からこぼれる温かい光。焼きたてのパンの香りが、冷え切った朝の空気をどこか懐かしく感じさせた。
[リユラの独白:午前2時から起きている。ヤカミラの夢をまた見た。あのナイフ。最後の言葉。セラピーでは「いつか」夢は薄れると言うけれど、「いつか」はずっと先のことのように思える。ミヤカが夜の散歩を勧めてくれた。彼女は正しかった。でも、こんな場所を見つけるとは思わなかった。]
パン屋のドアが開いた。年齢不詳の少年が出てきた。年齢以上に疲弊した顔。小麦粉を雪のように纏い、何ヶ月も――いや、何年も眠っていないような瞳。
彼はパンの箱を配送バンに積み込んでいたが、リユラに気づいた。「まだ開店前だよ」その声はかすれていた。「あと1時間。悪いね」
「いいんだ」リユラは答えた。「眠れなくて散歩してただけさ。いい匂いに引き寄せられたんだ」
その少年――後にパン・キッサーと知ることになる――は、リユラを値踏みするような目で見つめた。紫の髪、星型の瞳、トラウマを抱えながら存在しようとする彼の立ち振る舞いまで。
「悲しみ?」パンが簡潔に聞いた。「どうして――」
「眠れない奴は二種類いる。不眠症か、悲しみか。君は悲しみの顔だ。鏡で毎日見ているからわかる」
彼は店を指差した。「入れよ。何か作ってやる。金はとらない。……午前4時を理解し合う者同士の連帯だよ」
第二部:灰から建てられたパン屋
店内は狭いが完璧に整理されていた。イーストと温かさと、どこか「安全」という言葉が似合う場所。
「どんな悲しみ? 最近のか、ずっと前のか?」パンはカウンターの向こうで作業を始めた。
「最近のだ」リユラは窓際のテーブルに座った。「兄弟を亡くした。2ヶ月前。父の凶刃から僕を守って死んだんだ」
パンの手が止まり、また動き出した。「それは重いね。気の毒に」
「君は?」リユラが聞いた。「『悲しみがわかる』って言ったけど」
「両親さ」パンはオーブンから焼きたてのサワードウを取り出しながら言った。「3年前、交通事故。僕は14歳だった。それからずっとこの店を一人で回している。……いや、『回している』というより、必死に生き延びていると言うべきかな」
彼がナイフを入れると、完璧な断面と美しい色が現れた。百時間の練習と失敗と学習の末の結晶。
「両親が教えてくれたのか?」
「すべてね」パンの声には愛と喪失、憤りと感謝が混ざり合っていた。「彼らの店であり、夢だった。無から築き上げたんだ。疲れ果てるまで働いて成功させたのに、仕入れの帰り道で死んだ」
彼はパンをバターと蜂蜜と共に差し出した。「食べてみて。味が正しいか教えてくれ」
リユラが一口食べると、内側で何かが砕けた。壊れるのではなく、解放される音だった。それは慰めであり、同時に喪失の味だった。
「完璧だ」リユラは静かに言った。「まるで……家みたいだ。記憶の中にいるみたいだ。……『慰めを装った悲しみ』の味だよ」
「ああ、それが狙いさ」パンが自分の分を切り分けながら言った。「パンとはそうあるべきだ。痛みがあることを認めながら、それでも温もりを差し出す栄養なんだ」
「彼らが死んだ後、二つの選択肢があった」パンは続けた。「福祉局は『14歳には無理だ。養護施設に入れ』と言った。僕は書類を偽造し、独りで生きていくことを選んだ」
「生存を選んだんだな」
「僕はパンを選んだのさ」パンは訂正した。「パンこそが、彼らから残されたすべてだったから。もしこの店を手放せば、彼らは本当に消えてしまう。でも焼き続ければ――彼らはそこにいる。酵母や小麦粉の中に」
「焼き続ければ、いつか悲しみは癒えると思った。でも違った。形を変えるだけだった。捏ねられる『パンの形』になったのさ」
第三部:利益の匂いを嗅ぎつけたハゲタカ
ドアが開き、高価なスーツを着た二人が入ってきた。客ではない。
「まだ開店前だ」パンが立ち上がった。「あと30分だ」
「パンを買いに来たわけじゃない」中年が言った。「またオファーに来たんだ」
「答えは『ノー』だ。何度言えばわかる?」
もう一人がフォルダを出した。「キッサーのパンは一等地にある。再開発すれば今の価値の3倍になる。5000万円出そう。赤字続きの小さなパン屋としては破格だ」
「売らない」パンが断言した。
「君は17歳だ。ネットの批判に晒され、供給の問題に苦しんでいる。無理をするな。金を手にすれば、4時に起きて誰も評価しないパンを焼く人生から解放されるぞ」
パンの顎が強張る。「評価している人はいる」
「本当に?」彼らはタブレットを見せた。「ネットのレビューだ。6割がネガティブ。『高すぎる』『素人の趣味』『本当の職人ならこんな失敗はしない』。諦めろという声ばかりだ」
リユラにはわかった。彼らがどこを突いているのか。パンの疲弊した心の中で、真実と嘘が分からなくなっている場所を。
「僕は全部読んでいる」パンは静かに言った。「ポジティブなのも、ネガティブなのも。それでも焼くんだ」
「なぜ?」彼らは心底不思議そうに聞いた。「なぜ自分を苦しめる? 夢を追って何になる?」
「だって、このパンは僕に残された彼らのすべてだからだ!」パンの声が震えた。「僕がこの店を売れば、彼らが死んだ意味は本当になくなってしまう。僕のこれまでの努力も、全て」
「彼らの死に意味なんて最初からなかったんだよ」彼らは冷酷に言い放った。「交通事故だ。無意味な偶然さ。どんなにパンを焼こうが、親は帰ってこない。君はただ、親の遺した愚かな夢に縛られているだけだ。それが現実だよ」
彼らはフォルダをカウンターに残して去った。「月末まで待つ。その後は他の選択肢を探す」
パンは立ち尽くしていた。フォルダを爆弾のように見つめ、ゆっくりとゴミ箱に投げ入れた。
「売らない。諦めない」
だが、その声も手も震えていた。
「パン」リユラが静かに言った。「助けさせてくれないか?」
「いや」パンは仮面を再び被った。「これは僕の重荷だ。僕の責任なんだ」
「なぜ独りで背負う?」
「……誰かを頼れば、依存してしまう。人は去るからさ。親は死ぬし、兄は守って死ぬ。独りのほうがいい。誰かに奪われるものなんて、最初から持たないほうがいいんだ」
彼はオーブンに向かった。リユラは食い下がることができなかった。あまりに深く、硬い壁を見たからだ。だが、帰る前にカウンターにパン代を置き、レシートに電話番号を書き残した。
「気が変わったら連絡してくれ。午前4時の孤独を分かち合いたい時も、僕はここにいる」
エピローグ:ほろ苦い夕暮れ
午後6時。パンは店を閉めた。売り上げは「生き延びるには十分」という程度。
彼はスマホを見た。新しいレビューが書き込まれていた。
『高くて平凡。素人仕事』『さっさと店を畳め』『両親も泣いているぞ』
最後の一言が心臓を刺した。彼は空っぽの店で、泣き崩れた。
スーツの男たちの言う通りかもしれない。全てを捨てて、楽になるべきかもしれない。
スマホが震えた。見知らぬ番号からのメッセージ。
『リユラだ。今朝の紫の髪の奴さ。君のパンは最高だった。悲しみを理解し、それでも美しいものに変える力があった。ありがとう。また明日行くよ。 - R.S.』
パンはそのメッセージを凝視した。数百の憎悪の中に、たった一つの「気づいてくれた」という声。
そんなもので何が変わるわけでもない。でも、彼はその番号を保存した。
明日の午前4時、また悲しみの味のするパンを焼く時。もしかしたら、少しだけ多めに焼くかもしれない。
一人で生きるより、一緒に生きるほうがマシかもしれない、というささやかな期待と共に。
[ナレーター:パン職人の物語が始まる。パン・キッサー。親の夢を追い、企業に狙われ、批判に晒される少年。リユラは壊れた自分を抱えながら、彼を救おうとする。影の中でジサツ・バラが嘲笑い、計画を練る。次回:アイドル「オワリ・シ」が登場。誰も愛さなかったアイドル。戦いは続く。ついてきてくれ。]
TO BE CONTINUED...




