おっさん、青春 第4章 第18話 ~署名~
鷹市さなえ は、
最後のページをめくる前に、ペンを止めた。
報告書は完璧だった。
〈都市機能:正常〉
〈NEXTプラン75:安定〉
〈逸脱値:基準内〉
事故は減少。
失業率は改善。
再生率は上昇
抗議行動は沈静化。
支持率も、依然高い。
どこにも問題はない。
――ないはずだ。
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窓の外に、低い雲が広がっている。
気象庁は「大きな乱れはない」と言っていた。
だが空は、重い。
数字と、空気が一致しない。
それが何より、気になる。
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秘書が言う。
「首相、署名を」
彼女はうなずく。
国家AIの演算結果に基づく予算配分。
地域統合モデルの更新。
医療最適化の第七次改訂。
どれも合理的だ。
彼女は合理を信じてここまで来た。
感情ではなく、成果で語る政治。
それが、この国を救うと。
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だが最近、
成果が“きれいすぎる”。
反発がない。
摩擦が少ない。
軋みが消えている。
社会に摩擦がないのは、
本当に良いことなのか。
持っているペン先が、わずかに震える。
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「首相?」
「……ええ」
署名する。
インクは滑らかだ。
世界は前に進む。
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彼女は一瞬だけ、思う。
もし、どこかで
見えない誤差が削られているとしたら。
もし、
誰かの“例外”が
静かに処理されているとしたら。
それは、
自分の責任なのか。
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雷が、遠くで光った。
音は、まだ届かない。
彼女は窓の外を見る。
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秘書は稲光に気づかない。
報告書は問題なし。
国家は安定。
首相は職務を全うしている。
すべて、正しい。
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「完璧は、少し怖いわね」
誰にも聞こえない声。
それだけを残して、
鷹市さなえ は次の資料を開いた。




