【第八十九話】裂かれし印、動き出す影
渓谷の奥へと続く細い道を、リクたちは慎重に進んでいた。岩肌はねじれ、まるで何か巨大な存在が内部から押し広げたかのような歪みを見せていた。風はなく、空気は淀み、時折、石が一つ転がるだけでも異様な緊張感が走る。
「この感じ……まるで、何かがずっとこちらを見ているようだ」
ゼルドの呟きに、誰も返す者はいなかった。ただ、全員が無言で気配を探っている。リクの《解析》スキルは微かな反応を捉え続けていた。それは、魔力でも、気配でもなく、ただ“存在”そのもの――。
「……封印、じゃない」
リクがぽつりと呟いた。
「え?」
「さっきまでの反応は、あくまで“壊れた痕跡”だった。でも……今、奥から響いてくるこれは……“生きてる”。未だに、活動してる」
言葉を聞いて、ミナが目を細めた。
「ってことは……そこにいるのは、“残骸”じゃなくて、“本体”?」
「……うん。たぶん、何かの……意識が、そこに留まってる」
メイが静かに口を開く。
「なら、普通に接触するのは危険ね。でも、無視して通り過ぎるわけにもいかない。ここが、この渓谷の“中心”なんでしょ?」
リクは黙って頷くと、再び前へ出た。
谷の最奥――大きく裂けた岩壁の前で、彼は歩みを止めた。その場所だけ、世界から色が抜け落ちたように見えた。空間が歪み、風景が揺れている。
そこに、“それ”はいた。
言葉では形容できない。人でも、魔物でも、精霊でもない。黒と灰の粒子が宙に舞い、中心には漆黒の“印”のようなものが浮かんでいた。円でも、線でもなく、ただ存在するだけの“印”。
「……見つけた。これが、“裂かれし印”……!」
リクの声に呼応するように、“それ”が動いた。何かを理解しているように、ゆっくりと粒子が渦を巻く。明らかにこちらを意識している。
そして、その空間に“声”が響いた。
『……キザミ、ホロビ、……トキハ、マダ……』
意味をなさない、だが確実に“言葉”として響くそれに、全員が一瞬、身体を固める。
ゼルドが剣の柄に手を添え、低く叫んだ。
「来るぞ……全員、構えろ!」
直後、岩壁の影から“影のような存在”が蠢いた。漆黒の人型。目も口もなく、ただ殺意と敵意だけをまとう存在が、一体、また一体と渓谷の闇から姿を現す。
その数、十。二十。そして――もっと。
「解析します……!動きにパターンがあるはずです!」
リクが声を張り上げる。
渓谷の最奥、“裂かれし印”の前で、忘れ去られた影たちとの戦いが、いま始まろうとしていた。




