【第四十四】話霧の谷の小さな村
山を越え、谷を抜け――調査団は、北東の山脈をゆっくりと進んでいた。
眼下には深く切れ込んだ谷、その奥には名もなき森と霧の棚引く原野が広がっている。
空気は湿って冷たく、時折吹く風が霧を撫でては、淡く流れてゆく。
「地図だと……この辺り、通れる道が途切れてます。けど、あの谷の先に集落の記号がある」
リクが手元の古地図を広げ、指でなぞる。魔源体の記録に残された最後の座標――“始源の塔”へ向かうには、この谷を越える必要があるようだった。
「見て。……煙だ」
ミナが指差したのは、霧の切れ間に浮かぶ細い煙の筋。
小さな焚火のような、それでいて確かな生活の痕跡。
「誰か住んでる……?」
隊長が唸るように言うと、他の隊員たちも視線を向けた。
慎重に、谷の斜面を降りる。足場は悪かったが、獣道のような踏み跡が続いており、長年人が行き来している様子がうかがえた。
やがて――視界が開けた。
そこにあったのは、霧に包まれた小さな村。
十軒ほどの木造の家々が、谷の地形に沿って並び、中心には湧き水の池があった。
人影が少なく、静けさが支配していた。けれど、確かに人の生活の匂いがある。
「……なんか、時間が止まってるみたい」
ミナがぽつりと漏らす。霧がそう見せているのか、それとも本当に何かが――
「来客かの?」
突然、しゃがれた声が響いた。
古びた外套をまとった老人が、一軒の家の前から顔を覗かせていた。
長く白い髭を蓄え、背筋は曲がっているが、眼光は鋭い。
「……この辺りの者ではないな。お前さんたち、何の用でここへ?」
隊長がわずかに身構えると、リクが一歩前に出た。
「突然の訪問、失礼します。私たちは北東の山脈を越えて、地図に記された遺構を目指している者です。通行の手がかりを探していたところ、この集落を発見し――ご挨拶に」
「……礼儀正しいのう。わしはガノ、村の古老じゃ。まあ、立ち話もなんじゃ。まずは、腹を満たしていけ」
そう言って微笑んだ老人に導かれるまま、調査団は村の広場へと案内されていった。
そこでは、炉に火が焚かれ、湧き水で煮込まれた野菜スープの香りが漂っていた。
「こんな辺鄙な谷に、人が住んでいたとは……」
「わしらは“忘れられた村”と呼ばれておる。古くは旅人たちの中継地じゃったが、道が塞がれてからは誰も来なくなった」
「では……山を越える道をご存じなのですね?」
リクが丁寧に尋ねると、ガノは少しだけ顔を曇らせた。
「うむ……だが、それには越えねばならぬ“壁”がある。“彼方の扉”――霧の森を抜けた先にあるが、近年は開かぬままになっておる」
「鍵が……?」
「鍵は“音”じゃ。特定の音色でしか反応せぬ古の仕掛け。だが、その旋律はもう忘れられて久しい」
一行の間に、沈黙が流れる。
だが、リクの表情は落ち着いていた。
「――調べてみます。“扉”と“音”。何か、手がかりが残されているかもしれません」
始源の塔を目指す旅路は、新たな寄り道へと踏み込んでいく。
忘れられた村に残された記憶と、音が開く封印の謎。
物語はまた一歩、深淵に近づく――




