境界を超える咆哮③
昼前になり、天幕の外から凄まじい足音が聞こえてきた。
「持ってきたぞ!」
ヨタカが両手と翼を使って、大量の肉や野菜などの食料を里から抱え込んで帰還したのだ。
集落の熊獣人たちが涙を流してそれを受け取り、すぐに火を起こして調理を始める。温かな食事が振る舞われ、凄惨だった集落に少しずつ生気が戻っていった。
だが、皆が食事にありついている中、ニキだけは食事に一切手をつけず、テツの傍を離れなかった。検温し、手帳に脈拍を記録し、常にテツの状態に神経を尖らせている。その横顔には、死人のような疲労の色が濃く滲んでいた。
「……おい。其方も少しは食え。そして横になって休め」
ヨタカが焼いた肉を差し出したが、ニキは首を振った。
「いや、俺はまだいいよ。術後の経過が不安定なんだ。脈の打ち方が少し弱い。もし急変したら……」
「後でいい。今は食え」
ヨタカは皿を押し付けたが、ニキはそれを手で押し返した。
「ヨタカ、邪魔しないでくれ。俺は医者だ。患者がまだ苦しんでるのに、自分がのんきに休むわけにはいかないんだよ」
ニキの頑固な言葉に、ヨタカの中で張り詰めていた何かが、ブツンと音を立てて弾けた。
「いい加減にしろッ!!」
天幕が震えるほどの怒鳴り声に、ニキはビクッと肩を跳ねさせた。
次の瞬間、ヨタカの屈強な両手が、ニキの細い両肩をガシッと掴み上げる。
「痛っ……ヨタカ?」
「お前は人間だ!! 脆くて弱い生き物なんだぞ!!」
ヨタカの金色の瞳には、怒りと共に、切羽詰まったような必死さが激しく揺れていた。いつもの厳格な鎧すら剥がれ落ち、そこにあったのはただの、不器用で必死な一人の男の素顔だった。
「患者を見捨てない信念は立派だ。だがな、医者が先に倒れてどうする! お前が死んだら、この熊たちを誰が診るのだ! 自分の限界も分からんような奴に、他人の命が預けられると思うか!」
「だからって、ここで俺が……」
「お前の命はどうでもいいと言うのか!!」
ヨタカの怒声が、悲痛な叫びのように響いた。
肩を掴むヨタカの巨大な手が、微かに震えていることにニキは気づいた。
「あの時……俺を診察した直後、お前は倒れて三日三晩目を覚まさなかった。あの三日間、俺が……どれだけ……ッ!」
ヨタカは奥歯を噛み締め、言葉を詰まらせた。
「……お前が静かに冷たくなっていくのを、あの時もし俺がと悔やみながら、ただ黙って見ていることしかできない側の身にもなれ!この大馬鹿者が……ッ!!」
その言葉の裏にある、剥き出しの「恐怖」。ニキは目を見開いた後、ふっと表情を和らげた。
「……すまない」
「……」
「だが、俺は死なない。あんたの身体も、ここの皆のことも、ずっと診ていたいからだ。……けど今は、休むよ」
ニキが素直に微笑んで頷くと、ヨタカは肩からガクッと力を抜き、荒い息を吐き出した。
「……分かればいい」
ニキがようやく受け取った肉を少しずつ口に運び、壁際にもたれかかって目を閉じると、ヨタカは不器用な手つきでニキに温かい毛布をすっぽりと掛けた。
そして、自分は決して眠るまいとするように、ニキの傍らで槍を抱えて静かに胡座をかいたのだった。
目を覚ますと、寄りかかっていた硬くも温かい感触に気づいた。
ニキは自分が、胡座をかいたヨタカの分厚い肩にすっぽりと頭を預けて眠っていたことを知る。見上げると、槍を抱えたままのヨタカもまた、静かに目を閉じて浅いウトウトとした寝息を立てていた。
(……ごめん。重かったよな)
ヨタカを起こさないよう、ニキはそっと身体を離し、テツの寝台へと向かった。
脈は力強く打ち、熱もすっかり引いている。経過は非常に良好だった。
ふと天幕の隅を見ると、昨日よりもさらに食料や物資の山が高くなっていることに気づく。どうやらヨタカは、ニキが眠っている間にも、休むことなく里と集落を何往復もしてくれていたらしい。
その物資の傍らに、見慣れない包みと手紙が置かれていた。
『ヨォ、ニキ先生。あの馬鹿二人はオレっちが見張ってるから心配無用ッス。ゴズが薬草をいくつか調合してくれたやつを隊長に持たせたんで、使ってやってください。タイガも元気に荷運びしてるッスよ。早く帰ってこないと、診療所がパンクするんで待ってるッス。
追伸。あんまり隊長を泣かせないでやってくださいっス。――シドより』
ニキはシドの代筆の手紙と、不格好だが丁寧に包まれたゴズの薬を見て、自然と頬を緩ませた。
さっきのやり取りのことを里に戻ったヨタカから聞いたのか、あるいは読んでいたのか分からなかったが、シドに隠し事はできなさそうだ。
数日後。テツは日に日に良くなり、やがて上半身を起こしてはっきりと会話ができるまでに回復した。
「アニキ……! アニキィィ……っ!」
ギンとナマリは、テツの分厚い手にすがりついて、ボロボロと子供のように涙を流して喜んだ。
落ち着きを取り戻した天幕で、ニキはテツと今後のことについて話し合った。
「人間の先生……いや、ニキ先生。命を救ってもらった恩は一生忘れねえ。だが、オレたち熊獣人はこの先どう生きていけばいいのか……。里から貰ったこの食料だって、いつまでもタダじゃねえはずだ。このままじゃ、いずれオレたちは飢えて全滅する」
テツの切実な悩みに、ニキは顎に手を当てて考え込んだ。
「少し考えたんだが。熊獣人は力仕事に自信があるって聞いた。例えば……里の木こりや、森の護衛、危険な魔物の狩りなんかを請け負うのはどうだろうか。里の者にとっては危険を伴う仕事を引き受ける代わりに、食料や生活用品を対価として貰うんだ」
「オレたちが、里の仕事を……?」
「これなら、お互いにメリットがある。長老の判断次第だが、俺の診療所でも力仕事がある時はたまにお願いしたい。うちの力自慢は足を痛めていてあまり無理はさせたくないんだ。……ヨタカが起きたら、里に掛け合ってもらえるか聞いてみよう」
「その必要はない」
背後から低い声が響いた。振り返ると、腕を組んだヨタカが静かに目を開けていた。いつから起きて聞いていたのか、その目ははっきりとニキたちを捉えている。
「話は聞いていた。長老には、拙者から口を利いてやろう」
「お前は冷徹だと噂の見張り団隊長……確かヨタカだったか。……いいのか?」
「結界の外で飢え死にされるより、里の労働力として互いに利用し合った方が合理的だ。それだけのことだ」
ぶっきらぼうな言い回しだったが、その言葉が彼らにとってどれほどの希望になるか、ヨタカも理解してのことだった。
ふと、ヨタカに肩に手を置かれた。
「あの手紙、読んだぞ。『隊長』を泣かせてくれるなよ、『ニキ先生』?」
「……はい」
帰ったらシドがまたヨタカにこっぴどく叱られそうだ。
テツの容態が安定したのを見届け、ニキは集落の他の熊獣人たちも順番に診察して回ることにした。
「――まずは診察から」
いつものフレーズと共に、一人ひとりの身体に触れていく。鋭い観察眼で診ていくと、ギンやナマリには長年の栄養不足による内臓の軽度な不調が見つかり、他の者たちにもそれぞれ細かな怪我や病状が隠れていた。
ニキはゴズが作ってくれた薬草も活用しながら、集落の全員を休むことなく丁寧に治療していった。
そして数日後。テツが自力で立ち上がれるほどに完治し、いよいよニキが里へ戻る日がやってきた。
「ニキ先生、ヨタカの旦那。本当に、何から何まで……っ。何かあれば、オレたち熊はいつでもあんたたちの力になる。必ず呼んでくれ!」
集落の皆から口々に厚いお礼を言われ、深く頭を下げられる。
ヨタカはテツに向き直り、言葉を紡いだ。
「ニキが提案した交換条件だが……長老は飲んだぞ。これを機に、お互いの距離を少しずつ縮めていこうと仰っていた」
その言葉を聞いた瞬間、テツの大きな目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「長老様が……。ありがてぇ……本当に、ありがてぇ……ッ」
熊獣人たちにいつまでも見送られながら、ニキとヨタカは里への帰路についた。
木漏れ日の落ちる森の道を歩きながら、ヨタカは隣を歩くニキの横顔をじっと見つめた。
(……どんな悪党でも、恐ろしい獣でも。こいつは決して見捨てず、その手で救い上げてしまう)
呆れるほどの甘さ。けれど、その一切の裏表がない底知れない優しさが、この世界の理を少しずつ変えていくのを、ヨタカは目の当たりにしていた。
(……こいつは、こういう奴だったな)
改めてそう思い至り、ヨタカの口元には、誰にも見せないような穏やかで優しい、微かな笑みが浮かんでいた。
■症例Eにおける緊急手術について
重度の瘴気被曝に伴う組織変異に対し、今回は麻酔を使用できない劣悪な環境下での開腹、および大規模な骨格矯正を余儀なくされた。
特筆すべきは、言語に絶する苦痛を伴う状況下で見せた、大型獣人の驚異的な生命力と筋繊維の反射である。これほどの過剰な負荷に対して、対象の肉体がどう反応し、どう限界を乗り越えていくのか。この貴重な臨床データは、今後のより高度な「処置」を行う上で、極めて重要な基準値となるだろう。
■症例Aの心理的推移に関する追記
本件において彼は、主治医の身を案じるあまり、自身の限界を度外視した過剰な防衛反応と強いストレスを示した。
極限の状況を共有したことで、彼の中に当初見られた強固な警戒壁は劇的に低下し、代わりに「私が不可欠である」という強い執着へと変化しつつある。環境の急激な変化が、対象の精神の形をどれほど容易く変容させるか。この劇的なプロセスを最も近い距離で観察できるのは、医師としての冥利に尽きる。
肉体の限界と、それを乗り越えた先に構築される強固な信頼関係。
結界の外というイレギュラーな環境は、予想以上に実りある結果をもたらしてくれた。引き続き、彼らの状態を細部まで注視していきたい。




