境界を超える咆哮②
急いで医療鞄を持ったニキと、周囲を威圧するような殺気を纏った完全武装のヨタカ。二人は、力なく先導する熊獣人たちの後を追い、里の安息を捨てて結界の外へと踏み出した。
そこは、不気味な瘴気が微かに漂う、真の異界だった。
暗く沈む森の中を、ヨタカが周囲を鋭く警戒しながら歩くこと約一時間。木々が開けた場所に、熊獣人たちの集落はあった。熊獣人達とニキたちはお互いに自己紹介をした。
ようやくついた熊の集落。そこは想像以上に凄惨な状況だった。
集落にいたのはおよそ15人ほどの熊獣人だったが、皆一様に痩せ細り、怪我を負い、暗い顔で身を寄せ合っている。かつての因縁などという言葉すら虚しく響くほどの、限界の光景だった。
「こっちだ……人間の医者よ。お願いだ……」
案内されたのは、集落の最も奥にある粗末な建物だった。
重い獣皮の幕をくぐったニキの目に飛び込んできたのは、寝台に横たわり、虫の息となっている巨大な影。
それが、この集落を束ねる頭領・テツの、瘴気に蝕まれた無惨な姿だった。
重い獣皮の幕をくぐった瞬間、鼻を突いたのは濃密な死の匂いだった。
血の錆びたような鉄の匂いと、傷口が膿んだ悪臭。そして、里の結界内では決して味わうことのない、肺を重く圧迫するような「瘴気」の澱んだ空気が天幕の中に充満している。
壁に掛けられた獣脂のランプが、油の爆ぜる音と共に頼りなく揺らめく。その僅かな灯りの下、部屋の大部分を占める巨大な寝台に、熊獣人の頭領・テツが横たわっていた。
かつて岩のように隆起していたはずの筋肉は削げ落ち、毛並みは泥を被った枯れ草のようにパサついている。浅く、ヒューヒューと喉を鳴らす呼吸のたびに、巨大な胸郭が苦しげに上下していた。
「……アニキ、人間の医者を連れてきた。頼むから、持ち堪えてくれ……!」
傍らで付き添っていた側近の熊たちが、絞り出すような声で言った。それぞれ名をギン、ナマリと教えてくれた。ニキは医療鞄を下ろし、迷いなくテツの巨躯の前に膝をついた。
「ナマリ、清潔な水と、煮沸用の鍋、灯りをありったけ集めて持ってきてほしい。それからギン、入り口を少し開けて換気をしてくれ。この空気じゃ、ボスの呼吸がさらに苦しくなる」
ニキの冷静な指示に、二人は即座に動いた。
「ーーまずは診察から」
ニキはテツの巨大な胸にそっと両手を当てた。
目を閉じ、意識を指先に集中させる。
掌から伝わるテツの肌は異常な熱を帯び、絶えず微かな震えを繰り返していた。
(……診えた。右胸の肋骨が三本、完全に折れて内側に沈み込んでいる。その破片が肺を圧迫し、血が溜まっているんだ。さらに腹部の深い傷口から入り込んだ瘴気が、体内の組織を腐敗させ、巨大な腫瘍を作っている。これが全身の巡りを阻害している原因だ)
皮膚の下にある骨の軋み、血の流れ、臓器の悲鳴が、まるで一枚の精密な図面のようにニキの脳裏に浮かび上がる。
「ギンとナマリ、戻ってきたな。……さて、これから処置を始めるが、二人に話しておきたいことがある」
ニキは手を離し、ギンとナマリに向き直った。
「まず、肋骨が3本折れている。その破片が肺を圧迫している。また腹部を中心に、瘴気に深く毒されている。入り込んだ瘴気が腹部で凝核となり、一種の悪性腫瘍を形成している状態だ。この尋常じゃない発熱も、その瘴気の塊が全身の魔力と血を食い荒らしているのが原因だ」
「コッセツ……シュヨウ……?」
ナマリが耳を寝かせ、理解が追いつかずに戸惑った声を上げる。ニキはナマリのために優しく噛み砕いて説明を続けた。
「つまりだな、胸の骨が折れていてそれが胸を圧迫し息が苦しいみたいだ。あと、ボスの腹の中に『悪い毒の塊』が巣を作ってしまっているんだ。それがボスの栄養を全部横取りして、熱を出させている。薬を飲ませても、その毒の塊が
ある限り治らない。だから今から、ボスのお腹を開いて、その毒の塊を直接切り取る」
「お、お腹を切る……っ!?」
ナマリが息を呑むが、ギンはナマリの肩を強く抱き寄せ、ニキに向かって深く頷いた。
「お願いします。オレたちにできることなら、何でもやります」
ニキは医療鞄から道具を取り出し、煮沸用の鍋にかけながら振り返った。
「ギン、あんたにはテツの身体を全力で押さえつけてほしい。腹部の腫瘍を切り開いて腐敗した組織を取り除くが、効きそうな麻酔はない。切開と同時に激痛で暴れるボスを、あんたのその巨体で完全に固定してくれ」
「……承知した。俺の力で、必ず押さえ込む」
ギンが悲痛な決意と共に頷き、寝台の側に踏み込む。
「ヨタカ、あんたは俺の助手だ」
ニキは視線を移し、金色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「血や肉が裂けるのを見ても動じない、冷静なあんたにしか頼めない。俺の指示通りに器具を渡し、血を拭って視界を確保してくれ」
「……専門外だ。期待はするな。だが、指示されればその通りに動こう。」
槍を置き、腕まくりをしたヨタカの瞳に、戦士としての覚悟が宿る。
「いくぞ――」
ニキのメスが、ランプの炎で炙られた後、迷いなくテツの腹部を切り裂いた。
「ガァァァァアアアッ!!」
凄絶な咆哮と共に、テツの巨大な身体が弓なりにしなった。凄まじい力が跳ね起きようとするが、ギンが上からのしかかり、歯を食いしばって岩のようにその巨躯を押さえつける。
「ぐぬぅぅっ……! 抑えた! 先生、早くしてくれ!」
切り口から、毒々しい色をした膿と黒ずんだ血が噴き出した。ニキは躊躇なく傷口に指を差し込み、癒着した組織を物理的に剥がしていく。指先の感覚だけを頼りに、正常な組織を傷つけぬよう、腐敗した部位
だけを削ぎ落とす。
「ヨタカ、そこに置いてあるあれを! 先が曲がっている方だ。そう、それを傷口の端に噛ませて開いててくれ!」
血の海と化した患部。ニキの白い肌が、額から流れる汗と返り血で汚れていく。
ヨタカは不器用ながらも、ニキの指示に必死に食らいついた。血で滑る鉗子を握り、ニキの視界を確保し、指示されるがままに清潔な布で溢れ出る血を拭い取る。
至近距離で見るニキの手元に、ヨタカは畏怖すら覚えていた。一秒の無駄もない、極限の動き。死神の如き正確さで、テツの命の糸を一本ずつ繋ぎ直していく。
「……次は胸だ。折れた骨を戻す。ギン、絶対に動かさないでくれ! ヨタカ、俺が骨の位置を調整する間、布を胸郭にきつく巻きつけて固定してくれ」
骨の擦れる嫌な音、血の重苦しい匂い、そして緊張感で張り詰めた空気。
数時間にも及ぶ死闘の末、腹部の傷口を丁寧に縫い合わせ、胸郭に分厚い包帯を巻き終えた時、天幕の外はすでに白々と夜が明け始めていた。
「……終わっ、た……。峠は越えたよ……」
ニキはその場にへたり込んだ。極度の集中により、その呼吸は浅く、全身が汗でびっしょりと濡れている。
テツの顔には僅かに赤みが戻り、穏やかで規則正しい寝息を立て始めていた。
「2人とも、ありがとう。助かった。……ところで、ヨタカは前にもこういうことをしたことがあるのか?」
ニキは自分の汗を拭くヨタカに聞いた。
「……。……いや、ない。何故だ。」
「いや、処置を頼んだ時に慌てもせず断りもしなかった。介助は専門外だと言っていたが物品の名前を知っていたし技術も不器用ながらにしっかりできていた。だから気になったんだ」
「拙者は戦士だ。仲間を応急処置することもある。専門外だが戦士として覚える義務がある。それだけだ。」
ヨタカは顔を背けて目を見ずに言った。
「……すまねえ……。恩に、きる……」
薄く目を開けたテツが、掠れた声でニキたちに感謝を述べる。ギンとナマリは泣き崩れながらテツの手にすがりついた。
「喜ぶのはまだ早い。腫瘍は取ったが、君たちの頭領の体力は限界だ」
ニキは立ち上がり、周囲を見渡して厳しい声を出した。
「まずは環境の改善だ。ギン、ナマリ、今すぐこの天幕の空気を入れ替えてくれ。それから綺麗な水を沸かし、ボスの寝床の獣皮を清潔なものに交換するんだ。感染症を防ぐために、徹底的に清潔にしてくれ」
「は、はいっ!」
二人が慌てて動き出すのを見届け、ニキはヨタカに向き直った。
「ヨタカ。本当に申し訳ないが……里に戻って、食べられるものをありったけ持ってきてくれないか? 彼らには絶対的に栄養が足りていない。肉、野菜、卵……持てるだけ全部頼む。金なら俺が払うから」
ヨタカは眉間を深く寄せた。
「……お前をこの結界の外に置いたまま、拙者一人で里に戻れと言うのか。危険すぎる」
「お願いだ。今、ボスの体力を戻さなきゃ、せっかくの手術が無駄になる」
ニキの決して引かない頑固な瞳を見て、ヨタカはギリッと奥歯を噛み締めた。
「……チッ。お前というやつは。……金などいらん、見張り団の備蓄から見繕ってくる。……絶対にここから動くなよ。すぐに戻る」
ヨタカが風のような速度で里へ向かって走り去った後、ニキは持参した薬草を煎じ始めた。
コトコトと鳴る鍋の前で、ニキはテツの体温や脈拍を定期的に測り、手元の小さな手帳に細かく書き記していく。
「……同じような瘴気の患者が出た時、この記録が必ず役に立つかもしれないからな」




