境界を超える咆哮①
どんなに恐ろしい牙を剥いてこようと、苦しんでいる者がいるなら助ける。それが俺の仕事だ。
結界の外、肺を焼くような瘴気に包まれた森の奥で、彼らは長年の因縁を投げ打ってでも、死に物狂いで家族の命を繋ごうとしていた。
俺の無茶に巻き込んでしまった不器用な戦士には、またこっぴどく叱られてしまったけれど。怒鳴りながらも一番近くで俺の背中を護ってくれる彼の存在が、あの極限の手術の中でどれほど俺の支えになっていたか、きっと本人は気づいていないだろう。
これは、分厚い結界を越え、傷ついた獣たちと新たな絆を結んだ、決死の治療の記録だ。
ゴズとタイガが診療所の助手に加わってからというもの、ニキの生活は劇的な変化を遂げていた。かつては一人で立ち往生していた薬草の管理も、今では3人の連携によって完璧に回っている。
「先生! 頼まれてた解熱の薬草、全部煎じ終わったで! ええ色出とるし、効き目はバッチリやと思うわ!」
「俺は包帯の洗濯と乾燥、終わらせたぜ。いつでも使えるように棚に入れといたからな」
手先の器用なゴズは、今や薬の調合においてニキの右腕とも呼べる存在になり、力自慢のタイガは重傷者の運搬や機材の整備を一身に引き受けていた。
当初は彼らを「薄汚い強盗」と蔑んでいた里の者たちも、泥にまみれて働く二人の姿を見て、次第に親しげに声をかけるようになっていた。
診療所が平和な夜の帳に包まれていた、その時だった。
ズゥゥゥンッ……!!
空気を震わせるような、地響きを伴う轟音。
「な、なんや!? 地震か!?」
「いや、結界の方だ! 叫び声が聞こえるぞ!」
飛び起きたゴズとタイガが、寝間着のまま部屋に駆け込んできた。
「ニキ先生! 外、エライ騒がしいで! 見張り団の連中が叫んどる!」
「二人とも、絶対にここから出るな。俺が見てくる」
「アカン、先生一人で行かせるわけには……!」
「命令だ。患者を守るのがあんたたちの仕事だろ!」
ニキはもしもの時にと医療鞄をひっつかみ、夜の冷気の中へと飛び出した。
里の広場は、松明の火が激しく踊る狂乱の場と化していた。
里を囲む鉄壁の結界が、無理やりこじ開けられたかのように激しく火花を散らしている。その裂け目から侵入してきたのは、二人の巨大な影――見上げるほどの巨躯を誇る、熊獣人だった。
「結界を破りおって……! これ以上進むなら、容赦はせんぞッ!」
ヨタカが愛槍を構え、その金色の瞳を鋭く光らせる。周囲を囲むシドや兵士たちの切っ先が、侵入者の喉元に向けられていた。
「グルルァアアッ! 退け……! 退かぬなら、お前たちを殺してでも……!」
熊獣人の一人が、血走った目で咆哮する。
「ニキ! なぜここに来た! 危険だ!」
ヨタカが背後の気配に気づき、叫ぶ。その声には、隊長としての威厳以上に、ニキを危険に晒したくないという焦燥が混じっていた。
「……ヨタカ、何が起きてるんだ? なぜ彼らはあんなにボロボロになってまで……」
「……熊獣人の集落の者だ」
ヨタカは槍の構えを崩さず、忌々しそうに吐き捨てた。
「連中とは、先祖の代からの縄張り争いによる軋轢がある。しかし今ではもはや過ぎた歴史だ。覚えている者も少ない。だが、一度深まった心の溝は簡単には埋まらん。里の者とこやつらの集落の者、お互い顔を合わせれば理由もなく憎悪が沸き、互いが血を流すまで傷つけ合ってしまうのだ。」
ヨタカは目を細め、松明の光に照らされる熊獣人を睨んだ。
「だからこそ……妖怪を防ぐこの結界で、里に奴らを入らせないようにした。互いを分け隔て、距離を置くことで無益な血が流れるのを防ぐためにな」
(……そうか。それはきっと、聡明な長老のシガオが考え出した、苦肉の策だったんだな……)
ニキは胸の奥が痛むのを感じた。憎しみ合いたくないからこそ、物理的に壁を作るしかなかった不器用な歴史。
だが、熊獣人はその言葉を聞いて、血を吐くような叫び声を上げた。
「ふざけるなッ! 貴様らが結界で里に俺たちを入らせないようにしたせいで、外にいる俺たちの集落はもう限界だったんだ! 俺たちの体じゃ取れる獲物は限られ、食料も物資も足りねぇ! 薬を買おうにも、金すらねぇんだよッ!」
熊獣人は、自らの胸を激しく叩き、血走った瞳から大粒の涙をこぼした。
「アニキが……俺たちの頭領が倒れた! 頼む、物資を……アニキのための薬と食料をくれ! 貴様らと殺し合って、この命が尽きようとも、俺たちは絶対に物資を持ち帰らなきゃならねぇんだッ!!」
ボスの命を繋ぐためなら、長年の因縁も、自分たちの命すら投げ捨てる。その凄絶なまでの「覚悟」が、夜の広場に木霊した。
だが、見張り団の副隊長であるシドは、冷たく目を細めてナイフを弄んだ。
「……へぇ。愛するアニキのためなら、強盗でも人殺しでもするってことっスか。オレっちたちを殺してでも物資を奪うなんて、随分と物騒な覚悟っスねぇ」
シドの軽い口調の裏に、確かな殺意が宿る。お手玉のように遊んでいた投げナイフを手に持つ。
「隊長。武力で押し通ろうってんなら、問答無用でやっちゃっていいッスよね?」
「……ああ。里を脅かす覚悟で来たのなら、こちらにも相応の覚悟がある」
ヨタカが槍の石突きを地面に打ち鳴らし、一触即発の空気が極限まで張り詰めた。
ニキは、ヨタカの横をすり抜け、ひりつくような殺気の中心へと全速力で飛び出した。
「――待てッ!!ニキっ! 戻れッ!!」
ヨタカの手が空を切る。
ニキは、今にも飛びかかろうとしていた熊獣人の、鼻先が触れるほどの距離まで近づいた。見上げるような巨体。全身傷だらけで、息をするたびに血の匂いが漂ってくる。
(……威嚇しているのに、足元が震えている。強盗に来た戦士の体じゃない。見るからにやせ細っている。明らかな栄養失調と、極限の疲労だ……)
「……あんたたち。助けがいるのか?」
その静かな一言に、広場全体が水を打ったように静まり返った。
咆哮を上げていた熊獣人が、ハッとしたように動きを止める。焦点の合わない目でニキを見下ろし、その太い腕がガタガタと震え始めた。
「……たすけて……くれるのか? 人間……」
「ああ。もし困っているのなら助けたい。……それだけだ」
その瞬間、熊獣人の巨大な身体が、ガクガクと崩れるように膝をついた。
「俺たちの……頭領を……アニキを助けてくれ……ッ! このままじゃ、集落が……ッ!」
「……正気か、ニキ!!」
ヨタカが背後からニキの肩を乱暴に掴み、強引に引き戻した。
「ついて行くと言うのか。結界の外、あの集落へ! 其方がどれほど特別でも、外は正常な生き物を蝕む瘴気が支配する死の領域だぞ!」
「……ヨタカ、手を離してくれ」
「離せるかッ! 略奪に来た獣人だぞ、罠の可能性もある! 彼らの言葉を真に受けて、其方が向かった先で食い殺されたらどうするつもりだ!」
ヨタカはニキの肩を強く握りしめ、物理的な力でねじ伏せようとするかのように立ちはだかった。里を守る隊長として、そして何より――絶対に失いたくないという痛切な想いが、彼にそうさせていた。
「ヨタカ。あんたが怒るのもわかる。でも、俺には見えるんだ」
ニキは握られた腕を自ら振り解き、ヨタカの金色の瞳を真っ直ぐに睨み返した。
「彼らの体はボロボロだ。奪いに来たんじゃない。死に物狂いで、ボスの『命』を繋ぎに来たんだ」
「……っ!」
「怪我人がいるんだ。そこに人間も獣人も、結界の中も外も関係ない。罠かもしれない、妖怪が出るかもしれない。でも、この熊が俺に向かって泣きながら『助けてくれ』って頭を下げたのは事実だ」
ニキは決然と告げた。
「俺は行くよ。あんたが力ずくで止めても、俺は這ってでもあそこへ行く」
張り詰めた沈黙。二人の視線がぶつかり、火花を散らす。
やがて、ヨタカはギリ、と奥歯を噛み締めると、悔しそうに顔を歪めて天を仰いだ。
「……チッ。医者はみんなこうなのか?本当にお前という奴も救いようのない大馬鹿者だ。命知らずにも程がある」
ヨタカは持っていた槍を、怒りをぶつけるように地面に突き立てた。
「……行くぞ。ただし、拙者が監視として同行する。お前一人を外へ行かせるわけにはいかん。一歩でも背中から離れてみろ、その場で里へ引きずり戻してやるからな。……いいな!」
「……ありがとう、ヨタカ。頼もしいよ」
ニキが安堵の笑みを浮かべると、ヨタカはバツが悪そうにそっぽを向いて短く鼻を鳴らした。
「隊長、大丈夫っスか?オレっちが代わりに行くっスよ。」
「いや、いい。拙者が行く。……今度こそ。」
「……わかったっス。でも無理はダメっスよ。」
「……あぁ。わかってる」




