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白きこの手は何を成すのか  作者: N民


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隠された傷痕①

完璧な礼節と、穏やかな微笑み。それが、彼が十五年という歳月の中で身につけた分厚い「鎧」だった。

誰に対しても丁寧に接するが、決して一定の距離より内側には立ち入らせない。その見えない壁の奥で、彼がどれほどの痛みを一人で抱え込み、何に怯えているのか、俺は気づくのに少し遅れてしまった。

だからこそ、俺はこの診療所の騒がしい仲間たちと共に、彼の手を強引に引き、俺たちの輪の中へ迎え入れることにした。少々乱暴なお節介だったかもしれないが、俺たちにはその不器用な方法しか思いつかなかったのだ。

今では彼が、俺たちの日常に欠かせない、温かく美味しい紅茶を淹れてくれている。彼の冷え切った心が、少しでもこの場所の温もりで満たされていくのを見るのが、今の俺の何よりの喜びだ。

これは、分厚い鎧を纏った完璧な執事が、本当の意味で新しい家族の輪に加わるまでの記録だ。


熊獣人の集落からの帰り道。限界を迎えていたニキは唐突に意識を手放し、ヨタカに抱えられて診療所に帰ってきた。そのまま三日三晩、深い眠りに落ちていた。


「……ん……」


薄く目を開けると、見慣れた診療所の天井があった。


「ニキ先生!!」

「先生っ! よかった……っ! 死んでしもうたかと心配したでぇ……!」


身を起こすより早く、大泣きするゴズとタイガが両側から力いっぱい抱きついてきた。


「うわっ……重い、重いって。……ただいま、二人とも。心配かけてごめんな」

ニキが苦笑いしながら二人の背中を撫でた、その直後だった。


「当たり前だ!! この大馬鹿者がッ!」


雷のような怒声と共に、深い隈を作ったヨタカがずかずかと歩み寄ってきた。


「自分の身を少しは大切にしろ! 貴様が倒れればどうなるか、何回も同じことを言わせるな!」

「すまない、ヨタカ。ずっと見ててくれたんだな。次からは気をつける……」


ニキが素直に謝ると、入り口の壁に寄りかかっていたシドが、クスクスと笑いながら口を挟んだ。


「それは無理っスね。先生は多分そういう性格っぽいっスから」

「シド、貴様……」

「簡単な話っス、さっきまでみたいに隊長がずっと傍で見守っててあげれば良いんスよ。ね?」

「なっ……! シ、シド! 上官に向かって何たる口の利き方だ!」


顔を真っ赤にして怒鳴るヨタカに、シドは「はいはい、すんませんっス〜」と全く悪びれる様子もなく肩をすくめた。

数日後。診療所の仕事に復帰したニキだったが、患者は増える一方で、記録と補助を任せられる人材がどうしても必要だった。


「ヨタカはあの時処置の介助が上手かったが、見張り団の仕事があるからなかなか頼めないな。シドも同じだし……」


ニキがこぼすと、ヨタカが腕を組んで答えた。


「長老に、新しい人材の派遣を依頼しておく。今のこの診療所なら、希望者はいくらでもいるだろう。」



その翌日。診療所で仕事の準備をしているとカラン、と静かに扉が開いた。


「ごめんくださいませ。長老様より派遣され、参りました」


透き通るような落ち着いた声。そこに立っていたのは、見上げるほどの長身に立派な角を持った鹿の獣人だった。長袖のシャツに身を包み、胸元には鮮やかな紫の花のブローチが光っている。タイガやヨタカ程ではないがシャツの上からでも鍛えられた身体であることは分かる体格。


「わたくし、ユウと申します。元は王族の執事として、15年ほど仕えておりました」

「……王家?」

「はい。あなた様がニキ先生でいらっしゃいますね。本日よりお仕えいたします。医学、ならびに薬学については多少の心得がございます。どうぞ、何なりとお申し付けくださいませ。」

「ニキだ、よろしく。来てくれてありがとう、助かるよ。早速だけどここの案内をしよう。ついてきてくれ。」


ユウを連れて診療所内と併設している我が家を簡単に案内した。


「……以上だ。働けそうか?」

「「ご心配には及びません。わたくしに務まらぬことはございません。必ずや、先生のお力となってご覧に入れましょう。」


ユウが働き出してからの数日間、診療所の空気は劇的に変わった。


「うう……腹が、痛てぇ……」

「先生! 腕を切っちまって、血が止まらねえ!」

待合室が混雑し始めた時、ユウは静かに、だが通る声で指示を出した。

「皆様、どうかお静まりくださいませ。――腕より出血なさっている方は、すぐにこちらへお越しください。ニキ様、恐れ入りますが緊急の止血処置をお願いいたします。

……腹痛を訴えておられた方、脈は安定しているご様子。ご安心くださいませ。温かい白湯をご用意いたしましたので、どうぞこちらをお召し上がりいただき、順にお待ちくださいませ。」


ただ順番通りに案内するのではない。重症具合を瞬時に見分け、診察室に入る順番を的確に入れ替えていくのだ。

さらには、足の悪い老人にはそっと肩を貸し、泣く子供には目線を合わせて優しく微笑みかける。


「すごいやん……!あんなパニックやった待合室が、あっという間に静まり返っとるで!」

「ユウさん、マジで何者だよ……!」


ゴズとタイガが目を丸くして感心する中、ユウはふわりとニキの机にティーカップを置いた。


「先生。ちょうど休憩のお時間です。喉に良いお茶を淹れました」


完璧な立ち振る舞い。まさに有能の極みだった。



だが、その日の夕方。


「先生、診療録の整理が終わりました」


ユウがデスクにお茶のカップを置いた時、ほんの僅かに指先が強張り、カチャリと不自然な音が鳴った。

ニキはカルテから目を上げ、ユウの優雅な笑顔を見つめた。


「……ユウ。ちょっと、手を見せてくれ」

「わたくしの手、ですか? お見せするような立派なものではございませんよ」


ユウは困ったように微笑んで静かに手を後ろに隠そうとしたが、ニキは譲らなかった。


「頼む。見せてくれないか」

「……かしこまりました。お目汚しとなりますこと、何卒ご容赦くださいませ。」


渋々差し出された手。それは長年の過酷な労働を物語るように酷く荒れ、人から見えにくい関節の裏などに、不自然な傷やタコが集中していた。

ニキの中で、医者としての強い直感が警鐘を鳴らす。


「ユウ。身体を診せろ」

「なっ……! 何を仰るのですか、先生。わたくしはどこも悪くなど――」

「上のシャツを脱いでくれ。今すぐ」

「お断りします! わたくしは……!」


かつてないほど強い口調で抵抗するユウ。診療所にいたゴズやタイガ、ヨタカとシドが何かあったのかとニキのいる部屋に来る。


ニキが真っ直ぐに見つめ続けると、やがて諦めたように息を吐き、震える指でシャツのボタンを外した。


「……っ!」


シャツの下から現れたのは、あちこちが赤黒く腫れ上がった痣と、焼け焦げたような無数の火傷の痕だった。


「これは……」


その場にいる全員が言葉を失った。


「……前の主人は、非常に厳格なお方でした」


ユウは自分の身体を隠すように抱きしめ、淡々と語り出した。


「お茶の温度が一度違った。足音が響いた。少しでも粗相をすれば、厳しい『躾』が下りました。……ですが、わたくしが仕えていた王朝は人間との争いで敗れ、滅びました」


ユウは服を着直しながら、いつもの穏やかな笑顔を作った。


「行き場を失っていたところに、こちらの里の長老様より今回の話が来たのです。……ですから先生、これはもう終わった話です。わたくしは今、ここで皆様のお役に立てるだけで幸せですから」


少し暗い表情をしていたユウがすぐいつもの穏やかな笑顔になる。


「……終わった話だと言うなら」


ニキの声が、微かに震えていた。


「なら、この生々しい痣と火傷は、なんなんだ!あんたはまだ、この痛みに苦しんでいるだろ!」

「……」


ユウは言葉を失い、押し黙った。

(たった一度の失敗で焼かれ、殴られ……それでも完璧な執事として、笑顔を作り続けてきたのか……)

ユウの背負ってきた絶望とやるせなさが胸に迫る。


自分の悲惨な過去を話しても決して表情を崩さなかったユウだったが、ニキが悲しむ姿を見た瞬間、完璧な執事の仮面が少しだけ崩れた。誰にも知られない程度に。


「……ニキ先生はやはりお優しい方でございますね。」


ユウは静かに微笑んだ。


ニキはそっと滲んだ涙を拭う。デスクにあった軟膏を手にとり1つを選んだ。


「今日はとりあえず、この軟膏を塗ろう。今はこれしかないがマシにはなるだろう。今の傷に合うものはまた探しておくよ」


優しく傷跡に薬を塗ると肌に触れるとユウが一瞬だけ表情を崩した。軟膏を塗る指に僅かながらの身体の震えが伝わる。誰にも気付かれない程に抑え込んだその震えをニキだけは感じ取った。

軟膏を塗り終わり、ニキは静かに立ち上がった。


「今日はもう、終わりにしよう。みんな、それぞれの家に帰ってゆっくり休んでくれ」


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