境界の来訪者②
数日後。里の端に建てられた真新しい木造の診療所。
運び込まれた器具や薬草を整理していると、重い木扉が軋む音を立てて開き、夜風と共にヨタカが入ってきた。
見張り団の厳しい公務を終えた彼の身体からは、隠しきれない疲労と、魔力の酷使による熱が立ち上っている。
「……来たぞ。其方が一度寄れとうるさかったからな」
「待っていたよ。さあ、その大きな身体を診察台に預けてくれ」
ニキは穏やかに微笑み、清潔なシーツが敷かれた台を指差した。ヨタカは「フン」と鼻を鳴らしながらも、重い革の鎧を脱ぎ捨て、屈強な上半身を露わにする。
刃物による無数の切り傷の痕、魔獣の爪痕。そして何より目を引くのは、人間の広背筋から続くようにして生えている、巨大な鷹の翼の付け根の複雑な筋肉群だ。その圧倒的な質量と歴戦の凄みに気圧されることなく、ニキは静かに背後に立った。
「……三日間、ずっと俺の側にいてくれたんだろ? ありがとう、ヨタカ。おかげで俺は今、こうして生きてる」
「……長老の命だと言ったはずだ。勘違いするな。それに、怪我人の番など慣れている」
ぶっきらぼうに吐き捨てるヨタカの背中に、ニキの指先が触れる。
その瞬間、再びニキの意識は極限まで研ぎ澄まされた。
「――まずは診察から」
(……右の肩甲骨の下。風の魔力を放つ際の反動が、筋膜の深層を激しく癒着させている。ここから首にかけての血流がひどく悪いな)
ニキの手が、ヨタカの熱を持った肌を滑る。
「っ……!」
ヨタカの身体が大きく跳ねた。最強の戦士として生きてきた彼にとって、無防備な背中を他者に晒すことは、本能的な恐怖と緊張を呼び起こす。
「動かないように。……ここか、一番筋肉が悲鳴を上げているのは」
ニキは迷いのない手付きで、すり鉢で丁寧に練り上げた特製の軟膏を指に取った。血行を促進し魔力を散らす数種類の薬草を配合したものだ。
冷たい薬指が、熱を持ったヨタカの広背筋から翼の付け根へと滑り込み、凝り固まった筋膜を、痛みを伴うほどの強い圧で深部から解していく。
「あ……く、う……ッ!」
「痛いか。少しの我慢だ。……あんたは強すぎる。だから、自分の身体が壊れかけていることに気づかないフリをして、全部気力でねじ伏せてしまうんだ。でも、俺の手には、あんたの身体の悲鳴が全部聞こえている」
ニキの指先は筋肉の構造を正確に捉え、滞った血流を強制的に押し流していく。右の足首には、鎮痛と組織の再生を促す薬草をたっぷりと塗り込んだ湿布を当て、手際よく包帯で圧迫固定した。
沈黙が続く中、痛みに耐えながら、ヨタカが掠れた声で問いかけた。
「……なぜだ。なぜ、其方はそこまでして拙者を診る。記憶もなく、この里では余所者だ。拙者のような獣人に、ここまで深入りする利点などないはずだろう」
ニキは手を止めず、心底不思議そうな声で答えた。
「利点? そんなものはない。……ただ、助けたい。困っているなら助ける。それだけだ」
「助けたい……だと?」
「そう。あんたが俺の命を繋いでくれたように、俺もあんたがこの先ずっと、元気に空を飛べるようにしたい。……それに」
ニキは軟膏を拭き取り、ヨタカの背中に生えた、美しく力強い黒 鋼色の翼の羽毛を、愛おしむようにそっと撫でた。
「あんたの翼、すごく綺麗だ。こんな最高の身体がボロボロになっていくのを、俺の医者としてのプライドが許さない」
――ドクン、と。
ヨタカの心臓が、痛いほどに大きく跳ねた。
『ヨタカの翼は、本当に綺麗だね。ずっと元気で飛べるように、俺が手入れしてあげる』
ニキの言葉と、その優しい手の温もりが、ヨタカの脳内で「過去の記憶」と完全に重なり合った。
「……っ、触るなッ!」
ヨタカは弾かれたように立ち上がり、ニキの手を乱暴に払い除けた。
「……褒めても、何も出ぬと言っているだろう……! 拙者は、ただ……」
怒鳴りつけようとしたヨタカの声は、微かに震えていた。
ニキが驚いて顔を上げるとヨタカはこちらを見ようともせず、ただ下を向いていた。
深く息を吸い、ニキを見てヨタカが深くため息をついた。
「……おかしな奴だ、其方は」
ヨタカは逃げるように革鎧を掴み取ると、そそくさと扉を開けた。
「処置はご苦労だった。……今日はもう、休め。無理をすれば、また倒れるぞ」
背を向けたままそれだけ言い残し、夜の闇へと消えていく。その足取りは、先ほどまでの重だるさが嘘のように軽やかだった。
「……なんだよ、結構可愛いところあるじゃないか」
ニキは扉を見送りながら小さく笑ったが、直後、急激な疲労と目眩に襲われ、診察台に手をついた。
(……少し、無理をしすぎたかな……。あいつの身体の奥まで、診すぎたみたいだ……)
相手の身体のすべてを無意識に見透かす力の代償。
ヨタカの身体の状態と行った処置を近くにあった紙と羽根ペンで思い出しながら書いていった。
心地よい疲労と共になだれ込んできた強烈な眠気に抗えず、ニキは再び、深い眠りへと落ちていった。
■症例Aについて
特異な発達を遂げた有翼種。特筆すべきは、あの巨大な翼を支える強靭な筋繊維と、過剰な負荷に耐え得る循環器の耐久性だ。過酷な環境下での彼の「守る」という強い意志が、痛覚の限界値を極限まで引き上げている。彼が今後、どこまでの負荷(処置)に耐え得るのか。主治医として、引き続き注視していきたい。




