境界の来訪者①
目を覚ました俺が最初に見たのは、鋭い金色の瞳と、恐ろしいほどの威圧感だった。でも、今の俺は知っている。あの分厚い胸板の奥には誰よりも不器用で優しい心が隠れていて、背中にはため息が出るほど美しい鋼色の翼があることを。無茶ばかりする君が少しでも長く、元気に空を飛べるように。俺は君の専属医でありたい。
その場所は、死に絶えた外界から切り離された、奇跡のような箱庭だった。
結界の外側には、吸い込めば肺が爛れ、やがて精神が狂い死ぬとされる濃緑の「瘴気」がところどころで吹き出している。代々の長老たちが繋いできた不可視の防壁だけが、この獣人たちの隠れ里を破滅から守っていた。この世界に住む人々は同じようにして生活していた。
結界の最端、複雑に絡み合った古代樹の根が壁のようにそびえる森の最深部。普段は獣すら寄り付かないその境界線付近で、里を守る見張り団の隊長・ヨタカは、不意に足を止めた。
「……何だ、これは」
巨木から零れ落ちる薄暗い光の中。湿った腐葉土の上に、あり得ない「異物」が横たわっていた。
それは、この獣人の里には一人として存在しないはずの種族――毛皮も、鱗も、強靭な爪も持たない脆弱な生き物、人間だった。
男の姿は、見るも無惨だった。簡素な衣服は獣の爪で引き裂かれたようにズタズタになり、露わになった白い肌には、骨にまで達しようかという深い裂傷がいくつも刻まれている。致命傷だ。本来なら、とうの昔に失血死していてもおかしくない。
だが、ヨタカの鋭い金色の瞳は、その凄惨な傷口で起きている不可解な現象を見逃さなかった。
流れ出るはずの血液が不自然に凝固し、千切れたはずの肉の繊維が、まるで自らの意志を持っているかのように蠢き、ゆっくりと塞がりかけていたのだ。
(傷が……自ら治癒しているだと?)
ヨタカは、背に負った鋼のように硬い巨大な鷹の翼をわずかに震わせ、警戒のレベルを引き上げた。丸太のように太く、岩のように硬い筋肉で覆われた右腕が、無意識に腰の得物へと伸びる。
「隊長、どうしたんスか? 急に立ち止まって……ゲッ!?」
背後の茂みを掻き分けて駆け寄ってきたのは、副隊長のシドだ。彼は倒れている男の姿を認めるなり、トカゲ特有の瞬膜を激しく瞬かせた。
「に、人間っスか!? なんでこんな里の外れに……結界を越えてきたって言うんスか!?」
「分からん。だが、放っておけば死ぬだろう」
ヨタカは短く吐き捨てた。剣の柄から手を放し、血まみれの男の身体を慎重に抱え上げる。
「長老に判断を仰ぐ。シド、周囲の警戒を厳にせよ。結界に綻びがないか確認しろ」
里を統べる獅子獣人・シガオの館に運び込まれた謎の人間に対し、長老は玉座から重苦しい溜息を落とした。
「……この者に、里を害するような悪意は感じられぬ。だが、人間が結界をすり抜け、この里へ辿り着いたという事実は重い。ヨタカ、シド。其方らにこの者の監視を命ずる。目覚めるまで、一時も目を離すな。もし妙な素振りを見せれば……その場で斬り捨てて構わぬ」
「御意」
「わかったっス」
深く頭を下げるヨタカにとって、それはただの、退屈で厄介な任務の始まりに過ぎないはずだった。
意識の浮上は、強烈な嗅覚の刺激から始まった。
土の匂い、古木の湿った香り、そして、不器用に煎じられた薬草の青臭く苦い匂い。
ニキが鉛のように重い瞼を持ち上げた時、最初に見えたのは、逆光の中に佇む巨大な影だった。
「……気づいたか、人間」
地響きのような低音。影がわずかに動くと、背に負った巨大な羽根がシュルリと空気を切り裂く音を立てた。
そこにいたのは、鷹の鋭い面影を残す獣人だった。身長は優に180センチを超え、隆起した胸筋や丸太のような腕は、ただ生きているだけでは決して身につかない、血を吐くような鍛錬の歴史を物語っている。その全身から放たれる威圧感は、並の人間であれば視線を向けられただけで呼吸を忘れるほどだ。
「ここは……。あんたは、誰だ?」
掠れた声で問うニキに、鷹獣人は腕を組み、見下ろすように答えた。
「拙者はヨタカだ。里の見張り団隊長を務めている。其方を救ったのは長老だが、正体が知れぬ以上、拙者が監視させてもらう。……お前の名は?」
「……ニキ、だ。ニキとしか、思い出せない」
記憶がないというニキの言葉に、ヨタカは冷徹な視線を突き刺した。何者かの罠かもしれないと警戒を強めた。
だが、満身創痍のはずのニキは、屈強な獣人に怯えるどころか、不思議そうに首を傾げた。その金色の瞳は、ヨタカの威圧的な顔ではなく、彼の喉元の微かな拍動や、無意識のうちに右足の重心を数ミリ外側に逃がしている立ち方に固定されている。
「監視……。それより、あんた。さっきから呼吸の音が微かに濁っているな。右の足首も、不自然に庇っている。古傷か?」
「……何を言っている。拙者の身体に不調などない。黙って寝ていろ」
ヨタカは鼻で笑い飛ばした。戦士にとって不調を悟られることは死を意味する。この男は出まかせを言っているに過ぎない。
だが、ニキの瞳に宿った光が、ふっと質を変えた。
穏やかで弱々しかった青年の顔から温度が消え、まるで深淵を覗き込むような、静謐で、ひどく鋭い「医者」の顔になる。
「いいや、身体が悲鳴を上げている。……あんた、俺に身体を診せろ」
ニキの言葉は静かだったが、そこには逆らうことを許さない不思議な強制力が宿っていた。
「ふん、脆弱な人間に何がわかる。拙者はこの里で最強の戦士だ。其方のような弱者に――」
「いいから。……そこに寝てくれ」
(なんだ、この感覚は……)
ヨタカは内心で舌打ちをした。断ればいい。切り捨てればいい。しかし、ニキのその絶対的な瞳に見据えられた瞬間、己の意志とは無関係に、まるで「そうしなければならない」という抗いがたい引力に押し切られるように、ヨタカは渋々と丸椅子に腰を下ろした。
「では。まずは診察から」
その言葉がニキの唇から零れた瞬間。彼はよろつきながらも寝台から身を乗り出し、ヨタカの屈強な手首を掴んだ。
「っ……!」
ヨタカは思わず息を呑んだ。触れられた箇所から、まるで目に見えない極細の冷たい針が自分の血管や筋肉の隙間を這い回り、身体の内側を隅々まで透かし見られているような、得体の知れない戦慄が走ったからだ。
ニキは目を細め、ヨタカの脈を計りながら、その全身をじっと見据える。
彼の頭脳には今、ヨタカの骨格の歪み、血液の粘度、筋肉の繊維一本一本の断裂と再生の痕跡が、膨大な情報として流れ込んできていた。それはただの医学知識を超越した、異常なまでの観察眼だった。
「……やはりな。左の肺の裏側、胸膜に古い癒着がある。昔、極めて強い物理的衝撃を受けた跡だ。そのせいで横隔膜の動きが制限され、深い呼吸が阻害されている。右の足首は……。軟骨がすり減り、湿気が多い日は骨の芯まで痛みが響くはずだ」
「なっ……」
ニキの指が、ヨタカの手首から腕の太い血管へと滑る。
「だが、一番の問題は……過剰なまでの魔力だ。あんたの魔力は強すぎる。風を操るたびに、魔力が血管を圧迫し、循環器に尋常じゃない負荷をかけている。このままじゃ、いつか内側から身体が壊れるぞ」
「……其方、なぜそれを……」
ヨタカの背筋に冷たい汗が伝った。この不調は、自分自身ですら「気のせい」として、あるいは「戦士の勲章」として強引に押し殺してきた感覚だった。それを、この初対面の記憶喪失の人間は、一度触れただけで的確に断言してみせたのだ。
ニキの瞳の奥には、すべてを見透かす底知れない冷徹さとヨタカに対する底深い興味、それを覆い隠すように「生かしたい」と願う深い慈愛が同居していた。
「……よし。原因は分かった。あとは、魔力の滞りを散らす薬草と……」
そこまで言って、ニキの顔から急激に血の気が引き、土気色に変わった。
底知れない観察眼を無意識に行使した代償か。限界を超えた身体が、急激に機能停止の防衛本能を働かせたのだ。
「おい、人間……ニキ!」
ヨタカの屈強な腕が、前へ倒れ込むニキの身体を咄嗟に支える。
先ほどまでの、すべてを見透かすような凄まじい威圧感は完全に消え去り、腕の中にあるのは、今にも命の灯火が消え入りそうな、ただの脆い人間の青年だった。
ニキはそのまま、深い眠りへと落ちていった。
彼が再び目を覚ますのは、丸三日後のこととなる。
次にニキが目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは、三日前と同じ天井と――そして、彫刻のように動かぬまま椅子に腰掛けるヨタカの姿だった。
「……起きたか。丸三日だぞ、人間」
呆れたような、だがどこか安堵の混じった声。ヨタカは腕を組んだまま、鋭い眼光をニキに向けた。
「三日……。そんなに眠っていたのか」
ニキは重い身体を動かし、寝台の上に上体を起こす。まだ頭の芯が痺れるような感覚があるが、観察眼はすでに冴え渡っていた。目の前の鷹獣人は、三日間ほとんど寝ずに自分の側にいたのではないか。羽毛の乱れや、微かな目の下の隈がそれを物語っている。
「……其方が拙者の不調を言い当てた後、そのまま倒れたからな。長老がお呼びだ。動けるなら、来い」
ヨタカに促され、ニキは初めて外の空気を吸った。
結界に守られた里は、どこか懐かしく、穏やかな時間が流れていた。道行くのは、立派な角を持つ鹿の獣人や、荷を運ぶ熊の獣人。誰もが突然現れた「人間」に驚き、遠巻きに眺めている。
案内されたのは、里の最奥に位置する、一際大きな石造りの館だった。
奥の椅子に鎮座していたのは、燃えるような黄金のたてがみを持つ獅子獣人――里の長、シガオだった。
「……よく来たな、人間。名はニキ、と言ったか」
シガオの声は、大地を震わせるような重厚な響きを持っていた。その横には、眉間に皺を寄せたヨタカが控えている。
「はい。……ですが、それ以上のことは思い出せません。自分がどこから来たのかも、なぜあんな怪我をしていたのかも」
ニキは淀みなく答えた。その言葉に嘘はない。記憶の深淵は依然として空白のままだ。
「ヨタカから報告は受けておる。其方、一度触れただけで、この最強の戦士の古傷と、魔力による内蔵の摩耗を見抜いたそうだな」
シガオの鋭い目が、ニキを品定めするように細められる。
「俺に分かったのは、彼の身体が限界を訴えているということだけです。俺には……この世界の医学と、薬学の知識があります。だから、目の前で苦しんでいる者がいれば、放っておくことはできません」
「医学、か……」
シガオはヨタカを見た後で一度目を閉じ、重々しく頷いた。
「この里は、結界によって外敵からは守られておる。だが、病や怪我に対しては無力だ。特に医学の専門の知識を持つ者が今はおらず、皆、古くからの言い伝えでの民間療法、用法用量の分からぬ里外から買った薬で乗り切っておるのが現状よ」
シガオは立ち上がり、ニキを真っ直ぐに見据えた。
「ニキよ。其方の記憶がないのは何とも不憫だが、その『知恵』はこの里にとって宝となる。もし良ければ、この里に留まり、皆の傷を癒してはくれぬか?」
ニキの胸に、確かな熱が宿った。
「……俺で良ければ。喜んで、力を貸します」
「決まりだ。ヨタカ、ニキのために場所を用意せよ」
シガオの命令に、ヨタカは短く「御意」と応えた。小さな空き部屋を用意してもらった。
ニキがシガオの元を去った後、シガオはヨタカに耳打ちした。
「ヨタカよ、あの者をしっかり監視するのだ。……お前には酷かもしれんが……」
「……御意」
数日後。
里の少し開けた場所に、新しい木造の建物が完成した。
それはニキの「診療所」であり、同時に彼が生活するための「家」でもあった。
「……ここが其方の城だ。生活に必要なものは見張り団で手配した」
ヨタカがぶっきらぼうに鍵を差し出す。
扉を開けてみると診療所は清潔感に溢れ、診療所の隣にはニキが寝泊まりするための私室、簡素ながらに道具の揃った台所が備わった簡素ながらに充実した家が併設されている。
「ありがとう、ヨタカ。……あんたの足首の湿布、薬草を調合して用意しておく。後で寄ってくれ」
「……拙者は忙しいと言っただろう。……だが、気が向けば寄ってやる」
そっぽを向くヨタカだったが、その耳のあたりの羽毛が、心なしか少しだけ逆立っている。
ニキは苦笑しながら、診療所の看板を掲げた。
記憶を失った異邦人の、この里での新しい日々が、ここから始まろうとしていた。




