凍てついた時計の針①
人の肉体に刻まれた傷跡の奥には、時に刃や獣の爪よりも深く、心に根を下ろしてしまった痛みがある。
強靭な肉体と冷徹な仮面で己を縛り付けていた不器用な戦士と、その横で道化を演じながら親友を案じ続けていた優しい男。二人が長年抱え込んできた悲しみと自責の念は、俺の想像を絶するほど深く、冷たいものだった。
俺は医者であっても、過去の悲劇を変えることはできない。
俺にできるのはただ、彼らが道しるべを見失わないよう、かつて彼らの背中を誰よりも愛していた友の「言葉」を届けることだけだった。
これは、過去の呪縛を乗り越え、再び共に笑い合えるようになった、不器用で真っ直ぐな親友たちの記録だ。
診療所の静謐な空気の中、微かな衣擦れの音だけが響いていた。
定期検診のため、上裸になって診察台に座るヨタカの背中を、ニキは冷ややかな、しかし確かな悲痛を帯びた瞳で見つめていた。
「……ヨタカ。あんたのこの傷は、異常だ」
ニキの指先が、ヨタカの鋼のような広背筋に刻まれた無数の傷跡をなぞる。魔獣の爪痕や刃の裂傷に混じって、筋肉の繊維が限界を超えて断裂し、無理やり癒着したような痕跡が幾重にも重なっていた。
「……見張り団の任務と、日々の鍛錬の結果だ。それ以上でも以下でもない」
ヨタカは前を向いたまま、感情のない声で答えた。だが、ニキは引き下がらなかった。
「嘘だ。鍛錬でつく傷じゃない。これは……限界を超えた痛みを、さらに強い痛みで上書きしようとした痕だ。あんたは何かから逃げるように、あるいは……自分自身を罰するように、身体を痛めつけている」
「……ッ」
「なぜ、こんなになるまで自分を厳しく鍛えるんだ。何をそんなに憎んでいる?」
ニキの静かで的確な問いは、ヨタカの心の最も脆い部分を容赦なく抉った。
「……黙れ」
ヨタカの肩が小刻みに震え始める。その金色の瞳が、かつてないほどの激しい動揺と焦燥に揺れた。
「……?どうした、ヨタカ」
「拙者のことに立ち入るなと言っているッ!!」
鼓膜を裂くような怒声と共に、ヨタカは弾かれたように立ち上がった。椅子が後ろに倒れて鈍い音を立てる。彼は着の身着のまま、逃げるように乱暴な足取りで診療所を飛び出していった。
残されたニキが呆然とその背中を見送っていると、部屋の隅で壁に背を預けていた副隊長のシドが、ゆっくりと近づいてきた。
いつも貼り付けている薄ら笑いは消え、そのトカゲ特有の縦長の瞳には、深い、あまりに深い哀愁が漂っていた。
「……話すべきか、ずっと悩んでたッスけど。……先生には、知っておいてほしいッス。あいつが、なんであんな風になっちまったのか」
シドは倒れた椅子を直して座ると、両手を深く組み合わせ、絞り出すように語り始めた。
「オレっちたちがまだ、兵士になりたての頃の話ッス。オレっちとヨタカ、それにもう一人……医者を志す、レインという明るくて優しい猫獣人の同期がいたんスよ。いつも三人で一緒で。……ヨタカは昔から生真面目だったけど、レインにだけはよく笑って、優しかった」
シドの視線が、遠い過去の幻影を追うように宙を彷徨う。
「オレっちは今みたいな口調じゃなくて、無口で、つまんねぇ男だったッス。でも、おしゃべりなレインと、不器用なヨタカがいて……本当に、バカみたいに毎日笑い合ってた。……でも、ある日。里から遠く離れた場所で、苦しんでる人がいるって話が入ったんス」
シドの組み合わせた手に、ギリッと力がこもる。
「レインは、先生と同じだった。誰かが苦しんでると聞けば、後先考えずに助けに行こうとする。オレっちもヨタカも、全力で止めたんス。結界の外は危険すぎる、見張り団の応援を待てって。……でも、あいつはオレっちたちを振り切って、一人で駆け出してしまった」
シドの声が、微かに震え始めた。
「数日後。里に帰ってきたレインは……全身血だらけで、息も絶え絶えになってた。見知らぬ誰かを庇ったらしく、背中に大きな傷まで作って……」
診療所の空気が、凍りつくように冷たく重くなる。
「それから何日も、オレっちとヨタカはあいつの寝床の側で、ずっと名前を呼び続けた。でも……レインは、オレっちたちが見守る中、一度も目を覚ますことなく……逝っちまったッス」
凄惨な過去の事実に、ニキは息を呑んだ。
「あの時からッスよ。ヨタカが、二度と私情を持たないと決めて、自分の優しい心を封印したのは。仕事と鍛錬に狂ったように打ち込んで、どんな相手にも冷酷な判断を下す『氷の隊長』になった。……オレっちは」
シドは顔を伏せ、苦しげに言葉を吐き出した。
「オレっちは、心が死んでいくヨタカに、なんて言葉をかけたらいいか分からなかった。レインが死んだ時、あいつの心の傷に寄り添うこともできず、ただ横で突っ立ってることしかできなかった。そんな自分が……今でも、殺したいほど腹立たしいッス」
後悔に苛まれるシドの姿に、ニキは胸を締め付けられた。何も言わずシドを抱きしめた。過去のことは何も変えられないとは分かっていてもそうしたかった。言葉は不要だった。
「……先生、苦しいっス」
「すまない、でも、こうしたくなったんだ。……さて、ヨタカを探してくる」
ニキはそう言い残し、診療所の扉を開けた。
だが、外へ出ようとしたニキの足は、すぐに止まった。
扉のすぐ横の壁。夜の闇に溶け込むようにして、ヨタカが背を預けて立っていたのだ。その顔は深く俯き、表情は読めない。だが、その耳の羽毛が小刻みに震えていることから、彼が今の話を全て聞いていたことは明らかだった。
「……ヨタカ」
「……少し、歩くぞ」
掠れた、ひどく弱々しい声だった。ヨタカはニキの顔を見ないまま、夜の里へと歩き出した。ニキも黙って、その大きな背中の後を追う。
月明かりの下を歩きながら、ヨタカは前を向いたまま、ぽつり、ぽつりと口を開いた。
「シドの奴……余計なことを。……あいつはな、ニキ。本当は誰よりも無口で、真面目で、不器用な男なんだ」
「えっ……」
「レインを失った時、声を出して泣けなかった拙者の代わりに、一番大声で泣き叫んでいたのはあいつだ。言葉を知らないあいつは、感情を殺した拙者を見て……拙者や周りを少しでも明るくしようと、あんなふざけた軽薄な口調を作って、道化を演じるようになった」
ヨタカの足取りが、まるで泥の中を歩くように重くなる。
「拙者は……シドが本当は生真面目な性格なのに、無理をして明るく振る舞っていると知っていながら、その優しさに甘え続けていた」
夜風が、ヨタカの悲痛な告白を運んでいく。
「お互いが癒えない傷を抱えていると分かっているのに。どう踏み込めばいいのか分からず、ただ『隊長と副隊長という立場』だけで会話をして、今日まで来てしまった。……触れ合えば、レインを思い出して崩れ落ちてしまうのが怖かった。拙者は……どこまでも卑怯で、弱い男だ」
自分の弱さを絞り出すように語るヨタカの横顔は、最強の戦士などではなく、ただ友の死と親友の優しさに押し潰されそうな、一人の青年のものだった。
やがて、二人の足が止まった。
辿り着いたのは、里の高台にある、美しい丘だった。見下ろせば里の穏やかな夜景が広がり、見上げれば息を呑むような満天の星空が広がっている。月明かりが、丘の上の古い切り株を優しく照らしていた。
「ここは……」
「昔、あの三人で……よく集まっていた場所だ。ここでお互いの未来についてよく語り合ったものだ……」
ヨタカは力なく切り株の側に座り込み、両手で顔を覆った。
彼の肩を震わせる無言の嗚咽が、静かな星降る丘に吸い込まれていった。
ニキは隣に座り、ヨタカの肩に手を回し肩を撫でた。




